南史卷六十一 列傳第五十一 陳伯之

生涯

  • 陳伯之、済陰睢陵の人。少年時代は獺皮の冠を被り刀を帯びて村々を回り、稲が実ると盗み刈っては田主に脅されても「稲を一担取るだけでどうしたというのか」と刀を抜いて逆に脅す乱暴者だった。長じて鍾離で強盗を繰り返し、船人と争って左耳を斬られたこともある。同郷の車騎将軍王広之に従い勇を愛され、征伐に常に随行して驃騎司馬・魚復県伯に累進した。
  • 梁武帝挙兵時、東昏侯側で豫州刺史から江州刺史に転じ尋陽に拠って抗したが、梁武帝の説得を受け江州刺史のまま帰順(子の虎牙は徐州刺史)。なお動揺したため南湖に退いたのち改めて帰順し諸軍とともに建康へ下ったが、降人が出るたびに耳打ちする様子を武帝に疑われた。東昏侯の将鄭伯倫が降る際、武帝は伯之に「もし降らねば手足を割く、刺客を送るなら殺す」と迫り、伯之は恐れて叛意を断ったという。建康平定後、豊城県公に封じられ江州鎮守に戻った。
  • 伯之は文字を知らず、訴訟の文牒には「大諾」と書くのみで実務は典籤の口頭決裁に委ね、旧知の豫章の鄧繕・永興の戴承忠を重用した。褚緭という素行不良者が范雲に取り入ろうとして拒まれ、恨みから伯之に接近して謀反を唆した。長流参軍朱龍符も伯之の愚を利用して姦悪を働き、武帝が龍符の罪を摘発し子虎牙に示しても、伯之は龍符・鄧繕(代わりの別駕)ともに罷免を拒んだ。繕が「台家の府庫は空、今が好機」と説き、緭・承忠も賛同し、伯之は挙兵を決意して斉建安王の教と称し義勇十万が迫ると宣言、偽の書を示して壇を築いて盟った。長史程元沖を退け緭が推す王観を長史とし、緭を尋陽太守、承忠を輔義将軍、龍符を予章太守とした。
  • 鄭伯倫が郡兵を起こして拒み、程元沖も数百人を集めて典籤呂孝通・戴元則を内応させ、伯之が油断した隙に元沖が攻め入り伯之は敗走した。虎牙兄弟は盱眙に逃げるが土豪徐文安・荘興紹・張顕明に殺害される。武帝は王茂に討伐を命じ、伯之は敗走して江北へ逃れ、子虎牙・褚緭とともに魏へ亡命。魏は伯之を使持節散騎常侍・都督淮南諸軍事・平南将軍・光禄大夫・曲江県侯に任じた。
  • 天監四年(505年)臨川王宏の北伐に際し、記室丘遅が伯之に帰順を勧める書簡を送った(要旨:勇冠三軍の将軍が虜の身に落ちた不遇を惜しみ、朝廷の寛大な赦を説き、「暮春三月、江南草長、雑花生樹、羣鶯乱飛」の一節で故郷への望郷を促し、北魏の内紛を説いて翻意を勧める名文)。伯之はこれを受け寿陽で八千の兵とともに帰順(虎牙は魏人に殺害された)。伯之は平北将軍・西豫州刺史・永新県侯に任じられるが赴任せず、驍騎将軍・太中大夫を歴任し家で卒した。子の一部は魏に残った。褚緭は魏で元会の詩により魏人を怒らせ始平太守に左遷され、狩猟中に落馬して死んだ。