南史卷五十八 列傳第四十八 裴邃
裴邃、字は深明、河東聞喜の人。魏から梁へ帰順した後、辺境の廬江太守・豫州刺史として長く魏との戦いに従事した武将。屯田の開発や恩恵をもって民を治め、寿陽をめぐる戦いで数々の戦功を挙げたが、大功を成す前に陣中で病を得て没した。韋叡と並び梁の名将として惜しまれた。
若年から梁への帰順
- 裴邃、字は深明、河東聞喜の人。魏の冀州刺史裴徽の後裔。祖の寿孫は寿陽に寓居し宋武帝の前軍長史、父仲穆は驍騎将軍。邃は10歳で文を能くし左氏春秋に長じた。斉東昏侯の時、始安王蕭遥光の揚州刺史府参軍となったが、遥光の敗死後は寿陽に戻り、刺史裴叔業の魏への降伏に伴い北へ移った。
- 魏宣武帝に重んじられ魏郡太守となったが、王肅が寿陽に鎮する際、密かに南帰を図り天監初に脱出して梁に帰順、後軍諮議参軍・廬江太守として辺境で活躍。天監5年(506年)邵陽洲攻略戦では、魏が築いた長橋を断つべく塁を築いて逼り、密かに没突艦を用意し豪雨・淮水増水を機に橋の側面を突いて大破、夷陵県子に封ぜられた。
- 広陵太守として郷人と魏武廟を訪ね帝王の功業を論じたところ、妻の甥王篆之が「裴邃は大言を吐き不臣の跡がある」と武帝に密告し始安太守に左遷された。志を辺境の立功に置いていた邃は呂僧珍に「三度目の始(始興・始安等)は望むところではない」と書を送り不満を漏らした。
辺境での軍功
- 竟陵太守として屯田を開き公私ともに便益を得た。西戎校尉・北梁秦二州刺史として再び屯田数千頃を開き倉廩を充実させ辺運の負担を軽減、民が絹千余匹を贈ろうとしたが「そなたらの気持ちだけで十分」と2匹のみ受け取った。大匠卿を経て、普通2年(521年)義州刺史文僧明が魏に投降した際、信武将軍として督軍・討伐、魏の義州刺史封寿を檀公峴で破り義州を平定させた。
- 豫州刺史・督鎮合肥。天監四年(普通四年、523年)の北侵で督征討諸軍事として寿陽の外郭を襲い一日9合の激戦を演じたが、後軍蔡秀成が道に迷い援軍を欠き撤退。士卒を再編し諸将に服色で識別させ、邃自身は黄袍で先陣を切り、狄邱・甓城・黎漿を落とし安成・馬頭・沙陵などの砦を屠り、翌年には汝潁間まで略地して各地が呼応した。
- 魏の寿陽守将長孫承業・河間王元琛が城を出て挑戦した際、邃は「今日破らねば河間王に謝玄(淝水の戦い)の故事を笑われる」と語り、四方に伏兵(四甄)を設け直閤将軍李祖憐の偽装退却で承業を誘い込み、伏兵を発して大破、斬首万余、承業は敗走し門を閉ざして出なくなった。
- 軍中で重病を得ると衆軍に守備を命じ喪を合肥へ送るよう遺言、まもなく没した。侍中・左衛将軍を追贈、侯に進爵、烈と諡された。邃は思慮深く政に寛明、身は方正で威重があり将吏に恐れられた。没するや淮肥の間で流涕せぬ者なく、生きていれば大いに国土を開いたであろうと惜しまれた。
子之礼・之高・之横・之忌ら(附伝)
- 子の之礼(字子義)は容姿・玄理の弁論に優れ、西豫州刺史。母の喪に麦飯のみで服した。邃の廟は光宅寺西に堂宇宏大に建ち、范雲の廟は三橋にあって荒れ果てていた(梁武帝は南郊の途上「范は既に死し、裴は生き返ったかのようだ」と嘆いた)。大同初、都下の旱蝗の被害でも邃の墓だけは草木が食い荒らされず、当時人々に異とされた。
- 之礼は黄門侍郎を経て、武帝が無遮会を催した際、儛象が驚いて陛衛を突き破り公卿がみな散る中、之礼は散騎常侍臧盾とともに動じなかったため、帝はその壮を賞し壮勇将軍・北徐州刺史とした(臧盾は中領軍将軍を兼ねた)。少府卿で没し壮と諡された。子の政は承聖中に給事黄門侍郎、魏の江陵陥落で長安に連行された。
- 邃の兄髦の子之高(字如山)は叔父邃に従って各地で戦功を挙げ、邃の死後は夏侯夔に従い寿陽を平定、梁郡太守・都城県男。魏の汝陰帰順の際は潁州刺史として応接。父の喪ののち光遠将軍として陰陵の賊を討ち譙州刺史。
- 侯景の乱では西豫州刺史として救援、南豫州刺史鄱陽嗣王範の命で江右諸軍の総督として張公洲に屯し、栁仲禮が横江に至ると船を送って迎えた。青塘の戦いに参加し敗れて合肥に還り、鄱陽王範とともに西上、元帝に召され侍中・護軍将軍として江陵に至った。
- 弟の之悌が侯景陣営にあり、「之悌が景を斬った」との誤伝が流れた際、元帝が確認の使者を送ると之高は言を発せず「賊は自ら殺し合ったにすぎない」とだけ答え、その介直さを深く嘆賞された。特進・金紫光禄大夫を承制で授かり没し恭と諡された。子の畿は太子右衛率、魏の江陵陥落で力戦して死んだ。
- 之高の五番目の弟之平(字如原)は倜儻で志略あり軍功により費県侯。散騎常侍・太子詹事を歴任、陳文帝の初、光禄大夫・慈訓宮衛尉に召されたが応じず、山を築き池を掘り草木を植えて隠棲、天康元年(566年)没し僖と諡された。子は忌。
- 忌(字無畏)は聡敏で識量に富み史伝に通じた。侯景の乱で陳武帝に従い、武帝が王僧辯を誅した後、その弟僧智が呉郡で挙兵すると忌は精兵を率い夜襲で吳郡を奪還し武帝に賞された。呉郡太守、天嘉5年(564年)衛尉卿・東興県侯。華皎の乱では宣帝の下で中外城防諸軍の総知を委ねられ、宣帝即位後は楽安県侯に改封、都官尚書を歴任。
- 呉明徹の北伐では監軍として淮南平定後の豫州刺史となり、明徹の彭汴進軍にも従い呂梁の戦いで捕虜となり周に上開府として仕えた。隋開皇14年(594年)73歳で長安に没した。
- 之高の12番目の弟之横(字如岳)は賓客との交遊を好み産業を顧みなかった。之高が窮乏させて激励すると「大丈夫たるもの富貴になれば百幅の被(大きな夜具)を作ってみせる」と奮起し、大規模な田荘経営で財を成した。梁簡文帝の東宮常侍・直閤将軍を経て、侯景の乱では鄱陽王範に従い景と戦い、江渡来の景軍に対し範の子嗣とともに台城に入り援軍、陥落後は合肥へ退いた。
- 侯景配下の任約が晋熙に迫った際、範の命で援軍に赴いたが範が薨じ引き返した。尋陽王蕭大心の江州にあって、範の副将梅思立が大心の盆城襲撃を密謀した際、之横は思立を斬って大心の降伏を防いだ(結局大心は侯景に降伏)。その後兄之高とともに元帝に帰し廷尉卿・河東内史、王僧辯に従い侯景を撃退、東徐州刺史・豫寧侯。
- 王僧辯の景平定後の追撃戦にも従い、杜崱とともに台城を守り、陸納の湘州反乱討伐にも参加し将李賢明を破った。武陵王討伐にも功を挙げ、吳興太守として百幅の被を作りかつての志を果たした。魏が江陵を陥した際、斉の上黨王高渙が貞陽侯蕭淵明を助けて東関を攻め、晋安王(承制)が之横を徐州刺史・都督衆軍として蘄城を守らせたが、営塁未完のうちに斉の大軍が至り、兵尽き矢窮まって陣没した。司空を追贈、忠壯と諡された。子の鳳寶が跡を継いだ。
史論
- 韋叡・裴邃はともに若くして学問に励んで身を立て、晩年は戎馬に駆けて功を著した。叡の勝利を制する道を見れば、まさに魁梧の傑物というべきだが、その体は羸瘠で馬にも跨らず板輿で指揮するのみ、それでいて敵国を隠然と震わせた――その器量にふさわしい隆名であった。
- 邃は辺境に効を尽くしながら盛んな功業を遂げる前に世を去り、まことに悲しむべきである。両家の子弟がそれぞれ名節を著し梁朝と終始をともにしたのは、「将門に将あり」の言葉が虚しくないことを示している。