南史卷五十八 列傳第四十八 韋叡

韋叡、字は懐文、京兆杜陵の人(?-520年)。三輔の名家の出で、梁武帝の挙兵に一族を挙げて参じ、小峴城・合肥・鍾離の戦いなど数々の戦功で梁初の名将となった。虚弱な体で馬に乗らず板輿に乗って督戦しながら魏軍を度々撃破し、裴邃と並び梁の名将と称された。将兵への仁愛や謙譲の美徳でも知られ、79歳で没した。

年表(11件)

出自と若年期

  • 韋叡、字は懷文、京兆杜陵の人。三輔の名家の出。祖の玄は隠棲して長安南山にあり、宋武帝の関中入りに際し太尉掾に徴されたが応じなかった。伯父の祖征は宋末に光禄勲、父の祖帰は寧遠長史。叡は継母によく孝行した。
  • 祖征は郡守として叡を伴い我が子のように扱った。叡が内兄王憕・姨弟杜惲に劣らぬ郷里の名声を得ていることを問われると、祖征は「文章はやや劣るが学識は勝り、国のため功業を成すのは汝にしか及ばぬ」と評した。
  • 外兄杜幼文の梁州刺史赴任に随行、賄賂で失脚する者が多い中、叡は幼くして廉潔で通った。宋永元初、雍州刺史袁顗に見出され主簿となったが、顗が鄧琬と挙兵した際は義成郡への転出を求めて禍を免れた。斉興太守・本州別駕・長水校尉・右軍将軍を歴任、斉末の混乱を避けて上庸太守を求めた。

梁武帝の挙兵に参じる

  • 太尉陳顕達・護軍将軍崔慧景が相次いで建鄴に迫り人心が動揺する中、叡は「陳は名将だが人物に非ず、崔も武才に欠く。真に興る者はわが州(雍州)から出よう」と読み、密かに息子二人を梁武帝の下に送った。武帝挙兵の檄が至ると、叡は郡人を率い竹を伐って筏を作り倍道で駆けつけ、衆2千・馬200匹を率いた。武帝は喜び「他日は君の顔を見たが、今日は君の心を見た。事は成るだろう」と迎えた。
  • 郢・魯(茄湖)の攻略で叡の建策が多く用いられ、大軍が郢を発する際の留守将には「騏驥を捨てて誰を求めるか」と叡が選ばれ、江夏太守として郢州府事を代行。郢城攻防戦で疫病により多数の死者・病者が出た際は隠恤に努め民に頼りにされた。
  • 梁台建国で大理に徴され、武帝即位で廷尉・梁都子(天監2年、永昌に改封)。豫州刺史・厯陽太守として魏軍を撃退。天監4年(505年)魏侵攻に対し督衆軍として長史王超宗・梁郡太守馮道根に小峴城を攻めさせたが陥ちず、叡自ら囲柵を巡視。魏軍数百が城外に出た際、諸将は「軍を整えてから戦うべき」と主張したが、叡は「城内二千余は自守で足りるのに敢えて出たのは驍勇の証。今その鋭気を挫けば城も落ちる」と即座に攻撃を命じ、節(軍権の象徴)を示して「これに背く者は許さぬ」と諸将を従わせた。魏軍を破り、一夜のうちに小峴城を陥落させた。

合肥攻略

  • 合肥へ進撃。右軍司馬胡景略が久しく攻略できずにいたところ、叡は地形を視察し「汾水で平陽を灌漑した故事の如く」肥水を堰き止め、水路で舟艦を通した。魏は肥水を挟み東西の小城を築き対抗。援軍の楊霊胤5万が至った際、諸将は増兵を求めたが、叡は「賊が既に城下に至ってから増兵を求めても遅い。天の時を得るのは和にある」と応じて戦い、これを撃破した。
  • 王懐静が築いた堰の守備城が魏に陥ち魏軍が迫った際、軍監潘霊祐は巣湖への撤退を、諸将は三丈城への撤退を進言したが、叡は「将軍たるもの死しても退かず」と怒り、傘・幢を堤下に立てて動揺せぬ意志を示した。虚弱な体で騎馬に乗らず板輿に乗って督戦し、魏軍が堤を破ろうとするたびに自ら争って阻止し、魏軍を退けて堤の傍らに塁を築き、闘艦を合肥城に匹敵する高さまで建てて四面から圧迫、ついに城を陥として一万余を捕獲した。得た軍実は私せず全て軍に還元した。
  • 胡景略と前軍趙祖悦の不和が深刻化した際、叡は酒を酌んで「両虎は争わぬように」と諭し禍を防いだ。日夜怠らず軍務を処理し(昼は客を接し夜は軍書を検め三更に起き灯を張り朝まで及ぶ)、募兵に慕われた。凱旋の際は魏軍の追撃を懼れず、輜重を先に、自らは小輿に乗り殿軍として最後尾に立ち、魏軍は叡の威名を恐れ手を出さなかった。合肥平定後、豫州治所は合肥に移された。

鍾離の戦い

  • 天監5年(506年)魏の中山王元英が北徐州を攻め、鍾離の刺史昌義之を百万の兵と40余城で包囲。武帝は征北将軍曹景宗を派したが邵陽洲で進撃を躊躇。帝は叡に督軍を命じ龍環御刀を賜い「命に従わぬ将は斬れ」と厳命した。
  • 叡は合肥から陰陵大澤・澗谷を経て、水に橋を架けつつ進軍。魏軍の大兵を懼れて緩行を勧める者に「鍾離は今、穴を穿ち門に向かって水を汲むほどの窮地にある。急いでも間に合わぬかもしれぬのに、なぜ緩めるのか」と述べ、10日で邵陽に到達した。
  • 帝は曹景宗に「韋叡は郷望の人、よく敬え」と勅し、両将は和した(「二将和すれば師は必ず成る」と帝は喜んだ)。景宗の陣前二十里に、一夜で長い塹壕・鹿角・洲を跨ぐ城塁を築き、元英を「これは何の神業か」と驚愕させた。
  • 景宗は文逹・洪騏驎らを募って救援の勅書を城中に届けさせ、士気は大いに上がった。魏将楊大眼の1万余騎が来襲した際、叡は車を連ねて陣を組み、強弩2千を一斉に発射して大眼の右腕を貫き敗走させた。翌日、元英自ら攻めたが、叡は素木の輿に乗り白角如意を執って一日数度指揮し、その強靭さに元英も恐れをなした。
  • 夜襲の際、子の黯が城を下りて避難を進言したが叡は許さず、城上で厳しく叱咤して軍を鎮めた。魏軍は邵陽洲の両岸に橋を築き柵を連ねて糧道を通していたが、叡は大艦を装備し、梁郡太守馮道根・廬江太守裴邃・秦郡太守李文釗らを水軍として編成、淮水の増水を機に一斉に出撃、草を積んだ小舟に膏を注いで橋に焚きつけ、風と火の勢いで橋を焼き落とした。敢死の兵が柵を抜き橋を断つと、道根らも肉薄戦を展開し軍は奮い立ち、一人で百人に当たる勢いで魏軍を大破。元英は脱出、魏軍は水死者10余万、斬首もこれに並び、残る数十万も投降した。
  • 昌義之は勝報に泣いて「更生、更生」と叫ぶのみだった。帝は中書郎周捨を派して淮上で労い、周捨は捕獲物の山を見て「この戦果は熊耳山の戦いに匹敵する」と評した。功により侯に進爵。

晩年

  • 天監7年(508年)左衛将軍、安西長史・南郡太守を経て、司州刺史馬仙琕が三関で魏に圧迫された際は督軍として救援、安陸に至り城壁を二丈増築し塹壕を深め高楼を築いた(「弱さを示す」と譏られたが、叡は「将たる者は時に怯を装うもの」と応じた)。元英が仙琕を再攻しようとしたが叡の到着を聞いて退いた。
  • 天監13年(514年)丹陽尹、天監14年(515年)雍州刺史。挙兵時に泣いて止めた旧知の陰雙光が州へ来ると、叡は笑って「もし公の言に従っていたら路傍で乞食していただろう」と語り耕牛10頭を贈った。旧知には惜しみなく施し、70歳以上の士大夫には仮に県令の板を与えるなど郷里に慕われた。
  • 天監15年(516年)致仕を願ったが許されず、護軍に任じられ鼓吹一部を賜り殿省に入直。武帝に厚く礼遇され、性は慈愛深く兄の子を実子以上に慈しんだ。俸禄・賞賜はみな親故に分け与えた。護軍として家にあっても万石君・陸賈の生き方を慕い壁に描いて自ら戒めとした。老いても子弟の学問を課し、三男の稜は経史に明るく評判だったが、叡が説書させると稜も及ばぬほどであった。
  • 武帝が仏教に傾倒し天下が靡く中、叡は自らの信心が薄く大臣として付和雷同を好まぬとして、他日と変わらぬ態度を貫いた。普通元年(520年)侍中・車騎将軍に遷るも拝命前に79歳で没した。遺言で薄葬・時服での斂葬を命じ、武帝は自ら哭して慟哭、車騎将軍・開府儀同三司を追贈し嚴と諡された。
  • 叡は曠世の器量を持ち、人に接するに愛恵を本とし、政績を常に挙げた。将兵にあっても士卒への仁愛を第一とし、幕舎が建つまで自らも休まず、井竈が整うまで食事もしなかった。服装は常に儒者風で、陣頭でも常に緩やかな服のまま竹如意を執って指揮した。裴邃と並び梁の名将として並ぶ者がなかった。
  • 邵陽の戦いののち曹景宗と賭博の席を共にした逸話(叡が勝ち目を得ながら子を返し「これは異事」と負けを演出した)が伝わり、諸将が勝報を先に奏上して争う中、叡は独り控えめであった――この不争の姿勢が世に賢とされた。
  • 叡の兄纂・闡はともに早くから名を知られた。纂は斉で司徒記室・特進を務め、沈約に「陛下がこの人と同時代でなかったことが惜しい」と評された。闡は建寧県令として得た俸禄百余万をみな伯父に譲り、郷里の宗族から慕われ通直郎となった。

子放・粲(附伝)

  • 子の放(字元直)は身長7尺7寸、腰帯8囲の偉丈夫で、永昌県侯の爵を継ぎ竟陵太守として治績を挙げた。大通元年(527年)渦陽征討で明威将軍として出陣、魏の大将軍費穆の急襲に営構未整の中わずか200余で応戦。従弟の洵が勇戦、放自身も甲冑に矢3本を受けたが「今日はただ死あるのみ」と兜を脱ぎ馬を下りて胡床で指揮、全軍が一人百人力の奮戦で魏軍を渦陽まで撃退した。
  • さらに常山王元昭・大将軍李奬・乞伏寶・費穆ら5万の来援も大破、渦陽城主王偉が降伏、魏軍は総崩れとなり穆の弟超・王偉を捕らえて建鄴に送った。太子右衛率、中大通2年(530年)北徐州刺史として在鎮のまま没し宜侯と諡された。
  • 放は篤実で財を軽んじ施しを好み、兄弟仲は睦まじく(三姜に喩えられた)、呉郡の張率と互いの側室の子を許婚とし、率の死後もその遺児を面倒見て、後に貴族からの縁談を「旧友への信を失わぬ」と断り、約束通り率の子女と婚姻を結んだ。
  • 子の粲(字長倩)は身長8尺、父に似た気風。雲麾晉安王行参軍・外兵参軍を経て歩兵校尉・東宮領直、永昌県侯を継ぎ右衛率領直。旧恩により重用されたが権を頗る擅にし驕倨で同輩に嫌われた(右衛朱昇に酒席で「なぜ領軍のような態度か」と難詰された)。
  • 大同中、武帝が急病になった際、粲が宮甲を率い台に入り喜色を見せ長梯(大行幸の際の遺体運搬用)を用意させたことが帝の耳に入り「韋粲はわが死を望んでいる」と怒られ、有司の弾劾に対し帝は「各々その主のため」と不問に付し、粲は衡州刺史に出された。皇太子は新亭で「久しく別れることはない」と粲を送り出し、のち散騎常侍として召還された。
  • 廬陵にあって侯景の乱の報に接し、部下を率い倍道で豫章に急行、内史劉孝儀が慎重論を唱えたが、粲は「賊は既に江を渡り宮闕に迫っている。今さら勅を待つ余地はない」と杯を地に叩きつけ即座に出撃した。江州刺史当陽公蕭大心に「上游の藩鎮の中で江州が最も都に近い。まず軍勢を張り盆城に移鎮すべき」と進言し容れられ、栁昕率いる2千の兵を得て南洲に至った。
  • 外弟の司州刺史栁仲禮が横江に至ると糧仗・私財を給し、安北鄱陽王範の西豫州刺史裴之高・その子嗣とも合流、新林・王游苑に進出。粲は仲禮を大都督に推挙したが、之高は年齢・地位を理由に難色を示した。粲は「今は国難に同赴する時、賊に最も恐れられ兵馬に優れる仲禮を推すのは当然。人心の不一致は大事を損なう」と単独で之高の陣に赴き説得、之高も涙して同意した。
  • 諸軍は新亭に進み侯景と対峙、仲禮は粲の営で軍議し、粲には青塘(石頭への要路)への布陣が割り当てられた。粲は柵塁が未完のまま賊に攻められることを懸念したが、仲禮に「兄でなければ任せられぬ」と説得され出撃。夜霧のため軍が道に迷い、青塘到着時には夜も更け柵は未完のまま夜が明け、景の軍が奇襲、営は陥落し粲は左右に避難を勧められても動かず、兵は壊滅、粲自身も討ち死にした。子の尼、三弟の助・警・構、従弟の昂もすべて戦死し、親戚の死者は数百人に及んだ。
  • 賊は粲の首を闕下に晒し、簡文帝は落涙して御史中丞蕭愷に「社稷の頼みは韋公にあったのに」と嘆いた。護軍将軍を追贈、元帝が侯景を平定した後に忠貞と諡された。子の諒は陳の始興王叔陵に中錄事参軍・記室として仕えたが、叔陵の乱で誅に伏した。

子正・載・鼎・稜・黯(附伝)

  • 放の弟正(字敬直)は襄陵太守。かつて東海の王僧孺と親交があり、僧孺が吏部郎として選挙を掌った時も他の友人が阿ることなく澹然としていた。僧孺失脚後もかえって交誼を篤くし論者に称された。給事黄門侍郎で没した。
  • 正の子載(字徳基)は幼くして聡慧で12歳のとき叔父稜に伴われ沛国の劉顯を訪ね、漢書10題に淀みなく答えた。梁で尚書三公郎、侯景の乱後は元帝の中書侍郎、尋陽太守、都督王僧辯の東討に従い侯景平定後は琅邪・義興太守を歴任。
  • 陳武帝が王僧辯を誅した際、周文育に義興を攻められたが、載は籠城し、旧陳武帝麾下の善弩兵数十人を鎖で繋いで督戦させ(10発中2発外せば死という約束で)文育軍を撃退した。武帝が梁敬帝の勅で解兵を諭す書を送ると降伏、以後は武帝の側近として謀議に参与。
  • 徐嗣徽・任約が斉軍を率い石頭を占拠した際、載は「斉軍が三呉への路を分取すれば大事は去る。淮南に急ぎ城を築いて東道を扼し兵糧を絶てば旬日で敵将の首を得られる」と献策し容れられた。永定中、散騎常侍・太子右衛率、天嘉元年(560年)病で辞官、江乗県の田十余頃に隠居し人事を絶ち幾十年を過ごして没した。
  • 載の弟鼎(字超盛)は経史・陰陽・相術に通じ、梁で湘東王法曹参軍、父の喪に5日間水漿を絶ち哀毀。侯景の乱で兄昂の戦死体を寄棺できず嘆いていたところ、江中に流れ着いた新棺で葬った奇瑞があり元帝に「精誠の感応」と評された。
  • 侯景平定後、王僧辯の戸曹屬・中書侍郎を経て、陳武帝が南徐州にあった頃、望気によりその将来を予見して身を寄せ、「明年大臣が誅死し、4年後に梁が終わり、天命は舜の後裔(陳氏の始祖)に帰る」と予言、武帝の決意を助けた。受禅後、黄門侍郎・太建中の廷尉卿として聘周使、後に太府卿。至徳初、田宅を売り払い僧寺に寓居し「江東の王気は尽きた。長安で葬られよう」と友人毛彪に語った。
  • かつて聘周の折、後の隋文帝から重んじられていたため、陳滅亡後は上儀同三司として厚遇された。文帝が「韋世康との親疎」を尋ねた際、鼎は「宗族が南遷し疎遠は知らぬ」と答えたが、帝は「卿百代の名族、本を忘れるな」と韋氏譜7巻の編纂(太傅孟以下20余世の昭穆を考定)を促した。
  • 蘭陵公主の再嫁の相手選びで栁述・蕭瑒の相を占い「瑒は封侯するが妻に恵まれず、述は顕位に就くが守位を全うできない」と評し、位は結局降嫁で決した。開皇13年(593年)光州刺史として仁義の教化に努め、劫盗の首謀者を見抜いて自首させ、姦計を見抜いた冤罪(客が妾殺しの罪を着せられていた事件)を晴らすなど神明と称された。79歳で長安にて没した。
  • 正の弟稜(字威直)は書史をもって業とし博物強記、光禄卿で没し『漢書続訓』2巻を著した。稜の弟黯(字務直)は太府卿。侯景の江渡来襲時、六門・城西面諸軍の都督として西土山を守り昼夜苦戦、輕車将軍を加えられ城内で没した。かつて甥の粲が左衛率として先んじたことを不満に思っていた(「韋粲は既に驊騮の前を行く」と語ったという)。