南史卷五十九 列傳第四十九 江淹

江淹、字は文通、済陽考城の人。宋・斉・梁の三朝に仕えた文人官僚で、幼くして父を失い貧窮の中で学問に励んだ。荊州刺史沈攸之の反乱の帰趨を的確に予言する等の識見でも知られ、梁武帝の代には散騎常侍・左衛将軍等を歴任した。晩年は「江郎才尽く」の故事で知られるように文才の衰えを噂されたが、著述家・史家としても業績を残した。

年表(4件)
  • 永元中崔慧景挙兵に際し病と称して従わず、後にその先見の明が評価される
  • 建元2年480年史官設置に伴い司徒左長史檀超と条例を掌るが行われず
  • 永明3年485年尚書左丞を兼ねる
  • 天監元年502年散騎常侍・左衛将軍となり臨沮県伯に封ぜられる

出自と若年期

  • 江淹、字は文通、済陽考城の人。父康之は南沙令、才思に富んだ。淹は幼くして父を失い貧しく育ち、司馬相如・梁鴻の生き方を慕い、章句の学を事とせず文章に情を寄せた。若くして髙平の檀超に認められ厚遇された。南徐州従事・奉朝請を経て、宋の建平王景素に従い南兗州にあった。

獄中書と建平王への諫言

  • 広陵令郭彦文の罪に連座し、収賄の疑いで投獄された。獄中から建平王への上書で、賤臣の忠を疑われた古の故事を引き、「士には一定の論あり、女には易えざる行いあり。信じられながら疑われ、貞であって戮せられる――だからこそ壮士義士は死を恐れない」と訴え、蓬戸桑樞の貧しい出自から抜擢された恩義を述べつつ、身の潔白と無実を切々と訴えた。景素は書を読むや即日淹を釈放した。
  • 南徐州秀才に挙げられ対策上第、府主簿に再任。景素の荊州赴任に従い、少帝の失徳の中で景素が上流に拠って挙兵を勧められた際は繰り返し諫止した。京口鎮守に従い鎮軍参軍・南東海郡丞となったが、景素が腹心と日夜謀議するのを見て禍の兆しを察し、諷諫の詩15首を贈った。
  • 東海太守陸澄の服喪に伴い郡丞として代行を望んだが景素は司馬栁世隆を用い、淹が強く求めたため景素は怒り選部に讒言し建安の呉興令に左遷された。

斉髙帝への予言、荊州の乱

  • 斉髙帝の輔政期、尚書駕部郎・驃騎参軍事に召された。荊州刺史沈攸之の反乱に際し、髙帝の「天下がこう乱れているが、どうなると思うか」との問いに、淹は「項強く劉弱く、袁衆く曹寡なかったが、項羽は一剣の辱を受け、袁紹は敗走の虜となった。これは徳の在り処によるもので、鼎(実力)の多寡ではない」と応じ、髙帝の求めに応じて公の五勝(雄武で奇略あり、寛容仁恕、賢能が力を尽くす、人望が帰す、天子を奉じて叛逆を伐つ)と攸之の五敗(志は鋭いが器小、恩あって威なし、士卒の離反、士大夫の不服、数千里の孤軍で助けなし)を数え上げ、「豺狼十万といえど終には公に獲られよう」と説いた。
  • 中書省に召され、酒食(鵞の炙り、酒数升)を賜った後もすぐに文誥を仕上げる才を示した。相府建国の際は記室参軍、髙帝が九錫を辞退する諸章表もみな淹の起草によった。

斉から梁への栄達

  • 斉受禅後は驃騎豫章王嶷の記室参軍。建元2年(480年)史官設置に伴い司徒左長史檀超と条例を掌ったが、その議論が王儉に却下され行われなかった。任性で文雅、著述には無頓着で撰した13篇も次序を欠いていた。東武令・詔策掌管を経て中書侍郎、王儉に「卿は25歳で中書侍郎、この才学なら尚書・金紫も遠くない、あとは寿命次第」と評された。
  • 永明3年(485年)尚書左丞を兼ね、襄陽で発掘された古墳の玉鏡・竹簡(王僧虔も判読できなかった科斗文字)を周宣王時代のものと推定した。少帝初、御史中丞を兼ね、明帝(当時輔政)から「厳明中丞」と称され、中書令謝朏・司徒左長史王繢・護軍長史庾弘遠を託疾(山陵の公事を怠った罪)で弾劾、前益州刺史劉悛・梁州刺史陰智伯を贓貨巨万の罪で廷尉に送り、臨海太守沈昭略・永嘉太守庾曇隆ら多数の郡守も弾劾し、内外は粛然とした。明帝は「宋以来これほど厳明な中丞はいなかった」と評した。祕書監・侍中・衛尉卿を歴任。
  • 13歳のとき貧窮のうちに薪を採って母を養った折、貂蟬(侍中の飾り)を得て売ろうとした際、母は「これはお前の吉兆だ。侍中の位を得るまで取っておけ」と諭し、後年その言葉通りとなった。永元中、崔慧景が挙兵し都を囲んだ際、多くの官人が名刺を投じたが淹は病と称して従わず、事後にその先見の明が評価された。東昏侯末は祕書監兼衛尉、さらに領軍王瑩の副を兼ねたが、梁武帝が新林に至ると微服で帰順、相国右長史となった。
  • 天監元年(502年)散騎常侍・左衛将軍・臨沮県伯。子弟に「わが本分は素官、富貴は求めなかったが、今やこの高位に至った。人生の楽しみ・富貴に何を望むことがあろうか、功名はすでに立った。今後は草莱に帰身したい」と語った。病により金紫光禄大夫に遷り醴陵侯に改封、没すると武帝は素服で挙哀し憲と諡された。

才尽くの逸話と著作

  • 若くして文章で名を馳せたが晩年は才思が衰えたと言われた。宣城太守を罷めて帰る途中、禅霊寺に泊まった夜、張景陽(張協)と名乗る人物が夢に現れ「かつて貸した錦を返せ」と言い、探ると数尺しか残っておらず、相手は怒って邱遲に「残りは使い道がないので君に譲る」と告げたという――以後、淹の文章は衰えたとされる。
  • 別の夜には冶亭で郭璞と名乗る人物が夢に現れ「わが筆を長年預けているが返してほしい」と言い、五色の筆を差し出すと受け取って以後、詩に佳句がなくなり「才尽く」と評された。前後の集を自撰し、斉の史伝・志も編んだ。かつて『赤県経』を撰して『山海経』の欠を補おうとしたが完成しなかった。子は蒍が跡を継いだ。