南史卷五十六 列傳第四十六 張𢎞䇿

張纘、字伯緒、従伯張𢎞籍(梁武帝の舅)の後を継ぎ、梁武帝の女婿となった(?–?、岳陽王蕭詧配下の兵に殺害される)。学識豊かで早くから栄達し、吏部尚書・尚書僕射を歴任したが、河東王蕭誉との確執から侯景の乱の混乱に巻き込まれ非業の死を遂げた。諡は簡憲公。弟の張綰も御史中丞などを歴任した。

年表(7件)

出自と梁武帝との縁

  • 張𢎞䇿は字を真簡といい、范陽方城の人で、梁の文獻皇后の従父弟にあたる。父の張安之は青州主簿・南蠻行參軍。𢎞䇿は幼くして孝で知られ、母が病んだ五日間は自らも食を絶ち、母が無理に粥を勧めるとその余りだけを食した。母の喪では三年間塩菜を口にせず衰弱するほどであった。兄弟仲が良く、各々に家があっても常に同床起居し、世人は姜肱兄弟に比した。
  • 𢎞䇿は梁武帝と歳が近く幼少より親しく、武帝が部屋に入ると雲気を感じ粛然とすると言われるほど互いに特別な間柄であった。建武末、兄の張𢎞胄と共に武帝と酒を酌み交わし、天下の乱を論じた際、武帝が「時勢を見て何を思うか」と問うと、𢎞䇿は「王敬則は両眼を怒らせる程度で大事を成せる器ではない」と評し、続けて武帝が「主上の運命も来年で尽き、国権は江祏・劉暄に帰すが、二人とも器量に欠け都は乱れよう。齊の暦数はここに尽き、梁楚漢の地に英雄が興るはずだ」と語ると、𢎞䇿は「烏がどの屋根に止まるか」の古語を引いて応じ、武帝は「光武帝の言葉のようだ、私がその器でないと誰が知ろう」と笑った。𢎞䇿は起立し「今夜の言葉こそ天意である、君臣の分を定めたい」と求め、武帝は「舅は鄧晨に倣うつもりか」と笑った。

雍州刺史時代の献策

  • その冬、魏軍が新野を攻め、齊明帝は密かに武帝に曹武に代わり雍州の事を監させた。𢎞䇿は喜び、武帝と共に西行して帷幄に参画し、労苦を厭わなかった。齊明帝崩御の遺詔で武帝は雍州刺史となり、𢎞䇿は録事參軍・襄陽令を兼ねた。武帝は天下の乱を見越して密かに備蓄を進め、その謀は𢎞䇿にのみ相談した。
  • 武帝の長兄蕭懿が益州から西中郎長史として郢州事を代行していた頃、武帝は𢎞䇿を派遣し、晉惠帝の乱世に諸王が争って内外に乱が起きた故事を引き、「六貴が権を争い、嗣主も暗愚で朝臣の誅戮は避けられない、始安王(蕭遥光)は趙倫の轍を踏まんとしており、蕭坦之・徐孝嗣らも柱石たり得ない、今こそ諸弟を集め郢州を拠点に雍州の兵馬を備え、時に応じて安寧を保つか、乱に乗じて国のために剪暴すべきだ」と説かせたが、蕭懿は聞いて色を変え、まだ許さなかった。蕭懿の遇禍後、武帝が挙兵を決すると夜に𢎞䇿と吕僧珍を召して議を定め、翌朝に発兵した。

建康平定から横死まで

  • 𢎞䇿は輔國将軍として一万人を督し後部を統べた。郢城平定後、蕭穎逹・楊公則ら諸将は夏口に留まろうとしたが、武帝は建鄴への長駆を望み、𢎞䇿もこれに同意、寧朔将軍庾域にも訪ねると同じ考えであったため即日出発した。行軍の宿営地の選定は𢎞䇿があらかじめ図を作って備え、城平定後は武帝の命で吕僧珍と共に先んじて宮を清め府庫を封じ、市中に珍宝が満ちていたが部曲に秋毫も犯させなかった。衞尉卿・給事中に加官、天監初め(502年)散騎常侍・洮陽縣侯。忠義に篤く旧友の推薦にも公平であった。
  • 東昏侯の残党孫文明らは大赦後も不安を抱き、雲龍門に至る夢を見て乱を起こし、荻炬をもって南北掖門に入り込み、夜に神獸門・總章觀を焼き衞尉府に至り、𢎞䇿は垣を越えて龍廐に隠れたが賊に見つかり殺害された。賊はさらに尚書省・閣道・雲龍門を焼こうとしたが、前軍司馬吕僧珍が羽林兵を率いて防ぎ、武帝が戎服で前殿に出て「賊は夜のうちだけ多勢に見える、暁には逃げる」と五更の太鼓を打たせると賊は退散した。孫文明は捕らえられ東市で斬られ、張氏の親族は遺体を切り刻んで報復した。武帝は「衞尉が死んで、これから天下のことを誰と語ればよいのか」と痛哭し、車騎将軍・諡「閔侯」を贈った。𢎞䇿は寛厚で旧交を篤くし、高位にあっても布衣の友のように接し、俸禄は親友に分与し続けた。子の張緬が嗣いだ。

張緬

  • 張緬は字を元長といい、幼少より外祖父の劉仲德に「この子は張家の宝にとどまらず海内に令名を為すだろう」と評された。齊永元末に𢎞䇿が武帝に従い都を離れ、緬は十歳で襄陽に留まり戦況の勝敗に一喜一憂した。父が遇害すると礼を超えて哀悼し武帝がしばしば慰めた。服喪後に洮陽縣侯を襲封し秘書郎から淮南太守となったが、十八歳と若く不安視され、武帝が郡の文書を密かに取り寄せて調べさせたところ処断が的確で称賛された。
  • 勤学で読書を欠かさず質問に即答した。殿中郎の欠員に徐勉が緬を推薦し、武陵太守を経て太子洗馬・中舍人。母劉氏は夫の葬礼が不十分だったことを恥じ生涯正室に居らず官府にも同行しなかったため、緬は郡で得た俸禄を私用せず、都に帰ると母や親族に施し、自身の家財は常に貧しいままであった。豫章内史では恩恵の政を行い、老吏も数十年ぶりの善政と称えた。御史中丞では外国使者と争った罪で一時黄門に降格されたが復職、憲司を厳正に運用し「勁直」と評され、武帝は像を描かせて模範とした。侍中に遷るが拝任前に卒し、昭明太子も哭泣に赴いた。後漢書・晉書の抄三十巻、江左集の抄(未完)、文集五巻を著した。

張纘――才幹と栄達

  • 張纘は字を伯緒といい、従伯張𢎞籍(梁武帝の舅、廷尉卿を追贈)の後を継いだ。十一歳で武帝の第四女富陽公主を娶り、駙馬都尉・利亭侯。秘書郎として十七歳で出仕し、身長七尺四寸、眉目秀麗で武帝に「張壮武(張安之)の子孫に八代して我が代に及ぶ者ありと言われたが、この子か」と評された。
  • 兄張緬の蔵書一萬餘卷を昼夜読み耽り、秘書郎の慣例で数十日で転任するところ、纘は自ら望んで留まり閣内の書を読み尽くそうとした。武帝は「この四部書目を読み終えたら優仕を語れる」と評し、三年後に太子舍人、洗馬・中舍人と管記を掌った。琅邪の王錫と斉名され、普通初め(520年)魏使劉善明が求識するほど評判が高かった。尚書吏部郎から長史・侍中を兼ね、裴子野が「張吏部の重責は遅きに失した」と評するほど早逹し、忘年の交わりを結んだ。
  • 大同二年(536年)呉興太守として煩苛を除き民を安んじ、大同四年(538年)吏部尚書に召され、寒門の人材も分け隔てなく登用し名門にも媚びず称賛された。定襄侯蕭祗は学がなく兄衡山侯蕭恭と共に皇太子に愛されたが、太子が纘を試すように「丈人(張謐・張聿)はどこにいる」と問うと、纘は「私にも謐・聿がいます、殿下の衡・定と同じです」と応じ太子を赤面させ、湘東王にも同様の応対で当意即妙ぶりを示した。
  • 大同五年(539年)武帝は「纘は外戚の英華、朝中の領袖、司空の後は范陽で名を冠する」として尚書僕射に任じたが、詔の「范陽」の語を狭いとして朱异の草詔に不満を示し不和となった。何敬容とも意が合わず客を拒み、遷任の際は上表で暗に敬容を批判した。湘州刺史に転じ赴任の途上『南征賦』を作った。呉興の呉規が邵陵王綸の賓客として厚遇されていたが、纘の湘鎮への赴任途中で郢に立ち寄った際、纘は規に不快感を示して盃を挙げ皮肉を言い、規は憤死し、その子翁孺も気を病んで死に、規の妻も後を追って亡くなった。時人は「張纘一盃の酒が呉氏三人を殺した」と評した。

張纘――湘州治政と非業の死

  • 湘州では公平な政を行い十郡を慰労し老疾の吏役を免除、関市戍邏の負担を省いた。零陵・衡陽の莫傜蠻は歴代従わなかったが感化され、益陽県では田二頃で異なる畝が同じ穎をつけるという瑞祥もあった。四年間の在政で流民が帰り戸口は十餘万増え州境は安定したが、晩年は図書数万卷・油二百斛・米四千石を蓄えるなど蓄財を好んだ。
  • 太清二年(548年)領軍を経て雍州刺史に転じ、河東王蕭誉が代わって湘州刺史となると、纘は誉を軽んじたため候迎・資待が薄く、誉は恨みを抱いた。侯景が建鄴を攻めた際、誉は湘東王を援けるべきところ、纘に旧誼があり利用しようとしたが、湘東王が硤石に至った頃、纘は湘東王に「河東(誉)が戴檣を率い江陵を襲おうとしている、岳陽(蕭詧)と共謀している、桂陽も応じるらしい」と書を送り、湘東王はこれを信じて船を沈め米を捨て纜を斬って江陵に戻り、桂陽王慥を殺した。荊湘の間に嫌隙が生じた。
  • 纘は部曲を捨て二人の娘を連れて単舟で江陵に赴いたが、湘東王は誉を責めて纘の部下を求め、纘を雍州に送ったが前刺史岳陽王蕭詧は代交代を先延ばしにし、纘は城西の白馬寺に留め置かれた。台城陥落の報に詧は代交代をやめ、州助防杜岸が「岳陽は使君を容れない、西山に走り義挙すればうまくいく」と唆し、纘は同意して婦人服で青布の輿に乗り西山の席引らのもとへ逃げたが、杜岸が詧に密告し、尹正らに追討させて捕らえられた。纘は死を免れるため沙門を名乗り法緒と改めた。
  • 詧は江陵を襲う際に纘を伴い檄文を書かせようとしたが、纘は病と称して固辞し、詧軍の敗退時、湕水南で纘を守っていた者が追手を恐れて彼を殺し遺体を捨てた。梁元帝は開府儀同三司を贈り諡は簡憲公。元帝は少年時代から纘に推誠され、即位後も「簡憲の為人は権勢に阿らず、才を負い気を任じたが、私に会えば夜通し語り明かした、その徳を思わぬ日はない」との詩序を作った。纘は『鴻寶』百卷・文集二十卷を著した。雍州に赴く際、財産を江陵に残し、南中で貪欲に蓄財した貲財も湘東王が接収し、書二萬卷は齊(そろって)江陵に運ばれ、珍宝貨物はすべて府庫に納められ、粽と密封の類だけがその家に返された。次子の張希(字子顔)は簡文帝第九女海鹽公主を娶り、承聖初め(552年)侍中となった。纘の弟に張綰がいる。

張綰

  • 張綰は字を孝卿といい、兄纘と斉名した。湘東王蕭繹が百事を策問した際、綰は六事を答えられず「百六公」と呼ばれた。員外散騎常侍・中軍宣城王長史から御史中丞に遷り、武帝は弟の中書舍人張絢を遣わし「国の急務は執憲を直くすること、人を用いるに昇降を問わず、晉宋の周閔・蔡廓も侍中兼卿であった、左遷ではない」と伝えさせた。宣城王府の重望ゆえの措置であった。
  • 大同四年(538年)元日の旧制で僕射・中丞は東西に座を分けたが、時に兄纘が僕射であったため兄弟して騎導を分ける前代未聞の光景となり、時人は栄誉とした。豫章内史として『制旨禮記正言義』を講じ聴衆は数百人に及んだ。大同八年(542年)安成の劉敬躬が妖道を挟んで攻郡・進寇すると湘東王が王僧辯に討伐を命じ、綰の節度を受けて旬月で平定した。大同十年(544年)再び御史中丞となり回避なく弾劾し豪右に憚られた。士林館で右衛朱异・太府卿賀琛と共に『制旨禮記中庸義』を講じた。
  • 太清三年(549年)吏部尚書、宮城陥落後は江陵に逃れ尚書右僕射。魏の江陵攻略で朝士は皆虜となったが、綰は病で免れ江陵で卒した。次子の張交(字少游)は簡文帝第十一女定陽公主を娶り、承聖二年(553年)秘書丞・東宮管記に至った。