南史卷五十五 列傳第四十五 昌義之

昌義之、歴陽烏江の人(?–?、護軍将軍として官にて卒)。梁武帝挙兵に従い、天監年間の鍾離籠城戦で魏の大軍を防ぎきった武将。文字は知らなかったが部下の信望を得た。諡は烈。

年表(6件)

鍾離籠城戦

  • 昌義之は歴陽烏江の人。若くして武幹あり、馮翊戍主として梁武帝と結び、挙兵後は輔国将軍軍主として戦功を重ねた。天監元年(502年)永豊侯、北徐州刺史として鍾離を鎮した。天監四年(505年)の北伐で臨川王蕭宏に従い魏の梁城戍を攻略。
  • 天監五年(506年)冬、班師の詔が出ると魏中山王元英は乗じて追撃し馬頭等城を陥落させたが、武帝は「これは進兵の兆候だ」と見抜き、鍾離城を修めて義之に戦守を命じた。同年冬、元英は数十萬の大軍で鍾離を包囲、衝車で西壁を破壊したが、義之は三千の兵で各所を防ぎ、敵軍死者は城壁の高さに達した。
  • 天監六年(507年)武帝が曹景宗・韋叡に二十万の救援軍を送り魏軍を大破、義之も追撃した。功により軍師将軍・都督・南兖州刺史に進むも禁物を蕃境から持ち出したとして免職。天監十三年(514年)左衞将軍。同年冬、康絢の荆山堰工事を魏将李曇定が脅かした際、義之は救援したが康絢らが先に魏軍を破っていた。魏の李平が硤石を攻めた際にも救援に赴いたが硤石は陥落し、義之は班師の後弾劾されるも武帝は不問とした。天監十五年(516年)北徐州刺史。義之は文字を知らなかったが寛厚で部下の死力を得、境を安んじた。営道縣侯に改封され、護軍将軍として官にて卒し、諡は烈。子の昌寶景が嗣いだ。

史論

  • 永元末年、君主は昏虐であったが荆・雍二州には元来変乱の端緒がなかった。武帝(梁武帝)は家門への惨禍を機に孟津の師を首唱し、王茂らは時運に乗じて勤王の挙に馳せ参じた。これは天意人心の呼応がなければ成し得なかったことであり、その顕栄もまた風雲の際会というべきである。
  • 鄧元起は忠勤に付き従い開疆の功があったが、報われぬまま先んじて禍機に陥り、冠軍将軍(蕭藻)への処罰は軽きに失した。梁の政刑はここから狂い始め、私恩による弊が開かれた。元起の寿命が長くなかったのも故なきことではない。
  • 張惠紹・馮道根・康絢・昌義之は、挙兵に付き従った当初こそ他の義士に及ばぬ功であったが、張惠紹は残党討伐で力戦して名を挙げ、馮道根・昌義之は鍾離・邵陽の危機で功が多く、荆山堰の役では康絢が主管して功を分かち合った。彼らの寵遇と昇進は当然というべきである。
  • 先に鎮星(歳星)が天江の星宿を守ったとき堰工事は興り、鎮星が退くと堰は決壊した。これは人事の及ぶところではなく、天道の然らしめるところであろう。