南史卷五十五 列傳第四十五 康絢
康絢、字長明、華山藍田の人(?–520年、衞尉卿拝命前に卒)。康居国の末裔で、梁武帝挙兵に一族で呼応し、淮水を堰き止め壽陽を水攻めにする一大工事を監督した。諡は莊。
出自と淮水堰工事
- 康絢は字を長明といい、華山藍田の人。その先は康居国に出、漢の都護支配下で侍子として河西に留まったことに始まり、後に姓とした。晉代の陇右動乱で藍田に移り、曾祖康因は苻堅の太子詹事、祖父康穆は姚萇の河南尹。宋の永初年間に康穆は三千餘家を率いて襄陽峴南に入り、宋朝は華山郡藍田縣を寄治させ、康穆を秦・梁二州刺史としたが赴任前に卒した。伯父康元隆・父康元撫が相次いで華山太守に推された。
- 康絢は齊で華山太守となり流民を安撫、梁武帝挙兵に郡ごと呼応した。天監元年(502年)南陽縣男・竟陵太守、太子左衞率として萧景と共に殿内を護衛した。武帝の馬射を観て称賛され、肖像画を描かせるほど親任された。
- 魏の降人王足の献策で淮水を堰き止め壽陽を水攻めにする計画が起こり、水工らは砂土が緩く実現困難と警告したが武帝は聞かず、徐・揚二州から二十戸に五丁を徴発、康絢に符節を与え二十万人を都督させ、鍾離南の浮山から巉石まで堰を築かせた。
堰の完成と決壊
- 天監十四年(515年)四月、堰が合わさろうとするたびに激流に決壊し、蛟龍が鉄を嫌うという俗説から鉄器数千萬斤を沈めても効果なく、木を組んで巨石で固め、沿岸百里の木石を悉く動員した。夏の疫病で死者が相枕し、武帝は袁昻・謝舉を遣わして慰労し賦役を免じたが、冬の酷寒で兵卒の死者は十に七八に及び、衣袴が支給された。十一月、魏将楊大眼の威嚇に子の康悦が応戦し魏軍を退けた。
- 天監十五年(516年)四月、堰は長さ九里、下幅百四十丈、上幅四十五丈、高さ二十丈、深さ十九丈五尺で完成し、岸辺には杞柳を植え、水は澄んで邑居墳墓が見えるほどであった。四瀆を塞ぐことへの懸念から東への分水路(湫)を開き、さらに反間の計で魏に「梁が恐れるのは湫の開通だ」と信じさせ、魏は逆に自国側で分水路を開いて自滅、水淹は淮水沿岸数百里に及び、魏の壽陽の守備は八公山南へ後退した。
- 工事開始当初、徐州刺史張豹子が主導を自任していたが康絢が監督に来たため恥じ、絢が魏と内通していると讒言した。武帝は信じなかったが工事完了を理由に絢を召還し司州刺史・安陸太守とした。後任の張豹子が堰の維持を怠り、その秋淮水が暴長して堰は決壊、海まで奔流し数万人が溺死、水中には奇怪な生物が流れ下った。祖暅は下獄した。絢は司州で三年間城隍を大修理し治めた。普通元年(520年)衞尉卿を拝命前に卒し、武帝は当日哭し、諡は莊。寛和で寡黙、寒さに苦しむ官吏に絮衣を贈る施しをよくした。子の康悦が嗣いだ。