南史卷五十五 列傳第四十五 馮道根
馮道根、字巨基、広平酇の人(?–517年、官にて卒)。若くして武勇で知られ梁武帝挙兵に従軍、鍾離の戦いで韋叡の前駆をつとめるなど武功を重ねた清廉な将。諡は威。
出自と武功の始まり
- 馮道根は字を巨基といい、広平酇の人。若く孤貧で佣賃で母を養い、甘美なものを得ると先んじて母に届けた。十三歳で孝で聞こえ、郡が主簿に召しても「私は封侯廟食を望む、儒吏になどなれようか」と就かなかった。十六歳、同郷の蔡道班が湖陽戍主として蛮を攻め錫城に囲まれると単騎で救援し、双剣を振るって助けた。
- 齊建武末、魏孝文帝が南陽等五郡を陥落させ、明帝は太尉陳顯逹に奪還させたが、道根は「汋均の水勢は急、船を捨て歩兵で進むべき」と献策するも聞かれず、顯逹敗走の夜、道根の先導で全軍が救われた。母の喪で帰郷後、梁武帝挙兵の報に「服喪中の従軍は礼に反するが、後世に名を揚げるのも孝ではないか」と述べ、王茂配下で常に先鋒となった。
鍾離の役と晩年
- 武帝即位後、驍騎将軍・增城縣男。天監二年(503年)南梁太守・阜陵城戍。着任早々に城壕を修め斥候を敵襲並みに配置し人に笑われたが、「怯えて備え、勇んで戦う、これがそれだ」と応じた。城壁未完成のうちに魏将党法宗・傅豎眼が二萬の軍で急襲すると、道根は城門を開いて緩服のまま登城、精鋭二百で城外に出て撃退した。
- 天監六年(507年)魏の鍾離攻撃で韋叡の前駆となり、邵陽洲に築塁して魏城に迫り、馬足での歩測で工事を的確に進めた。淮水氾濫時に戦艦で魏の浮橋を断ち、魏軍を大破。伯に進爵、豫寧縣に改封。天監八年(509年)豫州刺史・汝陰太守として清簡な政を行った。
- 右衞将軍に累遷。性は謹厚寡黙で、部曲を統率し掠奪を禁じ、戦功を語らなかった。武帝が沈約に「口に功を語らぬ」ことを称え、沈約は「陛下の大樹将軍である」と評した。清廉で邸宅も器物も飾らず、当世の人々に敬われた。学がなかったことを自ら恥じ、周勃の器量を慕った。
- 天監十六年(517年)再び豫州赴任にあたり、武帝は武徳殿で画工に肖像を描かせ、道根は「臣が報いる道は死のみ、ただ天下太平で死に場がないのが恨みです」と謝辞を述べた。武帝は常に「馮道根がいる州は朝廷が案じずに済む」と称した。病で帰還を願い許され、散騎常侍・左軍将軍として官にて卒した。折しも武帝の春祭と重なったが、中書舎人朱异は柳莊の故事を引いて弔問すべきと進言、武帝は自ら邸に赴いて痛哭し、諡は威。子の馮懷が嗣いだ。