南史卷五十三 列傳第四十三梁武帝諸子 廬陵威王續

字は世訢。武帝の五子。弓馬に長け武帝に「我が任城王」と称えられた武勇の人。江州・荊州刺史等を歴任し、薨去して威と諡された。元帝とは幼少より親しかったが晩年不和になった。

年表(3件)

経歴

  • 蕭續、字世訢、武帝の第五子。天監8年(509年)廬陵王。若くして武勇に優れ弓馬に長け、武帝の前で馳射し的中させると武帝は「これぞ我が任城王(曹彰)だ」と嘆じた。ある時馳射で2頭の麞(のろじか)を射止め諸人に冠絶し武帝は大いに喜んだ。中大通2年(530年)都督雍州刺史寧蛮校尉、大同元年(535年)江州刺史、驃騎将軍開府儀同三司、都督荊州刺史を経て薨じ、司空を贈られ諡を威とした。
  • 元帝の母阮修容は丁貴嬪の力添えで幸せられた縁から、元帝は簡文帝と親しかったが、廬陵王とは幼少より狎れつつも後年疎遠となった。元帝が荊州にあった頃、才慧のある宮人李桃児が寵を得たが、荊州の女官管理の慣例により交代させられることになり、続はその経緯を詳しく上申した。元帝は泣いて簡文帝に訴えたが取り成しは得られず、李氏は荊州へ帰され、以後2王の間は音信不通となった。続が薨じた際、元帝は江州にあってその報に触れ悲しみのあまり急いで駆けつけようとし靴を破いた。まもなく元帝は荊州へ再び転じ、荊州の人々が国境まで出迎えたが元帝は数え上げて彼らを退けたため吏人は失望した。
  • 続は馬や武具を多く蓄え、勇猛な者を養い、色を好み財を集めて倉庫が満ちていた。臨終に中録事参軍謝宣融に金銀器千余件を献上させると、武帝は「王の財はこれで尽きたのか」と徳の乏しさを問うたが、宣融は「これで十分過ぎる、王の過ちは日食月食のようなもの、隠さず陛下にお知らせするために申した」と答え、武帝の怒りは解けた。世子憑は前非により誅死し、次子応が継いだが不慧で、父の薨後倉庫の金鋌を見て「これは食べられるか」と問い、「食べられない」と言われると「食べられぬなら何の役にも立たない」と言ったという。