南史卷五十三 列傳第四十三梁武帝諸子 南康簡王績
字は長才。南康簡王績の子。侯景に一時仕えながらも匡復を志し、柳敬礼らと挙兵を謀ったが密告され、弟通理・乂理とともに殺害された。
年表(1件)
- 大同八年542年弟通理の弟乂理、安楽県侯に封じられる
経歴
- 蕭績、字世謹、小字四果、武帝の第四子。天監7年(508年)南康郡王、10年(511年)南徐州刺史(時に7歳)。主者が改竄した文書を長史王僧孺が気づかなかったのを績が見抜き詰問すると即座に白状し、皆その聡明さに感嘆した。天監17年(518年)都督南兖州刺史として善政を称され、召還の詔が出ると百姓曹楽ら370人が闕に詣で績の卓越した政績15条を挙げて留任を願い、許された。普通4年(523年)侍中雲麾将軍領石頭戍軍事、5年(524年)江州刺史。母董淑媛の喪に過度に服し職を辞そうとしたが安右将軍領石頭戍軍事に転任、のち護軍。羸痩し政務に親しめなくなり大通3年(529年)病により任地で薨じ、開府儀同三司を贈られ諡を簡とした。玩物を好まず欲少なく、僕妾も置かず節倹に努め、俸禄はすべて天府に寄託していたため薨後、少府に南康国の無名の銭数千万が残った。子の㑹理が後を継いだ。
㑹理(績の子)――経歴と最期
- 蕭㑹理、字長才。聡慧で文史を好み、11歳で父を喪い武帝に特に愛され、衣服礼秩は正王(嫡子の王)に等しかった。15歳で湘州刺史となり左右を信任しがちだったが、行事の劉納がたびたび諌めたため㑹理は不満を抱き、賄賂の罪を着せて建業へ送った。納は「私が天子に会えば汝らの罪が知れる」と嘆いたが、㑹理は厚く資糧を送りつつ心腹に命じ青草湖で納一族百口を皆殺しにした。都督南兖州刺史に累遷、太清元年(547年)北伐で彭城に至るが魏軍に敗れ本鎮に戻った。太清2年(548年)侯景が都を囲むと入援、北徐州刺史封山侯正表が兄正徳の内応と称し実は広陵を襲おうとした際これを撃破し進路を確保した。
- 台城陥落後、本鎮に戻ると、景は前臨江太守董紹先を遣り武帝の手勅と称して㑹理を召した。僚佐は「紹先の書がどうして天子の意思か」と拒むよう勧めたが、㑹理は典籤范子鸞の計に従い「天子は制されている、江北にあっても功業は成し難い、都に赴いて肘腋で図るほうがよい」として紹先を受け入れ都へ入った。景は司空兼尚書令に任じたが、㑹理は賊の手中にあっても匡復を思い、西郷侯歓らと密かに腹心を布いて壮士を結集した。范陽の祖皓が董紹先を斬り広陵城で挙兵し、㑹理を内応と期したが敗れ、㑹理も連座して尚書令の官を免ぜられたものの白衣のまま尚書令を代行させられた。景が晋熙へ赴き都下が手薄になると、㑹理は柳敬礼・北兖州司馬成欽と再び謀り、敬礼が「大事を挙げるには資が要る、寸兵もなくて動けるか」と問うと、㑹理は「湖熟に旧知3千余人あり期を定めれば集まる、賊の守兵は千に満たない、外から攻め内で応じれば王偉を直ちに討てる、景が戻っても手立てはない」と答え、敬礼も賛同した。
- 百姓が賊を厭う中、建安侯賁がこの謀を王偉に密告し、偉は㑹理と弟の通理を捕らえた。旧知の銭唐の褚冕も同じ獄に囚われ拷問を受けたが口を割らず、㑹理は壁越しに「褚郎、私のためにこの目に遭わせたのか」と呼びかけると「言うな」と答え、王偉は㑹理らを殺したが冕はついに服さず赦された。通理、字仲宣、太子洗馬祁陽侯、同じく殺された。
乂理(通理の弟)――経歴と最期
- 蕭乂理、字季英。生後10旬で父簡王(績)が薨じ、3歳で言葉を覚えた頃、宮人が泣きながら別れる様子を見て理由を問い「簡王の宮人が喪明けで去るのだ」と聞くと号泣し、周囲の宮人も感じ入り3人がその場に留まった。服喪明けに武帝に謁見した際も悲しみに耐えかね、帝も涙した。「この子はきっと大成する」と語ったという。大同8年(542年)安楽県侯。忠臣烈士の書を読むたび巻を閉じて嘆じ「一生の内に古人に恥じぬようにせん」と語り、博覧で文才があり、孔子廟に祭文を捧げ碑を立てた。侯景の内寇に際し客を集め南兖州へ赴き、兄㑹理の入援に従い、城陥落後は㑹理とともに広陵へ戻り、斉へ人質として救援を求めに向かったが、道中2日で景の遣わした董紹先が広陵を占拠したため捕らえられた。防備が厳しく兄と会えず、まず都へ帰ると偽って母に暇乞いし、姉固安主に「兄が至ればよく計らってほしい、私も前途で功を立てたいが天命は分からない」と告げた。都では魏の降人元貞を忠正な人物として玉柄の扇を託そうとしたが貞は怪しんで受けず、乂理は「後で思い出すだろう」と言った。祖皓の挙兵に乂理は長蘆へ奔り景に殺された。元貞はのちにその言葉の意味を悟り、遺骸を収めて葬った。