南史卷五十三 列傳第四十三梁武帝諸子 豫章王綜
字は世謙。武帝の次子。生母呉淑媛が斉の東昏侯の寵姫であったため出自を疑われ続け、酷薄な行状を重ねた末、普通六年に彭城で魏へ投降し、魏の高官に列せられたが梁への帰還を望みながら異郷で没した。
年表(4件)
- 天監三年504年豫章郡王に封じられる
- 普通四年523年都督南兖州刺史となる
- 普通六年525年魏の元法僧が彭城で降ると彭城を鎮するが、夜に魏軍へ奔り投降する
- 普通六年八月525年有司の奏で爵位を剥奪され属籍を除かれるが、旬日で属籍を復し永新侯に封じ直される
出自と疑惑
- 蕭綜、字世謙、武帝の第二子。天監3年(504年)豫章郡王、北中郎将南徐州刺史などを経て侍中鎮右将軍。母の呉淑媛は斉の東昏侯の宮にあり、東昏侯の寵姫であったが武帝に幸せられ、7か月で綜を生んだため宮中で出自を疑う声があった。淑媛は寵が衰え怨みを抱き、綜が14、5歳の頃、夢に肥えた青年が自分の首を掴んで迫る夢を繰り返し見た。淑媛にその容貌を尋ねると東昏侯に似ていたため、淑媛は「お前は7か月で生まれた、皇子たちと同列に扱えるはずがない。今は太子の次弟として富貴を守れ、外に洩らすな」と密かに告げ、綸(綜)は母を抱いて泣いた。以降、夜ごとに密室に籠り髪を解き藁の上に伏し、財を軽んじ士を好んで施与し、身なりを質素にした。ある士人が困窮を訴えると眠床の帳を与えるなど、権勢に備えて人望を集めたが、武帝だけはこれを疑わなかった。
酷薄な行状
- 才学があり文章を善くしたが、武帝が諸子を礼をもって朝見させても数が少なく、綜は不遇を恨んだ。徐州に出た際も母淑媛が付き従い、15歳になっても裸で戯れる様子が昼夜見境なかった。妃の袁氏(尚書令袁昻の女)を淑媛が虐げ、内外に醜聞があった。徐州で政刑が酷薄で勇力もあり、微行して夜出るなど品行が乱れ、道士を招いて数術を探求した。聡明で武帝の勅疏が届くたびに顔色を変えて怒った。武帝は厳格で臣下も直言できず、綜の行状は知られずにいた。徐州から便宜を求める上表を重ね、優詔で答えられた。徐州の練樹をことごとく伐らせたのは、武帝の幼名「練」を憚ったためという。尚書僕射徐勉が襄陽鎮出を求めると、綜は白団扇に「伐檀」の詩を描いて贈り賄賂を暗示した。
- 西州で密かに斉の七廟を祀り、斉明帝陵を密かに参拝した。生者の血が死者の骨に滲めば親子と判じられるという俗説を聞き、斉東昏侯の墓を私かに暴いて骨に血を試した。西州で次男を生んで間もなく密かに殺し、その骨でも同様の実験をするなど酷薄であった。東宮や諸王への言動も不遜で、臨川王宏の車で糞をして立ち去るなど奇行が多かった。
魏への逃亡と最期
- 普通4年(523年)都督南兖州刺史。政務には勤めたが賓客を避け、簾を隔てて訟を聴き、外出には輿に帷を垂れ顔を見られるのを嫌った。斉の旧建安王蕭宝寅が魏にあった際、北来の道人釈法鸞を通じて叔父を称する宝寅と通じ、法鸞に厚く賜与した。梁話(襄陽の人)の母の葬儀にも銭5万を贈り、法鸞は広陵で魏との連絡を重ね、淮陰の苗文寵を国常侍に引き入れた。
- 普通6年(525年)、魏将元法僧が彭城で降り、武帝は綜に都督衆軍として彭城を鎮し徐州府事を摂させたが、武帝は星象から敗将が出ることを察し軍を退かせるよう手勅した。綜は発覚を恐れ、魏の安豐王元延明と対陣中の夜、梁話・苗寵と3騎で北門を開いて汴河を渡り蕭城へ奔り、隊主を称して延明に拝したが名を明かさず「殿下、見識ある者に問え」と言うと延明は正体を悟り喜んで手を取り洛陽へ送った。城中では夜が明けても諸門が閉ざされたままで、城外の魏軍が「豫章王は昨夜すでに我が軍にある」と叫んだことで発覚し、退却する梁軍は多くの犠牲を出した。湘州益陽の任煥は乗っていた騅馬で逃げる途中脚を負傷し馬も疲れて動けなくなったが、馬に「ここで死ぬのか」と泣くと馬は前脚を折って乗せ、無事逃れたという逸話が残る。長史江華・大府卿祖暅らは魏軍に捕らえられ、武帝は驚愕した。
- 綜は魏で侍中司空高平公丹陽王となり、梁話・苗寵も光禄大夫となった。綜は名を纘、字を徳之と改め、斉東昏侯のため喪服(斬衰)を服し、魏の太后・群臣も弔問した。8月、有司の奏で爵位を剥奪され属籍から除かれ子の直も姓を悖氏に改めさせられたが、旬日を経ずに詔で属籍を復し永新侯に封じ直された。のち策免され、母呉淑媛は毒殺の憂き目に遭ったが没後に品秩を復され諡を敬とし、直に喪を主宰させた。蕭宝寅が長安で反乱を起こすと綜は洛陽から逃れようとしたが、河橋の法度で騎乗が禁じられ馬で渡ろうとして吏に捕らえられ洛陽へ送られた。魏孝荘帝の代に司徒太尉を歴任し、帝の姉寿陽長公主を娶った。
- 陳慶之が洛陽に至った際、綜は帰還を願い出て、呉淑媛がまだ存命だった武帝は綜の幼時の衣を送らせたが、届く前に慶之が敗れ、綜は間もなく魏で没した。魏在住中に「聴鐘鳴」「悲落葉」を作り志を述べ、当時の人々を悲しませた。のち梁の人がその柩を盗んで持ち帰り、武帝はなお子の礼で陵に合葬した。直、字は思方、晋陵太守沙州刺史。