南史卷五十三 列傳第四十三梁武帝諸子 昭明太子統

字は重孫。昭明太子の次子。侯景の乱で入援したが台城陥落後に湘州へ戻り、湘東王(元帝)への従属を拒んで挙兵し敗れ、捕らえられて処刑された。

年表(2件)

出自と生い立ち

  • 蕭統、字徳施、小字維摩、武帝長子。斉中興元年(501年)9月、襄陽で生まれた。武帝がまだ壮年で嫡嗣を待つ中、徐元瑜の投降・荊州における蕭頴冑急死の報が続き「三慶」と呼ばれた。建鄴平定後、天監元年(502年)11月皇太子に立てられた。
  • 3歳で孝経・論語を受け、5歳で五経を通読し諳誦した。仁孝な性質で、東宮に出てからも常に父を慕った。武帝は5日に一度朝見しては永福省に留まることが多かった。天監8年(509年)9月、寿安殿で孝経を講じ大義に通じ、国学で釈奠を親臨した。12歳の時、内省で獄官が上奏を待つのを見て「これはみな刑罪になるのか、私が判じてよいか」と問い、有司は幼い太子を試すため杖罪の獄案を見せると、太子は皆杖五十と署した。有司が困惑したが武帝は笑って許した。以後しばしば聴訟させ、寛容な判断を好んだ。建康県で人を誣告した獄案を、太子の仁愛を憚って軽く杖四十と裁いた県に対し、太子は「その者が本来の罪ならば連座すべきところを軽くするのは不公平」と令し、冶(工役)に付した。

治績と人柄

  • 天監14年(515年)正月朔、武帝が太極殿で太子に冠礼を行い、旧制の遠遊冠に金蟬翠緌纓を加えて金博山を詔加した。姿容は美しく、書は数行を一度に読み記憶した。宴遊の賦詩は即興で澱みなかった。武帝の仏教興隆に従い、東宮内に慧義殿を建てて法会の場とし、三諦法義を立てた。普通元年(520年)4月、慧義殿に甘露が降り至徳の感応とされた。
  • 時俗が奢侈に流れる中、太子は自ら質素を範とし浣衣を着て肉を控えた。天監普通3年(522年)11月始興王憺の薨去に際し、東宮の礼が傍親に及ぶか疑問となり、僕射劉孝綽らの議論を経て、太子は「服は奪えても悲しみは奪えぬ」として卒哭まで喪の情を続けさせる令を発した。
  • 普通7年(526年)11月、生母丁貴嬪の病に付き添い、薨去後は水漿を絶ち哭くごとに気を失った。武帝が中書舎人顧協を遣り「毀不滅性は聖人の制、不孝に等しい」と粥を強いたが、太子は最小限しか進めず、腰帯十囲が半分に痩せた。太子は万機を代行し、政務の誤りも寛大に処理し、天下から仁と称された。
  • 学問を好み東宮の蔵書は約3万巻に及び、名士が集った。玄圃に亭館を建て山水を愛でた。後池に泛舟した際、番禺侯軌が女楽を勧めたが、太子は左思の招隠詩「何ぞ必ずしも絲と竹とならんや、山水に清音あり」を詠んで断った。宮中で20余年、音楽を蓄えなかった。
  • 普通年間の北伐で都下の米価が高騰すると、菲衣減膳を命じ、霖雨積雪の折には腹心を遣り貧困者に米を密かに配った。年常に襦袴各3千領を作らせ寒者に施し、死者には棺槥を備えた。大通2年(528年)春、呉・呉興・信義三郡の民丁を徴発し漕溝を開こうとする計画に対し、太子は上疏して民の疲弊を訴え、労役負担の重さと盗賊蜂起を懸念して停止を求め、武帝は詔で慰めた。

薨去

  • 孝謹は天性で、朝見には五鼓前から城門を守り、東宮では常に西南(建康の方角)を向いて座した。大通3年(529年)3月、後池で彫文の舸に乗り芙蓉を摘む際、姫が舟遊びで溺れかけ助け出す際に股を痛めたが、父を憂わせまいと病を秘した。病が篤くなっても武帝に知らせることを許さず、4月乙巳、急変を武帝へ知らせに走ったが着く前に薨じた、享年31。武帝は哭して衮冕で殮し、諡を昭明とした。5月庚寅、安寧陵に葬られ、司徒左長史王筠が哀冊文を撰した。朝野は哀惜し、都下の男女は宮門で号泣し、四方の民も哀慟した。
  • 仁恕な性で、宮禁の警護に杖で追い払われる者を見て自ら手板を持たせて代えさせたり、食事に混入した蠅虫を厨人が罰せられぬよう密かに取り除いたりした。子供の賭博の獄で士人は流刑・庶人は徒刑という法が重すぎるとし、私銭の賭博は公物を犯していないとして刑を大幅に減じた。
  • 文集20巻、古今典誥文言を集めた正序10巻、五言詩選の英華集20巻、文選30巻を著した。薨後、長子で南徐州刺史の華容公歓が豫章郡王、次子枝江公譽が河東郡王、曲江公詧が岳陽郡王、鑒が義陽郡王(原文のまま、記載順に従う)に各3千戸で封じられ、女子も正主同様の待遇、蔡妃(太子妃)も常儀のまま金華宮に別居した。武帝は嫡孫でなく庶子(簡文帝)を立てたため世は騒然とし、これを慰めるため諸子を大郡に封じたという。岳陽王詧は涙を流しつつ受封し、日を重ねて食事を取らなかった。

嗣位をめぐる暗闘

  • 丁貴嬪の薨去に際し太子が善き墓地を求めた話。土地の売主が閹人俞三副を介し300万で取引を持ちかけ、三副は密かに武帝へ「太子の選んだ地より別の地が吉である」と讒言、武帝は晩年多忌のため別の地を購わせた。葬儀後、道士が「墓地は不利だが長子を鎮めれば延ばせる」と蠟の鵞鳥などを墓側に埋めた。太子の長子(歓)の宮に仕える宦官鮑邈之・魏雅の二人はいずれも寵愛されていたが、邈之が雅に疎まれ武帝へ「雅が太子のために厭禱を行った」と密告、武帝は密かに掘らせ蠟鵞等を発見して大いに驚き、追及しようとしたが徐勉の諫めで道士のみ誅殺された。太子はこれを慙じ悩んだため、その系統の嗣位が絶たれる遠因となったとされる。のち邵陵王が丹陽郡に臨んだ際、邈之が郷人と婢を争った罪を機に処罰しようとし、簡文帝は太子の冤を追感して誅した。邈之の兄の子僧隆は宮直であったが事情を知らず即日追い出された。
  • 民間の謡「鹿子開城門…」は、歓(反語で「来子」)が哭くことを暗示したとされ、実際、歓が南徐州にあった時太子が薨じ、中書舎人臧厥が歓を崇正殿へ呼び戻し哭させた。嫡孫の歓が本来即位すべきところ、武帝は「幼主が大業を担えるか」と躊躇し、心中では晋安王(簡文帝)を意図していたため、4月上旬から5月21日までかけて決定した。歓は豫章王のまま留められた。歓、字孟孫、位は雲麾将軍江州刺史、薨じ諡を安とした。子の棟が後を継いだ。

棟(歓の子)――即位と最期

  • 蕭棟、字元吉。簡文帝が廃された際、侯景に主として奉じられた。まさに妃張氏と葵を摘んでいたところへ法駕が突然至り、棟は驚いて何も分からぬまま輿に乗せられた。即位して武徳殿に登ると、旋風が地から起こり華蓋を巻いて端門から飛び去り、人々はその不吉さを悟った。年号を天正とし、昭明太子を昭明皇帝、安王(歓)を安皇帝、金華敬妃蔡氏を敬皇后、太后王氏を皇太后、妃を皇后に追尊した。まもなく禅譲の礼を行わされ、棟は淮陰王に封じられ、2人の弟橋・樛とともに密室に幽閉された。景が敗走すると兄弟は脱出し、道で杜崱に会い、鎖を外され「今日は横死を免れた」と弟が言うと、棟は「禍福はなお測り難い、私はなお懼れる」と答えた。
  • 王僧辯が都督として出発する前、元帝に「賊平定後、嗣君の処遇はいかに」と諮ると、元帝は「六門の内はことごとく兵威に任せる」と答え、僧辯は「主謀は自分が引き受けるが、成済の故事のように別の人物を挙げてほしい」と述べた。帝は宣猛将軍朱買臣に密命し残忍な役を行わせた。ちょうど簡文帝が既に害されていたため、棟らは買臣に呼ばれて船で共に酒を飲み、飲み終わらぬうちに共に水に沈められた。

河東王譽(統の次子)――経歴と最期

  • 蕭譽、字重孫。普通2年(521年)枝江県公、中大通3年(531年)河東郡王に改封。南中郎将湘州刺史に累遷。侯景が建鄴に侵寇すると譽は入援し青草湖に至ったが、台城が陥落し班師の詔が下ると湘鎮に戻った。当時武城に軍していた元帝は、新任の雍州刺史張纉から「河東(譽)が岳陽で挙兵し米を集めて江陵を襲おうとしている」との密報を受け、恐れて米を沈め纜を断って帰った。元帝は諮議周弘直を遣り糧衆の督促をしたが、譽は「各自の軍府のことに何故干渉するのか」と拒み、3度使者を送っても従わなかった。元帝は激怒し世子方等を遣って討たせたが、譽に敗れ方等は戦死した。信州刺史鮑泉にも討伐させ、禍福を説いて示したが、譽は「前に進みたければ来い、多言無用」と応じなかった。泉軍は石槨寺で譽の逆襲に遭い不利となったが橘洲に進み譽を破り包囲した。
  • 譽は驍勇で騎射に優れ士卒の心を得ていたが、元帝は更に領軍王僧辯を遣り鮑泉に代えて攻めさせ、包囲を突破しようとした際、麾下の慕容華が僧辯を城内に引き入れ、譽は捕らえられた。「殺すな、七官(元帝)に会って讒賊の言葉に反論したい」と守者に訴えたが「命令だ、許されない」と斬られ首は荊鎮に送られた。元帝は首を返して葬らせた。譽が敗れる前、鏡に自らの顔だけ映らなかったり、長人が屋根を跨ぎ両手を地について臍を噛む幻や、驢馬ほどの白狗が城から出て行方知れずになる異象があったといい、まもなく城は陥落した。