南史卷五十三 列傳第四十三梁武帝諸子 邵陵攜王綸

字は世調、小字六真。武帝の六子(?–約551年)。若くして放埒で暴虐な行状が絶えず武帝を悩ませたが、侯景の乱では討伐の大都督や郢州刺史を務め、のち元帝と対立し西魏軍に敗れて捕らえられ殺害された。晩年の勤王は評価された。

年表(10件)

放埒な行状

  • 蕭綸、字世調、小字六真、武帝の第六子。聡頴博学で文章・尺牘に長けた。天監13年(514年)邵陵郡王、普通5年(524年)西中郎将権攝南徐州事となったが、州で軽険躁虐で車服の分を超え市里を放逸に遊び、魚売りに刺史の評判を聞くと悪口を言われ怒って魚を吞ませて死なせるなど、百姓は畏れ道で目を合わせなくなった。喪車を見ては孝子の服を奪って自ら着け匍匐して号呌するなど乱行を重ね、籤帥(役人)が密奏し武帝が戒めても改まらなかった。代官を派遣されると悖慢はさらに増し、老人を仕立てて衮冕を着せ玉座に置いて自ら罪なきを陳べさせ、庭で捶打させたり、司馬崔㑹意を新棺に入れ轜車・挽歌の葬送を演じさせるなど、老女に泣かせる悪ふざけをした。㑹意は耐えかね密奏し、武帝は禁兵で捕らえ獄で死を賜おうとしたが昭明太子が涙して固諫し免官・爵土削除に留めた。大通元年(527年)復封、中大通4年(532年)揚州刺史。

何智通刺殺

  • 依然として驕縦で市場から錦や絲布を無断で数百疋賒買し、絳衫や帳幔を作らせたため店は閉じ商いを止めた。台の続く督促にも応じず府丞何智通が責められて事情を上申し、綸は召還された。心腹の馬容・戴子高・戴瓜・李撤・趙智英らに命じ、白馬巷で何智通を槊で刺殺、智通は血で壁に「邵陵」の字を書いて絶命した。武帝は懸賞百万で犯人を追わせ、西州游軍将宋鵲子が姓名を告げると、舎人諸曇粲が斉仗500人で邸を囲み瓜・撤・智英を捕らえたが子高は塀を越えて逃れた。智通の子敞之は捕らえた者の肉を割いて食い、新亭で四方から炙って焦がし、一片ずつ銭千で百姓に食べさせ、徒党とその母の肉も食い尽くしたという。綸は邸に鎖され庶人に落とされ3旬後に解放、後に爵位も回復した。

侯景の乱と戦死

  • 衡州刺史元慶和の餞別の宴で詩十二韻を賦し「未だ云わず広川国の如し、寂寞として久しく声無し」と詠むと武帝は「お前の才はこれほどか、声が無いことなど心配無用」と賞し、10日後に郢州刺史に任じた。太清2年(548年)中衛将軍開府儀同三司。侯景が反すると征討大都督として率いて討伐に赴くにあたり、武帝は「侯景は小賊だが軍事に習熟している、一戦で滅ぼせると思うな、時間をかけて図れ」と誡めた。綸が京口を発ち中江で船出すると波が荒立ち物が舟を覆そうとするなど不吉な兆候があった。鍾離に至った頃には景はすでに采石を渡っており、綸は昼夜兼行で軍を返したが渡江中に風が起こり溺死者が1、2割に及んだ。
  • 西豊公大春・新塗公大成らと歩騎3万で京口を発ち、将軍趙伯超の献策で径路を取り鍾山を直撃、賊は不意を突かれ三方から攻めた綸軍に大破された。翌日賊が再来、日暮れに退く賊を南安侯駿が数十騎で追うと賊は反撃し駿の隊が乱れ大軍が潰走、綸は鍾山で敗れ京口へ逃げ帰った。軍主霍俊は捕らえられ賊に「邵陵王を捕らえた」と偽らせようとしたが、俊は「王は小敗しただけで糧が尽きて京口に戻ったのだ、私が邏に捕らえられたのであって軍が敗れたのではない」と偽って言い張り、賊は刀の背で腿を打ったが顔色を変えなかったため賊も義として見逃した。俊は中書舎人靈超の子である。太清3年(549年)正月、東揚州刺史大連らと入援、驃騎洲に至り司空に進んだが台城陥落、綸は禹穴へ逃れ東土はこれに従った。臨城公大連が害を恐れ綸を図ろうとしたため気づいて逃れ、尋陽に至ると尋陽公大心が州を譲ろうとしたが受けなかった。大宝元年(550年)郢州刺史。南平王恪が州を譲ろうとしたが受けず、仮黄鉞都督中外諸軍事とされ、百官を置き聴事を正陽殿と改称するなど僭越な体制を敷いた。

元帝との確執と滅亡

  • 城隍神を祭り牛を煮ようとした際赤蛇が牛の口から現れる、南浦に幄帳を張るとにわかな風で流されるなどの怪異が続いた。元帝が長沙で河東王譽を包囲していた際、譽が綸に救援を求めると、綸は救おうとしたが軍糧が続かず断念、元帝へ「和を貴ぶべきで骨肉相食むべきでない、大敵・天讐が未だ除かれぬ今、兄弟3人が匡救しなければ臣子の名分が立たぬ」と書を送ったが、元帝は「譽には罪がある」として返書で拒み、綸は「天下の事がここまで至ったか」と流涕し、左右も涙した。綸は大いに武備を整え侯景討伐を図ったが、その勢いを見た元帝は王僧辯に舟師一万を率いさせ綸に迫らせた。綸の将劉龍武らは僧辯に降り、綸は子躓ら十余人と軽舟で武昌へ逃れ、沙門法聲がかつての誼で巌石の下に匿った。
  • 綸の長史韋質・司馬姜偉は外にいて敗報を聞き駆けつけ、元帝はさらに徐文盛を派遣して追撃させた。綸は斉昌郡で兵を収め魏軍を誘って南陽を攻めようとしたが、侯景の将任約に襲われ敗走、定州刺史田龍祖が迎えると捕らえられることを恐れて再び斉昌へ戻り、汝南で兵を集めた。魏に属す汝南城主李素孝は綸の旧吏で城を明け渡し、綸は城池を修めて竟陵を攻めようとしたが、魏の大将楊忠・儀同侯幾通が来攻し城を落として綸を捕らえた。屈しない綸を大鼓に伏せさせ座上で殺し、遺骸を江岸に投げたが数日色が変わらず鳥獣も近寄らなかった。降雪の中、墓穴の周囲だけ雪が積もらなかったという。楊忠は悔いて太牢で祭り、百姓も憐れんで祠廟を立てた。岳陽王詧が喪を襄陽の楚山南に迎え葬り、太宰を贈り諡を安とした。元帝が改めて諡を議した際、尚書左丞劉㲄は「政をおこたり外と交わるを攜と諡す」と定め、これに従った。

人物

  • 情に任せ気概は卓越し、財を軽んじ士を愛したため人望を得た。府庫は蓄えがなく、有れば求めに応じて散じたため士も帰服した。京口鎮守時に器甲を多く造ったが、評判が立つのを避けてこれを江に投じ、後の出征時に武備が欠乏したことを悔いた。「昔造った武具は不慮の事態に備えたものだったが、疑いを招くまいと散じてしまい、今日抄戦に資するものがない」と嘆いたという。昭明太子薨去後、簡文帝が監撫に入ったとき、綸は「豫章王(統の子孫)がいないから代わりに立てられたに過ぎぬ」と考えていた。廬陵王(続)が没した時にも野心を募らせ、藪に伏兵を置いて車駕を狙ったが台の舎人張僧胤が気づき謀は洩れた。また綸が献じた曲阿酒百器を寺人に飲ませたところ死んだため、武帝は不安を覚え衛士を増やして警戒したが、綸は臆せず、武帝もついに廃黜できず、結局は宗室の争いが天下の笑いものとなった。

堅(綸の長子)――最期

  • 蕭堅、字長白。大同元年(535年)例により汝南侯。草隷を能くしたが性格は凡庸で、親しい者への書簡に「嗣王」と署名して驚かせたが「戯れだ」と弁じた。侯景の都包囲時、太陽門を守ったが終日蒲酒に耽り軍政を顧みず、功のある士を賞さず疫病者も顧みなかったため恨みを買い、太清3年(549年)堅の書佐董勛・華白曇朗らが私室の酒を分け与えなかった恨みから夜賊を城楼に引き入れ、城は陥落し堅は殺された。弟の確が後を継いだ。

確(堅の弟)――経歴と最期

  • 蕭確、字仲正。若くして驍勇で文才もあり、楷隷に優れ公家の碑碣を書いた。祕書丞、大同2年(536年)正階侯、のち永福侯に改封(底本のまま。梁書は永安侯とする)。常に邸で騎射と兵法を学び「狂」と評され、諫める者に「私が国のために賊を破るのを見よ」と答えた。鍾山の戦いでは向かうところ賊を撃破し恐れられ、鞍上で朝から夕まで駆け回って疲れを見せず、軍が敗れ味方が捕虜になっても知らずに戦い続けたが、隙をついて自ら脱出し朱方に至った。侯景が盟を乞うた際、確と趙威方の存在を憚り後患を懸念して確の入城を求めたが、確は多くの裏切りを見抜き先に趙威方を送ろうとした。綸に呼び戻され、綸は涙ながら「お前は反するつもりか」と迫った。台使周石珍が同座しており、確は「侯景は退去すると言いながら囲みを解いていない、今召しに応じても益はない」と言うと石珍は「勅命だ、辞せられぬ」と迫り、確が固辞すると綸は怒り趙伯超に「譙州(確)を斬れ、首を持って参れ」と命じたが伯超は「刃は君を知らぬ」と刀を振り上げただけで確は流涙して城へ入った。
  • 景の背盟で再び囲まれ城が陥落すると、確は門を排して武帝に「城はすでに陥ちた」と報告、武帝が「まだ戦えるか」と問うと「人心は既に離れ、私は縄を伝って辛うじてここまで来た」と答えた。武帝は「自ら得て自ら失う、何を恨もう、ただ子孫に累が及ばぬことを願う」と嘆じ、確に慰労文を作らせ「速やかに去れ、二宮(統・簡文帝系)を思うなと父に伝えよ」と言った。景に降った後もその武力を愛され側に置かれ、飛ぶ鳶を賊たちが射て中らぬ中、確は的中させた。賊は妬み除こうとしたが、綸が典籤唐法隆を遣り密かに導いた際、確は「景は軽佻、一夫の力で討てる、死を惜しまず自ら手を下したい、王(綸)へは一子を惜しまぬよう伝えてほしい」と答えた。のち景と鍾山で狩りをした際、飛ぶ禽を追い弓を引いたところ弦が切れて発射できず、賊に気づかれ殺された。