南史卷四十九 列傳第三十九 庾杲之
庾杲之(字景行、新野の人)。清貧を旨とした風流人で、王儉に「緑水に浮かぶ芙蓉」と称されるなど容姿・談笑に優れ、諸官を歴任し武帝に惜しまれて没した。
庾杲之
- 字景行、新野の人。祖父庾深之は義興太守として善政で知られた。父庾粲は宋の南郡王義宣の丞相城局参軍で、義宣の挙兵に連座し殺害された。
- 杲之は幼くして孝行に篤く、宋の司空劉勔に「江漢の名声を担うにふさわしい」と評された。奉朝請から尚書駕部郎に累進、清貧を旨とし食は韮の漬物や生野菜のみで、任昉に「誰が庾郎を貧しいと言うのか、料理は二十七種もある(韮ばかりの料理を皮肉った洒落)」と戯れられた。
- 尚書左丞に累遷。王儉が「昔袁公(袁粲)が衛軍のとき自分を長史に望んでくれた、今その意を継いで杲之を衛将軍長史に用いる」と述べた。安陸侯蕭緬が王儉への書簡で杲之を「緑水に浮かぶ芙蓉」と称え、王儉の幕府は「蓮花池」と呼ばれた。
- 黄門吏部郎・御史中丞・参大選を歴任し、容姿・談笑に優れ、侍中を兼ねた際、柳世隆が「杲之は蝉冕(侍中の冠飾)に一層映える、陛下は正式に任じるべき」と武帝に進言し喜ばれた。王儉は「国家が杲之に仮職を許すのはその清美を惜しんでのこと、実授するなら胡諧之の後にすべき」と応じた。武帝が酒席で臣下に「私の死後の諡は何と付けられるか」と問うた際、答える者がなく、王儉が杲之を見て「陛下は南山のように長寿、日月と共に輝くはず、千年後のことなど臣下が軽々しく論じられようか」と機知に富んだ答えをし、称賛された。
- 主客郎を兼ね魏使に応対した際、魏使に「なぜどの家も門に売家の札を立てているのか」と問われ、「朝廷が洛陽を回復しようとしているので家を売っているのだ」と機知で応じ、魏使は返答に窮した。諸王への礼遇の役を命じられ、済陽江淹と共に五日ごとに諸王を訪ねた。尚書吏部郎・参大選事・太子右衛率・加通直常侍を経て九年に卒し、武帝に深く惜しまれ貞子と諡された。
庾蓽――附伝(杲之の叔父)
- 字休野、杲之の叔父。齊で驃騎功曹史。博学で弁が立った。永明中、魏との和親に際し兼散騎常侍として使者を務め、散騎侍郎・知東宮管記事。荊州別駕として前任者が私腹を肥やしていた職を清廉に律し、布衣蔬食で妻子も飢寒を免れないほどであったが、齊明帝から手勅で褒められた。
- 梁州の益州刺史鄧元起が功勲著しくも出自が低く士流に列せられることを望んだ際、始興忠武王憺が蓽に採用を命じたが、蓽は「府はあなたの府、州は私の州、選考は私に任せてほしい」と応じず、憺は激怒したが押し切れなかった。会稽郡丞・行郡府事として飢饉の後の政を清廉に守り、食に事欠くほどであったが太守永陽王の見舞いも辞退した。天監元年に卒し、梁武帝は絹百疋・穀五百斛を賜った。
- 西楚の名族であり甥の杲之も齊武帝に寵愛されたため、早くから顕官を歴任したが、同郷の樂藹と不和であった。藹が梁の御史中丞となった際、蓽はかつての優位を恥じ、譴責を受けた折に武帝が同郷の藹を通じて説諭させたため蓽は憤慨し発病して卒した。
- 子の庾喬も荊州別駕となり、元帝の代、寒門出身の州主簿范興話と同列に立つことを恥じて拒み、元帝が興話を退けたため世に「家風を保った」と評された。喬の子庾夐は聡明で富裕、賓客をもてなす姿から方伯たる器量を期待されたが、魏が江陵を陥落させた際に餓死した。当時、水軍都督褚蘿という人相の悪い者がいたが、最後まで衣食に困らなかったという対照的な逸話も伝わる。