南史卷四十八 列傳第三十八 陸杲
陸杲(字明霞、呉郡呉の人)。書画を能くし、御史中丞として剛直な弾劾で知られた「強きを畏れず」の人物。仏法を篤く信じ『沙門伝』三十巻を著した。
陸杲
- 字明霞、呉郡呉の人。祖父陸徽(字休猷)は宋で建康令として清廉、文帝に評価され、元嘉十五年、平越中郎將・廣州刺史・加督となり王鎮之に次ぐ清名で称えられ、二十三年には益州刺史・加督として恩威兼ね備え、卒去に際し文帝に深く惜しまれ簡子を諡された。父陸叡は揚州中從事。
- 杲は学を好み書画を能くし、舅の張融の名声に容貌・挙止が似ていたため「日の下に並ぶ者なし、ただ舅と甥のみ」と評された。尚書殿中曹郎に任じられた日、遅参して免官されるも、後に司徒從事中郎、梁台建設に伴い相國西曹掾。天監五年、御史中丞となり剛直で恐れを知らず、山陰令虞肩の巨額の贓罪を弾劾。中書舎人黄睦之が肩の減刑を頼んできたが応じず、武帝に問われ「その通りだ、この者を知らぬ」と答え、睦之が居合わせているのを指摘されると「小人が司法の場に口出しするか」と一喝し睦之を狼狽させた。従舅の領軍将軍張稷を公事で弾劾した際、稷が武帝に訴えると「杲は職掌に従っているだけだ、何を憚る必要があるか」と武帝に退けられた。「強きを畏れず」と称された。
- 義興太守として寛恵の政を敷き称えられ、左戸尚書・太常卿を経て臨川内史として赴任前、武帝に部曲募集の許可を求めた際、担当者を通さず直接申し出たため武帝に不審がられたが咎めなかった。金紫光禄大夫・特進で卒し質子と諡された。仏法を篤く信じ戒律を守り『沙門伝』三十巻を著した。
- 弟の陸煦は学識があり太子家令、『晉書』撰修に着手するも未完に終わり、『陸史』十五巻・『陸氏驪泉志』一巻を著した。
- 子の陸罩(字洞元)は学を篤くし博覧強記、文章を能くした。簡文帝が藩にあった頃、記室参軍として帝集の序を撰し、太子中庶子・掌管記に累遷、厚遇された。大同七年、母の老いを理由に辞去を願い出て、公卿以下が征虜亭で見送り、皇太子から黄金五十斤を賜り「疏広(漢代の名臣)」に比された。母の死後、光禄卿で終わった。簡文帝が雍州にあった頃撰した『法宝聯璧』の編纂に、罩は他の賢者(南蘭陵蕭子顯ら三十人)と共に数年携わり中大通六年に完成、湘東王が序を書いた。王象・劉邵の『皇覧』に比された。
史論
- 陸澄は博古の学で知られたが、時務への応用に欠け、時に重んじられても事を専断する才には及ばなかった。「書厨」との評はもっともなことである。
- 陸慧曉(叔明)は身を持すること謹厳で、人望を集めた徳の継承者と言うべきである。
- 陸杲は剛直で称えられ、陸罩は文才で栄達を得た、これもまた美事と言えよう。
- もと陸徽の伝は事跡が乏しいため、今は孫の陸杲の伝に附して記した。