南史卷四十八 列傳第三十八 陸慧曉

陸慧曉(字叔明、呉郡呉の人)。晉の太尉陸玩の玄孫にあたる名族の出で、清廉な人柄で知られ五代の輔政を歴任した。子の陸倕をはじめ多くの子孫が学才を輩出し「三陸」と称された。

年表(12件)
  • 齊建元初太子洗馬となった
  • 隆昌元年晋熙王冠軍長史・江夏内史・行郢州事となった
  • 建武初西中郎長史・行事・内史となった
  • 永明九年族孫の陸厥が秀才に推挙され沈約・謝脁・王融らと交わった
  • 永元元年陸厥、父陸閑の誅殺に連座して赦免されたが哀慟のあまり二十八歳で卒した
  • 天監三年族孫の陸襄が著作佐郎に起家した
  • 大同元年陸襄、鮮于琮の反乱を撃破し生け捕った
  • 太清元年陸襄、台城陥落後に呉へ逃れ、のち憂憤のうちに卒した
  • 太清元年族孫の陸雲公が卒した
  • 至徳元年族孫の陸瓊が度支尚書・参選事・判廷尉建康二獄事となった
  • 至徳四年陸瓊、母の喪に哀毀のうちに卒した
  • 太建八年族孫の陸玠が卒した

出自と一族

  • 陸慧曉、字叔明、呉郡呉の人。晉の太尉陸玩の玄孫。玩から慧曉の祖父陸万載まで代々侍中を輩出し、伯父陸仲元も侍中となったため、世に金氏・張氏の名族に比された。
  • 父陸子真は宋の海陵太守。中書舎人秋当が寵臣として海陵に里帰りした際、子真は面会も橋普請の徴発も農繁期を理由に拒み、彭城王義康に称賛された。王僧達が呉郡太守として赴任の際、陸家を「五代内侍の名門、我が家に並ぶ流れ」と評した。子真は臨海太守を経て眼疾のため中散大夫となり卒した。

清廉な人柄

  • 慧曉は清廉で交遊を選び、会稽内史張緒に「江東の裴楷・楽広」と称された。秀才に挙げられ諸府行参軍を歴任後、母の老いを理由に十余年出仕せず孝養に努めた。齊高帝輔政下で尚書殿中郎となった際、昇進を祝う近隣に「三十を過ぎてようやく尚書郎になったことの何が祝いか」と語った。
  • 高帝の奢侈禁止の詔の答草を撰し評価され太傅東閤祭酒。齊建元初、太子洗馬。何点に「心は鏡のよう」、王思遠に「懐に氷を抱くよう」と評され、実録とされた。張融と屋敷を並べ、池と楊柳を「醴泉」「交譲木」に見立てた。
  • 武陵王曄が会稽太守となった際、征虜功曹に選ばれ、参軍劉璡から「この地の水を飲めば鄙吝の心が尽きる」と評された。豫章王嶷の司空掾を経て安西諮議・領冠軍録事参軍。

五代の輔政

  • 廬陵王子卿(武帝第三子)の南豫州刺史赴任に際し、武帝は「烏熊(子卿の幼名)は熊のように愚鈍で天下第一の補佐がなければ一州を治められない」として慧曉を長史・行事に任命。武帝の「廬陵をどう輔けるか」との問いに「静をもって身を修め倹をもって性を養う、静なれば人を煩わせず倹なれば人に負担をかけない」と答え喜ばれた。
  • 司徒右長史(左長史は謝朏)、竟陵王子良に「わが府の二上佐は古来稀な人材」と王融が評した。子良の西邸抄書事業に参与。
  • 西陽王征虜・巴陵王後軍・臨汝公輔國の三府長史・行府州事、西陽王左軍長史・領会稽郡丞・行郡事、隆昌元年、晋熙王冠軍長史・江夏内史・行郢州事。五代の輔政を歴任し清粛な人柄で、属官の来訪には必ず起立して見送った。「貴人には礼を尽くさずとも良いはずでは」と問われ、「無礼な人間が嫌いなので誰に対しても礼を尽くす、貴人にはへりくだらず賤者にこそへりくだるものだ、人生に軽重の別を心に置けるものか」と答え、終生誰にでも敬称を用いた。
  • 建武初、西中郎長史・行事・内史。黄門郎を経て吏部郎。尚書令王晏が門生を要職に補そうとした際、慧曉は数人のみを用いて拒んだため王晏の恨みを買い、女妓を贈られたが受け取らなかった。吏曹郎令史が歴代諮問してきた選事を単独で処理し、帝が使者単景儁を通じ「都令史と協議せよ」と伝えた際、「六十の年になって都令史に諮問などできない、それが不満なら辞職する」と答え、帝に憚られた。
  • 容姿が小柄なことから侍中への登用は見送られ、晋安王鎮北司馬・征北長史・東海太守・行府州事を経て入朝し五兵尚書・行揚州事。崔慧景の乱平定後、右軍将軍を領し南徐州を監す。朝議で侍中に推す声があったが、王亮が「南兖州鎮衛の実務を優先すべき」と主張し、輔國將軍・南兖州刺史・加督となったが赴任後まもなく病により帰り卒した。太常を追贈された。

子ら「三陸」

  • 3子の陸僚・陸任・陸倕はいずれも令名があり「三陸」と称された。慧曉が兖州刺史を授かった際、三子はそれぞれ辞退の上表を作りいずれも典雅な文で人々に称賛された。
  • 陸僚は学識が子史に通じ、姿容美しく髭眉が絵のようであった。西昌侯長史・蜀郡太守。
  • 陸倕(字佐公)は少くして勤学、文を能くし、宅内に茅屋を建て往来を絶ち昼夜読書、一度読んだ書は暗誦できた。人から借りた『漢書』五行志四巻を紛失した際、暗記により書き写し補って返した。外祖父張岱に「わが家の陽元(才子)」と評された。十七歳で秀才に挙げられ、竟陵王子良の西邸に列した。梁天監初、右軍安成王主簿。任昉と親交を結び「感知己賦」を贈り、任昉が中丞となった際の宴に殷芸・到溉・劉苞・劉孺・劉顯・劉孝綽と共に列し「龍門の游」と称された。臨川王東曹掾を経て、梁武帝の勅命で「新漏刻銘」を撰しその文才を愛でられ、太子中舍人・「石闕銘」の撰、太常卿に至り卒した。子の陸纉は七歳で経書に通じ童子郎となるが早世、次子陸罕は倕に酷似した容貌であったという。

陸繕・陸見賢――附伝

  • 陸繕(字士儒)は倕の兄の子。父陸任は御史中丞。若くして雅正の志で知られ、梁承聖中、中書侍郎・掌東宮管記。魏が江陵を平定した際、微服で建鄴に逃げ帰った。紹泰元年、司徒右長史・御史中丞(父の終官と同職のため固辞)。陳武帝輔政下で司徒司馬、受命後は侍中、新安太守を経て文帝嗣位で中庶子・領歩兵校尉・掌東宮管記。容儀端麗で立ち居振る舞いが太子・諸王の手本とされた。太建中、度支尚書・侍中・太子詹事・尚書右僕射から左僕射に遷り選事に参与、徐陵ら七人と共に政事に参議する特旨を受け、卒して特進を贈られ安子と諡された。子の陸辯慧は幼少より才を認められ宣帝から名を賜った。兄の子陸見賢も方雅で少府卿に至り卒した。

陸閑・陸絳・陸厥――附伝

  • 陸閑(字遐業)は慧曉の兄の子。風格を持ち交わりを慎み、張緒に才を認められた。揚州別駕に至る。齊明帝崩御に際し「後継が地位重く才薄ければ国難が来る」と予感し心疾を得て州事に関わらなくなった。永元末、始安王遥光の東府での挙兵に際し、逃げるよう勧める者に「臣として死から逃げられようか」と答え、乱平定後に綱佐として捕縛され殺害された(徐孝嗣は閑の無関与を弁護したが間に合わなかった)。
  • 陸絳(字魏卿)は閑に殉じて父を庇い自ら刃を受けて共に殺害された。
  • 陸厥(字韓卿)は閑の子。若くして風格があり文を能くした。齊永明九年、秀才に推挙され、当時流行した文章で沈約・謝脁・王融らと交わった。汝南周顒が声韻に通じ、沈約らはこれにより四声(平上去入)を用いた韻律(いわゆる永明体)を確立した。沈約が『宋書』謝霊運伝論でこの音律論を展開した際、厥は沈約に書を送り議論を交わした。厥は「古の文人の多くはこの声律の道理を完全には会得していなかった」とし、優れた前代の作品にも音律の不揃いが見られる例を挙げつつ、思考には得手不得手の波があり、文人が己の欠点を自覚していたことこそ知の証と論じた。沈約はこれに答え、宮商の組み合わせは膨大で学んで会得できるものではなく、聖人もこの巧拙を重んじなかった、屈原以来この機微を体得した文人はいなかったはずだとし、両者の議論は再度往復した。永元元年、父閑の誅殺に連座し尚方に繋がれ、赦免を得たが哀慟のあまり二十八歳で卒した。文集が世に伝わった。
  • なお会稽の虞炎という人物も文学で沈約と並び文恵太子に重用され、驍騎將軍に至った。

陸襄

  • 字師卿、厥の第四弟。本名は衰、字趙卿であったが上奏の誤字により梁武帝が襄・師卿と改めた。天監三年、都官尚書范岫の推薦で著作佐郎に起家。昭明太子統に認められ廬陵王記室から太子洗馬・中舍人を歴任し管記を掌った。揚州中從事(父の終官と同職のため固辞したが許されず、官舎を交換して住んだ)。昭明太子は老臣を敬い、襄の母(将八十歳)に蕭琛・傅昭・陸杲と共に月々見舞いと賜物をした。母が急病で粟漿を求めた際、老人が現れて薬を売り去ったという逸話が孝行への感応とされた。太子家令、母の喪で職を退き五十歳で礼を過ぎるほど哀毁した。
  • 大通七年、鄱陽内史。郡人鮮于琮が妖術で人心を惑わし反乱(大同元年)を起こしたが、襄はあらかじめ城郭を修めて備え、来襲を撃破し琮を生け捕った。近隣の豫章・安成の官が反乱残党の追及に事寄せて賄賂を求め冤罪が横行する中、襄の郡だけは公正であったため「鮮于の乱後の善悪の判別、人に横死なし、陸君のおかげ」と歌われた。また彭・李二家の争いを穏やかに解いて和解させ、「陸君の政に怨家なし」とも歌われた。在任六年、郡は大いに治まり、郡人四百二十人が石碑建立と留任を願い出た。
  • 太清元年、度支尚書。侯景が台城を囲むと直侍中省にあり、城陥落後は逃げて呉に戻った。景の将宋子仙が銭唐を攻めると、海鹽の陸黯が挙義して郡を襲い偽太守を殺し、襄を郡事代行に推した。淮南太守文成侯蕭寧を盟主に迎え、陸黯・襄の兄子映公が子仙を追撃したが敗れ、襄は墓下に身を隠し憂憤のうちに卒した。若くして家難に遭って以来五十年、喪に服するように蔬食布衣で音楽を絶ち殺生を口にしなかった。侯景平定後、元帝により侍中を追贈され餘干縣侯に追封された。

陸雲公

  • 字子龍、襄の兄陸完の子。父完は寧遠長史・琅邪彭城二郡丞。雲公は五歳で論語・毛詩を誦し、九歳で漢書を暗記、従祖陸倕と劉顕の質問十条に答え称賛された。長じて才思に優れ、平西湘東王繹の行参軍。「太伯廟碑」を撰し、呉興太守張纉に「今の蔡邕」と称された。武帝に召され尚書儀曹郎・夀光省・知著作郎事、中書黄門郎・兼掌著作。囲碁を能くし、武冠が燭火に触れた際「燭がお前の貂(冠飾)を焼いた、侍中に用いるつもりだ」と武帝に戯れられた。天泉池の鯿魚舟に武帝と共に乗る栄に浴した。太清元年卒。張纉が雲公の死を悼む書簡を送った。従父兄の陸才子も文名があり太子中庶子・廷尉に至り、雲公と共に文集を残した。

陸瓊

  • 字伯玉、雲公の子。幼くして聡慧、六歳で五言詩を作り、大同末に雲公が梁武帝の勅で碁品を校定した席で八歳の瓊が碁盤を反転して並べ直し「神童」と称された。武帝に召見され評価された。十一歳で父の喪に哀毀し、従祖の襄に「必ず家門を継ぐ器」と評された。侯景の乱に際し母を奉じて避難し勤苦して学び、陳天嘉中、尚書殿中郎に至る。文帝に重用され、周廸・陳寶応討伐の文書を任された。新安王文学・掌東宮管記。宣帝が司徒として僚佐を選んだ際、吏部尚書徐陵の推薦で司徒左西掾となり、通直散騎常侍として齊に聘使。太建中、給事黄門侍郎・中庶子・領大著作(国史撰修)。後主即位後、中書省で詔誥を掌り、至徳元年、度支尚書・参選事・判廷尉建康二獄事。父雲公が梁武帝の勅で撰した「嘉瑞記」を継承し永定から至徳までを一書にまとめた。吏部尚書に遷り、譜牒に通じ識鑑優れ、前任宗元饒の後任として尚書左僕射袁憲の推挙により就任し、称職と評された。性は謙倹で権勢を避け、俸禄をすべて宗族に分け与え家に余財なく、晩年は権要を避け病と称して政務を退いた。母の喪に至徳四年、哀毀のうちに卒した。文集二十巻が伝わる。
  • 子の陸従典(字由儀)は八歳で沈約の文集を読み文才を示し、十二歳で「柳賦」を作り従父陸瑜に愛された。瑜の遺書を編み文集を作った。学を篤く好み、太子洗馬・司徒左西掾。陳滅亡後は隋に仕え著作佐郎。楊素の奏請で司馬遷『史記』の続編編纂を命じられたが未完のまま、弟が漢王諒の職に連座し免官され、後に南陽県主簿で卒した。

陸琰・陸瑜(瓊の従父弟)

  • 陸琰(字温玉)は瓊の従父弟。父令公は梁の中軍宣城王記室参軍。幼くして孤児となるも学を好み志操を持った。秀才に挙げられ、宣恵始興王外兵参軍・直嘉徳殿学士。陳文帝に博学と占誦の才を愛され側近に置かれ、「刀銘」を即座に作った逸話で称賛された。通直散騎常侍として琅邪王厚の副使で齊に聘使したが厚が鄴で急死したため使主となり、若さながら風格と受け答えで齊の士大夫に敬服された。太建初、武陵王明威府功曹史・兼東宮管記、母の喪で退官し卒した。至徳二年、司農卿を追贈された。文筆の多くは失われ、後主が遺文を集めさせ二巻に編んだ。
  • 弟の陸瑜(字幹玉)は学を篤くし詞藻に優れ、秀才に挙げられ軍師晉安王外兵参軍・東宮学士として兄琰と共に才学で侍り「二応(応璩・応瑒兄弟)」に比された。太建中、太子洗馬・中舍人。荘子・老子を汝南周弘正に学び、成実論を僧滔法師に学び大意に通じた。皇太子が『子』『集』の書が多いため瑜に抄撰を命じたが未完のまま卒し、太子が涙して自ら祭文を作り、詹事江総と共にその美点を論じた。至徳二年、光禄卿を追贈され文集十巻が伝わる。瑜には従父兄陸玠、従父弟陸琛がいた。

陸玠・陸琛

  • 陸玠(字潤玉)は梁の大匠卿陸晏子の子。学識広く弘雅、後主が東宮にあった頃、管記に召され兼中舍人となったが、まもなく失明し帰郷を願い出て太子に涙して見送られた。太建八年卒し、至徳二年、少府卿を追贈された。文集十巻が伝わる。
  • 陸琛(字潔王)は宣毅臨川王長史陸丘公の子。少くして俊敏で継母に孝行として知られた。後主嗣位後、給事黄門侍郎・中書舍人として機密に参与したが、疎漏の性質から宮中の秘語を漏らした罪で賜死された。