南史卷四十九 列傳第三十九 王諶

王諶

  • 字仲和、東海郯の人。晉の少傅王雅の玄孫。祖父王慶は員外常侍、父王元閔は護軍司馬。宋大明中、徐州の沈曇慶に迎主簿として招かれ、湘東王彧(後の明帝)の国常侍・鎮北行参軍。彧が帝位に就くと司徒参軍・帶薛令・兼中書舍人。学識により重用され、明帝の残虐な政に諫言を重ねたが聞き入れられず、辞職を願い出て尚方に繋がれた。後に中書侍郎。明帝が囲碁を好み囲棋州都に諶を配し、四人の小中正と共に品定めに携わった。尚書左丞・領東観祭酒(明帝設置の総明観)、黄門郎。
  • 齊永明初、豫章王太尉司馬に累遷。武帝と宋明帝の時代からの旧知で厚く信任され、黄門郎・領驍騎將軍・太子中庶子を歴任。貞正温和な人柄で善人と称された。永明八年、冠軍將軍・長沙王車騎長史から廬江王中軍長史、さらに西陽王子明征虜長史・行南兖府州事に転じた。貧しい頃から自ら紡績していたことを常々語り、世にその質朴さを称された。九年に卒した。

王摛――附伝(諶の従叔)

  • 博学で知られ、尚書令王儉が才学の士を集めて隷事(故事の暗誦競争)を行った際の逸話が伝わる。廬江何憲が最も勝り褒美(五花簟・白団扇)を得て得意になっていたところ、遅れて到着した摛が王儉から「これを奪えるか」と問われ、即座に優れた文章を成し、憲の敷物・扇を奪って持ち去った。王儉は「いわゆる大力の者がこれを背負って走る、というやつだ」と笑った。竟陵王子良の学士試験でも摛だけが全問に答えた。
  • 秣陵令として賄賂・請託を許さず清直に務めた。羽林隊主潘敞が二宮の寵を恃み権勢を誇っていた際、その妻の弟の犯罪を庇う請いを摛が拒んで投げ返し、鞭四十の刑を科したため潘敞に讒訴され翌日には交代させられた。永明八年、天が黄色に染まった怪異を司徒法曹王融が「金天頌」で祝したところ、摛は「これは金天ではなく滎光(瑞兆)というべきものだ」と正し、武帝は喜んで永陽郡太守に用いた。後に尚書左丞で卒した。