南史卷四十八 列傳第三十八 陸澄

陸澄(字彦深、呉郡呉の人、?–494年)。博覧強記で知られた碩学。宋から齊にかけ礼制論争や学問論議で活躍し、王儉と学識を競った逸話で知られるが、実務の才には乏しいと評された。

年表(5件)
  • 宋泰始初尚書殿中郎となり、皇后の諱をめぐる典礼論争で免官の上、白衣領職となった
  • 泰始六年皇太子の礼服をめぐる議論で自説を立て、御史中丞に累遷した
  • 齊建元元年家奴の強盗事件で左丞任遐に糾弾義務違反を弾劾され、免官の上、白衣領職として復帰した
  • 永明元年度支尚書に累遷し、まもなく國子博士を領した
  • 隆昌元年光禄大夫・散騎常侍への転任を拝命前に卒し、静子と諡された

出自と学識

  • 陸澄、字彦深、呉郡呉の人。祖父陸劭は臨海太守、父陸瑗は州從事。
  • 少くして学を好み博覧強記、行住坐臥・食事の折も書を手放さなかった。宋泰始初、尚書殿中郎となり、皇后の諱をめぐる典礼論争で自らの意見を立て、免官の上、白衣領職となった。郎官は杖罰の慣例があったが、実罰は受けずとも記録上は前後合わせて千に達した。
  • 泰始六年、皇太子の礼服(袞冕九章)をめぐる議論で、儀曹郎丘仲起と共に経文に基づき「臣下には袞冕を用いさせない古来の慣例があるが、皇太子は群臣とは別格ゆえ聖王の盛典に従うべき」と論じ、御史中丞に累遷した。

免官と復帰

  • 齊建元元年、驃騎諮議沈憲らの家奴が強盗を働いた事件で、左丞任遐が澄の糾弾義務違反を弾劾。澄は自ら上表して弁明し、旧例では左丞が中丞を糾すことはないと論じたが、尚書令褚彦回が宋以来の前例を検し左丞の糾弾は正当と裁定、澄は免官となったが白衣領職として復帰を許された。

王儉との学識比べ

  • 永明元年、度支尚書に累遷、まもなく國子博士を領した。尚書令王儉は「昔の曹志は評判の悪い人物がこの官についたが、君が就くなら恥じることはない」と評した。
  • 王儉との学問問答では、崇礼門の鼓が鳴らされない由来(草創期の茅葺き建物で火災時の合図に設けた名残)を答え、また王弼の易注を尊びつつ鄭玄注も廃すべきでないこと、左伝は杜預注が優れること、穀梁伝には麋信注に范甯注を併せ用いるべきこと、世に鄭玄注と伝わる『孝経』は用語からして鄭玄自身の著作目録に見えず小学の類にすぎず帝王の学に列すべきでないことなどを書簡で論じた。王儉は易注の重要性を強調しつつ、他の論点にはおおむね同意し、『孝経』についてのみ「人倫の教えの根本であり七略でも六芸に位置づけられている、鄭注の真偽にかかわらずそのまま置いておくのが穏当」と応じた。
  • 王儉は自らを博聞多識と自負し澄より多く読書していると考えていたが、澄は「私は少時から読書のみを業としてきた、あなたは若くして政務に追われているのだから、一覧しただけで暗誦できても読んだ量は私に及ぶまい」と応じた。王儉が学士何憲らを集め論争させた際、澄は王儉らの言い尽くした後で数百千条もの漏れを指摘し、いずれも王儉の知らぬ事柄であったため、王儉は感服した。
  • 王儉が尚書省で巾箱・几案・雑服飾を出し、学士に隷事(故事の暗誦競争)をさせ、答えの多い者に一つ二つずつ与えた際、澄は後から来て他の者の知らない故事を更に数条挙げ、旧来の品まで奪い取った。
  • 散騎常侍・秘書監・呉郡中正・光禄大夫・加給事中を経て國子祭酒。竟陵王子良が得た古器(口が小さく腹が方形で底が平らな、七、八升入る器)を澄に問うと「これは服匿(単于が蘇武に贈った器)という」と答え、底に文字がありその通りであったという。
  • 隆昌元年、老疾により光禄大夫・散騎常侍に転じるも拝命前に卒し、静子と諡された。

逸話と晩年

  • 世に碩学と称されたが、易を三年読んでも文義を解せず、『宋書』を撰しようとして果たせなかった。王儉に「陸公は書物の物置(書厨)だ」と揶揄された。家に多くの典籍を蔵し人の見ぬ書も多く、地理書・雑伝を著したが死後にようやく世に出た。
  • 弟の陸鮮が罪で死罪に処されようとした際、澄は舎人王道隆に血が出るまで頭を打ち嘆願し赦免を得た。後に揚州主簿顧測が陸鮮に貸した金の件で、鮮の子陸暉が偽の証文を主張したが、澄が中丞としてこれを抑え測の主張を退けたため、世に非難された。