南史卷四十七 列傳第三十七 江祏
江祏(字弘業、濟陽考城の人)。齊明帝(蕭鸞)の従弟で、明帝擁立から輔政まで支えた腹心。東昏侯輔政期には権勢を独占したが、後継擁立をめぐる密議が露見し、弟江祀と共に誅殺された。
出自と明帝との縁
- 江祏、字弘業、濟陽考城の人。祖父江遵は寧朔參軍、父江德驎は司徒右長史。祏の姑は齊高帝の兄始安貞王蕭道生の妃(追諡景皇后)で、齊明帝(蕭鸞)を生んだ。祏は少くして明帝に兄弟のごとく親しまれた。
- 明帝が呉興にあると祏は郡丞となり、後に通直郎・南徐州別駕。明帝輔政に際し腹心として驃騎諮議參軍・領南平昌太守に任じられた。海陵王擁立直後、人心が服さない中、祏は君臣の大節を説いたが明帝は言を発しなかった。
明帝の即位と権勢
- 明帝の肩に赤い痣(日月の相)があり秘していたが、祏の勧めで晉夀太守王洪範に示すと、洪範は「隠すべきでない」と進言し、後に人々の期待を集めた。張伯尹らの謀反が相次いだ際、祏は憂慮して夕方には常に外出を装った。
- 明帝入纂に際し議定に加わり寧朔將軍を授かる。明帝が宣城王であった頃、図緯に「一号にして十四年を得る」とあり、祏がこれを喜んで示すと明帝は「これ以上何を望もう」と語った。即位後、衛尉・安陸縣侯となり、祖父江遵は后父として金紫光禄大夫、父江德驎は帝の舅として光禄大夫を贈られた。
- 建武二年、左衛將軍・掌甲仗廉察。四年、太子詹事。外戚として権勢は当代随一であった。魏の南伐に際し明帝が劉暄を雍州に任じようとしたが、暄は内職を望み祏に頼った。祏が「昔、暄を占って一州を得れば躓くと言われた、今雍州に当たれば的中するのでは」と諫めたが、明帝は無言で梁武帝(蕭衍)を召し「雍州は卿に委ねる」と命じた。
- 祏は権勢を得て後、諸王の名を借りて贈答を集めるなど利にも意を用いたが、家庭内は睦まじく子姪への恩情も篤かった。
明帝崩御後の擁立をめぐる争い
- 永泰元年、明帝の病篤きに際し祏は侍中中書令に転じ、崩御に及び遺詔で尚書左僕射となった。弟の衛尉江祀は侍中、皇后の弟劉暄は衛尉となり、始安王蕭遥光・徐孝嗣・蕭坦之らと共に東昏侯(蕭寶巻)を輔政した。明帝は東昏侯に「即位五年は自ら意を用いず、それを過ぎてから親政せよ」と戒めた。
- 東昏侯即位後、祏は選事(人事)を掌り、明帝の顧命は諸臣に及んだが実権は祏兄弟に集中した。永元元年、太子詹事を領し、劉暄は散騎常侍・右衛將軍に遷る。東昏侯が独断で政を行おうとする中、徐孝嗣はこれを制しきれず蕭坦之も動揺したが、祏だけは強く制止し、東昏侯の忌避を招いた。
- 徐孝嗣が「主上が異心を見せている、対立してよいのか」と祏に問うと、祏は「委ねてくれれば憂いはない」と答えた。左右の佞臣(茹法珍・梅蟲兒・祝靈勇・俞靈韻・豐勇之ら)が帝の寵を得て権勢を振るう中、祏は常にこれを抑えていたため、佞臣らの怨みを買った。
- 東昏侯の失徳が明らかになると、祏は江夏王蕭寶玄の擁立を図った。かつて劉暄が寶玄の郢州行事として厳しすぎ、馬や煮肫の要求をめぐり両者は不和になっており、暄はこれに同意しなかった。祏は次に建安王蕭寶寅の擁立を蕭遥光と密議したが、遥光は自らの年長を恃み微妙な態度を示し祏を動かそうとした。祏の弟江祀は「幼主では危うい」として遥光の擁立を勧めたが、暄は「遥光が立てば自分の元舅としての地位が失われる」として同意せず、祏は決断できずにいた。
- 遥光は激怒し、腹心黄曇慶を遣って青溪橋で劉暄を刺殺させようとしたが、暄の従者が多く事は露見し、暄は逆に祏の謀を東昏侯に密告した。
誅殺
- 東昏侯は江祏兄弟の捕縛を命じた。当時殿内にいた弟の江祀はただならぬ気配を察して祏に「劉暄が謀を告げたようだ、いかにすべきか」と伝えたが、祏は「静かに構えよ」と答えた。まもなく祏は召されて中書省に留められ、先に直齋袁文曠が王敬則討伐の勲功による封賞を祏に拒まれていた恨みから、東昏侯の命で文曠が刀の柄で祏の心臓を突いて殺した。祏・祀は同日に誅殺された。
- 世論は「祏は任寄重かったが財利を貪ったため人望を欠いた」と評した。祏らの死後、東昏侯は気ままに騎馬で遊びまわり「祏がいつも私の騎馬を止めていた、小僧(祀)が生きていたら今のようにはいかなかっただろう」と語り、祏の近親を問われ「江祥がまだ生きている」と答えると馬上で勅を作り祥を賜死させた。
- 江祀は晉安王鎮北長史・南東海太守、府州事を行った。祀の弟江禧は早世していたが、その子江廞(字偉卿)は十二歳で一族捕縛の報を聞き「伯父がこうなった以上、独り生きる意味はない」と井戸に身を投げて死んだ。
劉暄――附伝
- 劉暄、字士穆、彭城の人。江祏らが誅殺された報を眠中に聞き大いに驚き戸外に飛び出したが、しばらくして落ち着き「江祏兄弟のことを思うと自分の身の痛みなど念頭になかった」と悲しんだ。
- 蕭遥光の挙兵は表向き劉暄討伐を名目としたが、乱平定後、暄は領軍將軍・平都縣侯に封ぜられた。同年、茹法珍・梅蟲兒・徐世標が暄に異志ありと讒言し、東昏侯は「領軍は我が舅、そのようなことがあろうか」と疑ったが、世標が「明帝は武帝の従弟でありながら恩遇厚き者を尽く滅ぼした、舅とて信じられようか」と説き、暄は誅殺された。
- 暄は気性が軟弱で権力の座にありながら常に江祏に譲る態度をとり、そのため一族の弟たちは昇進の機会を得られず、死に際してもこれを怨んだ。
- 和帝(蕭寶融)の中興元年、江祏は衛將軍、劉暄は散騎常侍・撫軍將軍をそれぞれ追贈され、いずれも儀同三司を開くを許された。江祀も散騎常侍・太常卿を追贈された。
史論
- 君は老いても太子に事えるのを止めないのが忠義の教えである。専心して仕えるべき対象に二心を持たぬことこそ節義であり、荀伯玉ははじめこの道を守ったが、後に誅夷されたのはその行いを検証する結果となり、斉武帝(蕭賾)の器量が広くなかったことも知られる。
- 高帝が淮兖の地方官であった頃、覇業の兆しをいち早く見抜き自ら奔走した崔祖思・蘇侃、虞悰の厚遇や胡諧之の腹心としての位置づけは、いずれも時運によって光を得たものである。
- 虞玩之の人物評の厳しさは晩年の逸話に著しく表れており、阮籍(嗣宗)が戒めた道理も遠く通じるところがある。
- 江祏は時期を誤って擁立を企て、ついに関龍逢(桀に諫死した忠臣)のような血を流す結果となった。人の心に僻(かたよ)りの多いことは、詩経の作者が深く恐れたところである。