衡陽元王道度――経歴
- 斉高帝の長兄。若くして高帝とともに雷次宗に学び、次宗が宣帝に二人の学業を問われた際「兄は外に朗らか、弟は内に潤沢、いずれも良璞」と答えたという。
- 宋に仕え安定太守で卒す。斉建元元年(479年)、高帝が追封追諡。子が無かったため、高帝の第十一子鈞を後嗣とした。
劉鈞(実は蕭鈞・道度の継子)――経歴
- 年五歳のとき生母区貴人が病んだ際、五色の飴を与えられても「母上の病が癒えるのを待つ」と食べなかった。七歳で衡陽元王の後を継ぎ、高帝に拝謁した際に涕泗が横流し、高帝は「伯叔父も父と同じ、継嗣としたのはお前に蒸嘗を奉じる資質があると見込んだからだ」と慰めた。
- 区貴人の喪に服し尽礼、武帝を訪ねる際に病身で車に三度上がれなかったほど哀毁した。武帝が自ら邸を訪れ憐れみ、褚蓁に「よく慰めてやれ」と語った。
- 貴人が生前贈った玩具(華釵・厨子・翦刻の錦繍など)を、貴人の没後も歳時ごとに開いて拝礼し哽咽したという。
- 学を好み文をよくし、琅邪の王智深、済陽の江淹と交遊。武帝は王儉に「衡陽王には文学面でも真の実力者を配せ」と命じ、太子舎人蕭敷を文学に任じた。
- 五経を細字で書写し巾箱に納めて携帯、侍読の賀玠に理由を問われ「巾箱の五経は検閲しやすく、一度書写すれば忘れない」と答えた。以後諸王がこれに倣い「巾箱五経」の名の由来となった。
- 会稽の孔珪の山荘に遊んだ際「殿下は朱門・紫闥に住みながら山人と交わるのか」と問われ「身は朱門にあれど心は江海に遊び、形は紫闥に入れど意は青雲にある」と答え、珪に称賛された。呉郡の張融も清高な人物であったが、鈞のみ重んじ「衡陽王は飄々として凌雲の気概があり、その風情は懐かしむに値する」と従兄の緒に語った。
- 秘書監に至り、延興元年(494年)明帝に殺害された。明帝は永陽王子珉(武帝第二十子、初め義安郡王、後に永陽王)を元王の継嗣としたが、子珉も永泰元年(498年)害を受け、再び武陵昭王曄の子・子坦を元王の継嗣とした。
始安貞王道生――経歴
- 字は孝伯。高帝の次兄。宋に仕え奉朝請で卒す。高帝即位で追封追諡。三子あり、長子鳳、次子鸞(後の明帝)、三子𬗟(安陸昭王)。
- 鳳は字景慈、宋に仕え正員郎で卒し諡は靖。建武元年(494年)明帝が道生を景皇、妃江氏を后に追尊し、御道の西に廟を建て「修安」と号し、鳳を始安靖王に追封。子の遥光が嗣いだ。
始安王遥光――出自と最期
- 字は元暉。生まれつき足が不自由で、高帝は祭祀を任せられぬとして弟に爵位を継がせようとしたが、武帝が諌めて遥光に襲爵させた。
- 明帝輔政時、誅賞の事はもっぱら遥光とのみ議し、高帝・武帝の諸子弟を皆殺すよう勧めた策も採用された。建武元年(494年)揚州刺史、三年撫軍将軍に進むが、足疾のため望賢門から輿で出入りし、慘刻な吏事を好んだ。
- 明帝との密議の翌日には必ず誰かが処刑されたという。太子(東昏侯)の学問を軽んじ「文義など士大夫の芸に過ぎず講義は不要」と述べさせ、太子の礼講を止めさせた。
- 永泰元年(498年)大将軍を加えられ、明帝の不予に伴いしばしば侍疾。河東王鉉ら七王が一夜で殺されたのは遥光の意向とされる。明帝崩御に際し侍中中書令を加えられた。
- 永元元年(499年)密かに江祏兄弟と結び自立を図り、弟の遥欣が荊楚で兵を擁して呼応する計画だったが遥欣が病死、江祏も誅されると遥光は懼れて挙兵し東府に拠った。
- 丹陽丞劉渢・城局参軍劉晏・中兵参軍曹樹らと謀り劉暄討伐を名目に決起。驍騎将軍垣歴生の勧めにも決断できず好機を逃し、東昏侯の軍に囲まれる。垣歴生は捕らえられ曹武に殺され、遥光は激怒したが戦況は覆らず、四日にして東府は陥落、遥光は殺された。享年不詳。
- 幼時は誠実な性格で明帝から寵愛され、東昏侯も少年時代に「安兄」と呼び親しんだ。誅殺後も東昏侯は東府を望んで「安兄」と嗚咽したという。腹心の劉渢・劉謙・陸閑・陸絳・司馬端・崔慶遠らも連座して誅された。
曲江公遥欣――出自と最期
- 字は重暉。始安王遥光の弟。宣帝の兄西平太守奉之の後嗣が絶えたため、その曾孫として継いだ。幼少より嶷然として明帝に「必ず令器となろう」と評された。安陸昭王𬗟は「兄弟の富貴は疑いないが、自分がそれを見届けられるか」と悲嘆した逸話が残る。
- 七歳の時、鳥を弓で射る小者に「鳥が空を飛ぶのに人事と何の関わりがあるか、無用に殺すことはない」と諭し、以後その遊びは廃れたという。十五、六歳で経史に博覧、弱冠で中書郎。
- 明帝輔政時に遥光とともに参政、推薦人材は皆適材と評され朝野の人心が集まった。延興元年(494年)兖州刺史、建武元年(494年)西中郎将・聞喜県公、荊州刺史・都督を経て曲江公に改封し陝西(荊州)に鎮した。
- 明帝の子弟が幼弱で晋安王宝義に廃疾があったため、遥光が揚州(中央)、遥欣が陝西(外)を担い実権を分掌した。武勇を好み武士を集め自らの後ろ盾とした。
- 永泰元年(498年)雍州刺史・寧蛮校尉を兼ね襄陽に移鎮したが、魏軍が退いた後、卒去。司空を追贈され諡は康公、王礼をもって葬られた。
蕭幾(遥欣の子)――経歴
- 字は徳玄。十歳で文を作り、早くに父を失うが弟九人を篤く愛した。温和な性格で人と争わず清貧を保ち学を好んだ。楊公則(曲江公の旧吏)は「桓霊宝の生まれ変わり」と評し、公則の死後は誄文を書き沈約が「希逸の作にも劣らない」と称賛した。
- 中書侍郎・尚書左丞を経て、晩年は仏教に傾倒し新安太守(山水を愛し記を残す)で卒す。子の清も文才があり永康令に至る。
蕭遥昌(遥欣の弟)――経歴
- 字は季暉。建武元年(494年)豊城県公に封じられ、豫州刺史で卒す。諡は憲公。
安陸昭王𬗟――経歴
- 字は景業。容姿優れ宋に仕え中書郎、建元元年(479年)安陸侯に封じられ五兵尚書、出でて呉郡太守として治績で称された。竟陵王子良から「数十年来の姑蘇にこのような善政はない」と称える書を受けた。
- 寧蛮校尉・雍州刺史・都督に累遷し、辞訟に自ら心を尽くし民に愛された。卒去に際し百姓が沔水沿いで悲泣し、峴山に祠を立てた。諡は昭侯。明帝は少時から𬗟と親しく、その臨終には慟哭が止まなかったという。建武元年(494年)司徒を追贈。
- 子の子宝晊が嗣ぎ、永元元年(499年)湘東王に改封。東昏侯に廃されると謀反を企て(梁武帝の建康包囲時の内応と関連)、弟の江陵公宝賢・霄城公宝宏とともに伏誅した。
新吳侯景先――出自と経歴
- 高帝の従子。祖父は爰之、員外郎。父は敬宗、始興王国中軍。景先は幼くして父を失い母孔氏に養育されたが高帝が引き取り、淮陰鎮では軍主として自らのそばに置き心腹とした。
- 武帝の広興郡赴任に景先を同行させ、寧朔府司馬となり以後常に武帝に随った。建元元年(479年)太子左衛率、新吳県伯に封ぜられる(本名道先、高帝の諱を避け景先と改名)。
- 若き日、武帝と共車で轅を折った故事を武帝が即位後も忘れず、景先を領軍将軍に任じる際「二人とも領軍になっても今日の艱難は忘れまい」と語ったという。任官の日、車の轅が折れずに済んだことを喜ぶ詔が下された。
- 沈攸之の乱の折、盆城で城壁を巡視中「賊はまもなく平定される」という声を聞いたという逸話があり、後に実現。永明三年(485年)丹陽尹に任じられた際、武帝は「かつての盆城の予言を検証させたい」と語った。
- 司州諸軍事を仮節され卒す。諡は忠侯。子の毅は奢侈で明帝に疑われ、王晏事件に連座して誅された。
南豊伯赤斧――出自と経歴
- 高帝の従祖弟。祖父の隆子は衛軍録事参軍、父の始之は冠軍中兵参軍。和謹な人柄で高帝に見出され、輔政期に黄門侍郎・淮陵太守を歴任。
- 順帝が禅譲した際、赤斧は輔送の任にあたった。後に雍州刺史として私利を求めず勤めた。散騎常侍・左衛将軍に遷り、蕭景先と並び武帝に厚遇され、南豊県伯に封じられる。
- 給事中・太子詹事で卒し、家貧しく衾に絹すら無かったという。諡は懿伯。子の頴胄が襲爵した。
蕭頴胄――出自と経歴
- 字は雲長。弘厚な人柄で父の遺風を受け継ぎ、秘書郎で起家。高帝は「頴胄は軽やかに前へ進む」と評した。太子舎人に遷るが父の喪で脚疾を得て数年動けなかったところ、武帝が医薬を賜って慰めた。
- 竟陵王司徒外兵参軍・晋熙王文学を経て、武帝の登楼賦詩に合旨の詩を作り「文才ある弟、宗室に才乏しからず」と称された。左軍将軍・新安太守・黄門郎・衛尉を歴任。
- 明帝の廃立に際し従容として異を唱えず参画。建武二年(495年)侯に進爵。武帝の元日酒鎗(銀の酒器)を巡り、王晏らが「盛徳」と称賛する中、頴胄は「三元の礼はこの器のみで奢侈とは言えない」と皮肉って帝を不快にさせた逸話がある。
- 廬陵王後軍長史・広陵太守・行兖州府事の時、魏の南侵の噂に慌てず対処、後に南兖州刺史。和帝が荊州にいた際、西中郎長史・南郡太守・行荊州府事となる。江祏が朝権を専断していたことに不満を抱いた。
- 永元二年(500年)尚書令蕭懿・その弟蕭暢が誅殺されると、劉山陽が頴胄襲撃のため派遣された。梁武帝(当時雍州刺史)は頴胄に挙兵を促す使者・王天武を送るが頴胄は逡巡。
- 山陽の疑念を晴らすため頴胄は天武を斬って山陽に示したが、山陽が軽装で城に入ったところを城局参軍席闡文が斬殺、首を梁武帝に送った。
- 東昏侯が荊雍討伐を発令すると頴胄は挙兵の大義を掲げ衆望を集めた(長沙寺の金龍伝説「下方黄鉄」も引き合いに出された)。十二月建業に檄を移し、中興元年(501年)和帝が相国となると頴胄は左長史・鎮軍将軍。
- 侍中尚書令・監八州軍事・荊州刺史として西朝を留守し、弟の頴達を郢城攻略に派遣。頴胄自身は職務の重責と過度の飲食(白肉膾を三斗)から発病し卒した。死は秘され、建康平定後に発喪。
- 丞相を追贈され、梁天監元年(502年)巴東郡公に追封、諡は献武。梁武帝が葬儀に臨み哭き、王導・蕭嶷の故事に倣って葬られた。
蕭頴達(頴胄の弟)――経歴
- 若くして勇を好み気概があった。斉建武末、荊州事を代行していた兄頴胄とともに西中郎外兵参軍として挙兵に加わった。
- 弟の頴孚は建業から廬陵人の手引きで南帰する途中、食糧が尽き過食で卒した。建康平定後、梁武帝は頴達を前将軍・丹陽尹とし、頴孚には右衛将軍を追贈、頴達を作唐侯・侍中衛尉卿に封じた。
- 豫章内史赴任前の華林園の宴で沈約に酒を勧められた際「私の今の様子は貴殿のような老鼠のせいだ」と罵倒し座を驚かせたが、武帝は「宗室の身で沈公のような重鎮に無礼を働くとは」と咎めつつも寛宥した。
- 江州刺史として懸瓠帰化の混乱に対処せず酒に耽り、州事を顧みなかった。左衛将軍で卒す。諡は康侯。子の敏が嗣ぎ新安太守となる。第七子の斆は太清初め魏興太守・梁州刺史宜豊侯循の府長史となり、伝説の古墓「尖冢」(張騫の墓との説あり)を発掘し銀鏤の銅鏡を得た。
衡陽公諶――出自と最期
- 字は彦孚。高帝の絶服の族子。祖父の道清は員外郎、父の仙伯は桂陽国下軍。宋元徽末、武帝が郢にいた頃、高帝が諶を遣わして武帝と密謀を通じさせ、以後腹心となった。
- 昇明中、武帝の中軍刑獄参軍・南東莞太守を経て功により安復県男に封ぜられる。建元初め武帝が東宮にいた頃、諶が高帝に処罰された張景真の助命を乞い高帝の不興を買った。
- 武帝即位後、歩兵校尉・南蘭陵太守として御仗を主り兵仗を任され、心腹の密事を委ねられた。左中郎将・後軍将軍を経て、武帝の臨終に「諶は殿内の事を旧のごとく領せよ」との遺勅を受けた。
- 鬱林王即位後、深く信任され、諶が不在の夜は帝が眠れなかったほどであった。衛軍司馬・兼衛尉を経て、明帝輔政期には廃立に協力し諸王の典籤に密令を下すなど権勢を握った。
- 建武元年(494年)中領軍・進爵公、左将軍・南徐州刺史を経て衡陽郡公に進爵。しかし望んでいた揚州刺史を得られず「炊けた飯を人に譲るようなものだ」と怨言を漏らし、王晏に「今後誰が蕭諶のために飯を炊くだろう」と揶揄された。
- 明帝は次第に諶を疑い、建武二年(495年)六月、華林園の宴の後に呼び戻し賜死。「隆昌の際、卿がいなければ今日はなかったのに、なぜ怨むのか」と詰問され、諶は「天は人に近い、私が高帝・武帝の諸王を殺したのも卿の伝言によるものだ、今死しても後に卿を取る」と応じたという。
- 術士の呉興の沈文猷に人相を見てもらい「高帝に劣らぬ相」と言われ喜んだが、諶の死後、文猷も誅殺された。
蕭誕(諶の兄)――経歴
- 字は彦偉。永明中、建康令として秣陵令司馬廸之と同乗し儀仗を分けたことを弾劾され贖罪となる。延興元年(494年)徐州・司州刺史を歴任、明帝即位後は安復侯・左衛将軍。
- 諶誅殺の際、誕が辺境で魏を防いでいたため誅殺を延ばされたが、魏軍撤退から六十日後、梁武帝を司州の別使として遣わし誅された。子の稜の妻(江淹の娘)は諶の死を聞き「蕭氏は皆滅んだ、私も生きる意味がない」と慟哭して絶命した。
蕭誄(諶の弟)――経歴
- 字は彦文。諶と共に廃立に加わり西昌侯・太子左衛率となる。諶誅殺の日、輔国将軍蕭季敞が誄を追い詰めたが、誄は「死者への辱めなど、幽冥にて必ず報いる」と応じた。
- 季敞は粗暴だが取り繕いに長け、かつて諶の推挙で郡守を歴任し貪汚を諶に庇われた過去があった。後に広州刺史となった誄は白昼、誄将兵の幻を見て捕らえられたが、間もなく西江都護周世雄に襲われ敗走、山中で蛭に噛まれ悲惨な死を遂げた。論者はこれを天道と評した。
臨汝侯坦之――出自と経歴
- 字は君平。高帝の絶服の族子。祖父の道済は太中大夫、父の欣祖は武進令。蕭諶と同族で、東宮直閤として文恵太子に信任された。
- 武帝崩御時、坦之は太孫の文武百官を率いて対応。少帝(鬱林王)にも親信され、後に明帝側に転じ耳目として仕えた。隆昌元年(494年)父の勲功を追録され臨汝県男に封じられる。
- 少帝が廃立の陰謀を疑い坦之に真意を問うと、坦之は「天下にそのようなことがあろうか」と表向きは否定しつつ、実は明帝に密告し続けた。少帝が沈文季への贈賄を試みて拒まれた際も、坦之が正しい手続きを助言する体で信頼を保った。
- 少帝が酔って暴走した際、坦之が身を挺して馬を制止し止めた逸話もある。明帝が廃立を決すると、蕭諶を促して事を成させ、坦之の功が大きかった。
- 海陵王即位で黄門郎・兼衛尉、建武元年(494年)左衛将軍・侯に進爵。東昏侯即位で侍中領軍将軍。永元元年(499年)江祏兄弟が始安王遥光擁立を画策した際、密告を受けた坦之は「明帝の簒奪は既に人心を失っているのに、これ以上の事があれば天下が瓦解する」と拒絶した。
- 遥光挙兵の際、坦之は捕らえられかけるが臺の遊邏主顔端に助けられ脱出、衆を集めて殿内に入り仮節督衆軍として遥光討伐にあたった。事平後、尚書左僕射・丹陽尹に遷り公に進爵。
- しかし事平二十余日後、帝は延明主帥黄文済を遣わし坦之邸を包囲させ誅殺。検分すると家は赤貧で質入れの銭帖数百枚のみだったという。和帝中興元年(501年)中軍将軍・開府儀同三司を追贈された。
史論
- 論じて言う。斉の宗室のうち始安の家系のみが栄えたが、明帝はこれを非道な手段で取り立て、遥光はそれを残酷さで済ませたため、ついに顛覆に至った。これもまた自ら招いた結末というべきである。頴胄が荊州の任に就いたのは、そもそも職を失ったからに過ぎず、末路における倚伏の関係を予め図りえたであろうか。諶と坦之はいずれも顧命に応じた身でありながら、国を傾け、また自らを覆すに至った。それぞれ相応の結末であった。