南史卷四十 列傳第三十 呉喜

経歴

  • 呉興臨安の人。本名は喜公、明帝が喜と改名させた。領軍府の白衣吏として出仕し、若くして書に通じ暗誦に優れた。
  • 領軍将軍沈演之の起居注の書写を任され、文帝の求書を誤って渡したことで一度は怒りを買ったが、太子歩兵校尉沈慶之の南討に文帝の許しで従軍し、孝武帝に見出され河東太守・殿中御史に至る。
  • 明帝即位後、精兵三百を求めて東討を志願、羽林の勇士を配され出征。当初刀筆吏として将たるにふさわしくないと議されたが、中書舎人巣尚之の推薦で実現。孝武帝の時代から人望が厚く、東征では「呉河東が来た」と聞くだけで敵が降伏したという。
  • 歩兵校尉・竟陵県侯を経て泰始四年(468年)東興県侯に改封、右軍将軍・淮陽太守・兼太子左衛率、翌年驍騎将軍として荊亭で魏軍を大破。豫州で魏軍を防ぎ都督豫州諸軍事を加えられた。
  • 東征時、尋陽王子房ら賊帥を捕らえたが東で梟首せず生きたまま都に送るなど寛容な処遇を見せた。しかし荊州平定時に贓私を万計にわたって恣にし、漢高祖・魏武帝を語る不敬な発言もあり、明帝の疑いを招く。
  • 夀寂之の死後、喜は自ら不安を覚え中散大夫を求めた。明帝は病の身後を案じ、喜が幼主に仕えないことを恐れて賜死。処刑前夜、明帝は喜を招いて名饌と金銀の食器を賜り、その器を喜の家に置かず持ち帰らせた(凶事を家に残さぬための配慮)。死後、詔で子の徽の襲爵が認められた。