南史卷四十 列傳第三十 宗越

出自と最期

  • 南陽葉の人。本来は南陽の次門だったが、安北将軍趙倫之の襄陽鎮の際に役門に落とされた。父が蛮族に殺されると市中で仇を刺殺し、太守夏侯穆に隊主として抜擢された。
  • 蛮族討伐に活躍し、元嘉二十四年(447年)文帝に次門復帰を願い出て許され、二十七年(450年)柳元景の魏侵攻に従軍。竟陵王誕の広陵反乱平定後、孝武帝の命で城内の男丁を誅殺する任にあたり、鞭打ってから殺すなど数千人を殺した。
  • 前廃帝景和元年(465年)游撃将軍・直閤となり、譚金・童太一らと共に廃帝に重用され群公・何邁らを誅殺したため、廃帝はその爪牙として恃んだ。
  • 明帝が乱を平定した後も越らを容れがたく思い、越らも懼れて反乱を謀ったが沈攸之に密告され、下獄されその日のうちに死んだ。
  • 軍陣を立てるのに巧みで数万の軍勢を寸分違わず整えたが、性は厳酷で刑罰を好んだ。王玄謨の下でも兵士が「宗公に殺されるより五年の徒刑の方がまし」と言うほど恐れられた。