出自と生涯
- 江秉之、字は玄叔、済陽考城の人。祖父の江逌は晋の太常、父の江纂は給事中。秉之は若くして父を失い、幼い弟妹七人を養育し、婚姻に至るまで心力を尽くした。
- 宋の少帝の時、永世・烏程令となり善政で東土に名を知られ、建康令に召されると厳明な政で部下を粛然とさせた。のちに山陰令となったが山陰は戸口三万で政事が繁雑で訴訟が堆積し、庭前には常に数百人が並んだ。秉之は簡素をもって繁事を制し常に無事であった。宋代では顧顗之だけが同様に省事で実績を残していたが、他の官は刑政を整えても事を簡略化できなかった。
- 治績により新安太守に補され、元嘉12年(435年)、臨海太守に転じ、いずれも簡約さで称えられた。任地で卒し、得た俸禄はすべて親族に分け与え、妻子は常に飢寒に苦しんだ。人が田を営むことを勧めると、秉之は正色して「俸禄を食む家がどうして農人と利を争えようか」と答えた。郡にあった間、書案一枚を作っただけで、去官の際は府庫に留め渡した。
- 秉之の宗人、江邃之、字は玄遠は文義に優れ『文釈』を撰して世に伝えた。司徒記室参軍に至る。秉之の子江徽は尚書都官郎・呉令であったが、元凶劉劭が徐湛之を殺した際、その党与として誅された。子は江謐。
江謐――江秉之の子江徽の子
- 江謐、字は令和、父の江徽が禍に遭った時、尚方に繋がれたが、宋孝武帝が建業を平定すると釈放され、于湖令として力強く職務を果たし称された。宋明帝が兖州であった頃、江謐は身を尽くして仕え、明帝即位後は驍騎参軍に任じられた。弟の江蒙は容貌が醜く、明帝はしばしば召し出して戯れとしていた。
- 江謐は右丞に再遷し比部郎を兼ねた。泰始4年(468年)、江夏王劉義恭の第十五女が19歳で未笄のまま没した際、礼官は成人の礼を用い諸王が大功を服すべきとしたが、左丞の孫敻は重ねて『礼記』の「女子十五にして笄す」の条を引き、鄭玄注に「これは許嫁の者を指す」とあり、未許嫁は二十で笄すとし、射慈は19歳ならなお殤礼とすべきとし、礼官の議は経典に反し理に据なしとした。太常以下は免官贖罪の処分となり、江謐はこれに連座して杖督五十・俸禄百日停止の処分を受けた。江謐はさらに、孫敻が事前に十分検討せず誤った議に同調したとして連座を求め、孫敻もまた免官贖罪となった。詔はこれを可とした。
- 出て建平王劉景素の冠軍長史・長沙内史となり湘州事を行ったが、政は苛烈であった。僧の遵道は江謐と親しく、随行して郡に赴いたが些細な事で郡獄に繋がれ、三衣を裂いて食べ尽くし餓死した。有司の弾劾を受け、江謐は召還された。明帝崩御後、大赦により免れた。
- 斉高帝が南兖州を領した際、江謐は鎮軍長史・広陵太守となり、入朝して遊撃将軍となった。性は軽薄で世に阿ることを善くした。元徽末年、朝野が挙って建平王劉景素に心を寄せる中、江謐は深く彼に結びついたが、事が敗れると辛うじて禍を免れた。蒼梧王が廃されて人心が疑心暗鬼であった中、江謐だけは誠を尽くして斉高帝に仕えた。
- 昇明元年(477年)、黄門侍郎・領尚書左丞となった。沈攸之の反乱が起きた際、朝議が高帝に黄鉞を加えるよう提案したのは江謐の建議であった。事が定まると吏部郎に遷り、斉建元元年(479年)、侍中となった。まもなく驃騎豫章王蕭嶷が湘州を領すると江謐を長史とし、永新県伯に封じた。3年、左戸尚書となり、諸皇子が府を開くにあたり文武の主帥の人選をすべて江謐に委ねられた。まもなく勅で「江謐は寒門の士人、名族と競い合う地位には及ばぬが、才幹が甚だあるので吏部を掌らせよ」と述べられた。江謐は文書・実務に長け、赴くところ有能ぶりを示した。
- 高帝が崩じると江謐は病と称して朝に入らず、人々は彼が顧命に与らなかったことを恨みとしているのではと疑った。武帝即位後も昇進せず、これを怨望した。武帝が病に伏せった際、江謐は豫章王蕭嶷を訪ね「至尊はもう回復せず、東宮(太子)も才が足りない。公は今どうなさるおつもりか」と尋ねた。武帝がこれを察知し、江謐を鎮北長史・南東海太守として出したが、赴任前に深く憂え、囲碁占卜を行うと「南から客が来て金の椀・玉の杯」との卦が出た。
- 上は御史中丞沈冲に江謐の前後の罪悪を弾劾させ、廷尉に送られるよう詔で命じ、賜死とされた。果たして金の甖に薬を盛って鴆殺された。子の江介は建武年間に呉令となったが、政は同じく苛烈で、人が門に死人の髑髏を掲げて江謐を指弾する榜を立てたため、江介は官を捨て去った。
史論
- 羊敬元(羊欣)は控えめでありながら名声を得、羊玄保は弘懿の人望をもって推された。世の重んじるところは決して虚名ではない。しかし羊玄保の栄達は帝の眷念に負うところも大きく、命は天に由るとはいえ、その根本を辿れば賢徳の助けもあったといえよう。
- 沈氏は代々武節を伝えたが、沈演之は学業をもって知られ、機密の要務に参与し、静かに節を守った。沈叔源(沈浚)は危難に臨んで節義を示し、その徳と風格は「世に人あり」と評すべきものであった。
- 江茂遠(江夷)の家系は晋から陳に至るまで雅道を継承し、代々徳を伝えたが、江揔は寵愛と狎昵に溺れ、かえって文雅の才によって身を滅ぼした。士人の名声は結局のところ文質彬彬たるところにこそ貴さがあるのだ。
- 江玄叔(江秉之)は清廉潔白で、古の高潔な人物に比すべきである。江令和(江謐)は時勢を窺い世に迎合する性質で、ついに危うい道の途中で躓いた。それも当然のことであろう。