南史卷三十一 列傳第二十一 張瓌

張瓌、字は祖逸、張永の子(?–天監四年)。斉建国の功臣で、呉郡の反乱鎮圧により斉高帝の信任を得た。清廉で郡の俸禄を受け取らないなど質朴を貫いたが、王敬則の乱では軍が潰走する失態も経験した。

年表(5件)

呉郡討伐と清廉の生涯

  • 瓌、字は祖逸。宋の征北将軍南兖州刺史永の子。宋に仕え桂陽内史に累遷したが、兄瑋のいる場所を避けたいとして自ら官を辞し赴任しなかった。後に司徒右長史・通直散騎常侍・驍騎将軍。かつて父の永が桂陽王休範を白下で防いで敗績した際、阮佃夫らが罪に問おうとしたが斉高帝がこれを固く弁護してくれたため、瓌は恩を感じ高帝に近づいた。父母の喪で呉に戻って服喪した。
  • 昇明元年、劉彦節に異図があり、弟の遐が呉郡で密かにこれに呼応していた。高帝は殿中将軍卞白龍を密かに遣わし瓌に遐を討たせようとした。張氏は代々豪気があり、瓌の邸には父の代の旧部曲が数百人いた。遐が瓌を召して軍事を委ねようとしたので、瓌は偽って命を受け、叔父の恕とともに兵十八人を率いて郡府に入り遐を斬った。郡内は動揺しなかった。事が成就すると高帝は左軍張沖にこれを告げ、沖は「瓌は百口の命を賭けて盧(最高の目)を出した」と評した。呉郡太守に任じられ、佳字を賜り義城県侯に封じられた。従弟の融はこれを聞き瓌に書を送り「呉郡(の任)はなぜこんなに遅かったのか、王の反逆を待つまでもなかったのに」と、驚き喜んだ様子を伝えた。郡人の顧暠・陸閑はまだ無名の若者だったが、瓌はともに綱紀(属官)に引き立て、後にいずれも名を成し、瓌の人を見る目が評価された。
  • 斉建元元年、平都侯に改封され、侍中に遷り、侍中沈文季とともに門下にあった。高帝は「そなたは私の臣であるが、私はそなたを賾(後の武帝)や嶷らと同じく親しんでいる」と語った。文季は昇進のたびに実務のある官に転じたが、瓌は朝服のみの官にとどまることが多かった。当時、集書省は門下の東省を兼ねることが多く、清貧な官が多かったため、瓌を知らぬ者は単に「散騎」と呼んだ。呉興太守に出ると、瓌は国からの俸給がありながら郡の俸禄を受け取らず、高帝はその奉禄を庫に別に保管させ清廉さを表彰した。武帝の即位後、寧蛮校尉雍州刺史加都督となり、左戸尚書加右軍将軍として召還された。安陸王□が雍州を巡行した際、蔓山で物乞いの老人に出会い、生業を営まず物乞いをする理由を尋ねると、老人は「張使君(瓌)が州を治めていた頃は百姓の暮らしが保たれていましたが、後任の政治が厳しくなり、物乞いに至りました」と答え、安陸王は深く感じ入り称賛した。
  • 後に太常を拝命したが、閑職と感じて帰宅してしまい、武帝は「そなたたちはまだ富貴でない頃は人が自分を見捨てると嘆いていたのに、富貴になった今、なぜ職を投げ出そうとするのか」と言うと、瓌は「陛下が臣らを馬のように扱われるなら、無事な時は閑廐に置き、事あれば引き出すもの」と答え、帝はなお怒ったが、結局散騎常侍・光禄大夫とした。鬱林王の廃位に際し朝臣が宮門で明帝に伺候した中、瓌は脚の病と称して参上しなかった。海陵王の擁立後、明帝が外藩の挙兵を疑い瓌に石頭を鎮させ衆軍事を督させたが、瓌は朝廷の多難を見て仮病を装い続けた。建武末年、しばしば呉への帰郷を願い出て許され、住まいは豪奢を極め伎妾が多く、老いて妓を蓄えることを譏る者もあったが、瓌は「若い頃から音律を好み、老いてようやくその奥義を理解できた、生涯の嗜欲はほとんど尽きたが、これだけはまだ捨てきれない」と答えた。
  • 明帝の病が篤くなると、大司馬王敬則の謀反を警戒し瓌に平東将軍呉郡太守を授けて備えさせたが、敬則が反すると瓌は松江で迎え撃とうとした軍が敬則軍の鼓声を聞いただけで一斉に逃げ散り、瓌も郡を棄てて人里に隠れた。事平定後に郡に戻ったが、有司の奏で免官削爵となった。永元初年、光禄大夫。三年、梁武帝が挙兵すると、東昏侯は瓌に節を仮して石頭を戍らせたが、まもなく城を棄てて宮に戻った。梁天監元年、給事中右光禄大夫を拝命したが脚の病のため自宅で拝命し、四年に卒した。瓌には子が十二人おり、常々「この中にきっと出来の良い者がいるはずだ」と語っていたが、子の率が名を知られた。