放逸な才人
- 充、字は延符。若い頃から遊興を好んだ。緒が帰省の途上、呉の西郭に入ったところ、鷹を右腕に、犬を左手に引いた充と鉢合わせ、充は慌てて紐を放し鞲(腕当て)を外して水辺に拝跪した。緒が「一身で二役とは辛かろう」と言うと、充は跪いて「私は『三十にして立つ』と聞きます、今二十九、来年までお待ちください」と答えた。緒は「過ちを改める心があるとは、顔回の子のようだ」と喜んだ。翌年、充は本当に品行を改め、多くの学問に通じ、特に老子・易経に明るく、清談も巧みで、従叔の稷とともに評判を得た。
- 尚書殿中郎・武陵王友を歴任。時に尚書令王儉が朝政を掌り、斉武帝も儉に決を委ねていた。儉が親賓を集めた席に、充が縠巾葛帔(軽やかな装い)で現れ酒を求め放逸に語ると、一座はみな引き込まれた。武帝が緒を尚書僕射にしようとした際、儉が反対したことを知った充は憤り、儉に書を送って「隠逸の情」を述べ、金と水、方と円の喩えを引き、利欲に淡白な自らの生き方を語った。儉はこれを軽視して重んじず、書を緒に見せると、緒は充を杖打ち百回に処し、さらに御史中丞到撝に弾劾されて免官禁錮となった。沈約はこの書を見て「充は始めこの書で身を滅ぼしたが、終わりにはこれで名を成した」と評した。
- 久しくして司徒諮議参軍となり、琅邪の王思遠・同郡の陸恵曉らとともに司徒竟陵王の賓客となった。累遷して義興太守。政は清浄で吏民に親しまれた。後に侍中。梁武帝の軍が建鄴に至った時、東昏侯が百官を殺害し西鐘下に集めて召したが、充は応じなかった。武帝の覇府が開かれると大司馬諮議参軍に任じられた。天監初年、太常卿・吏部尚書を歴任し人事は公平と評され、散騎常侍・国子祭酒に再遷し、講堂で講義すると皇太子以下、王侯も多く学びに来て充を拝したが、充は朝服のまま立ち、それを受けようとしなかった。尚書僕射に再遷し、まもなく呉郡太守に出た。着任するや貧しい老人を慰問し、故旧はみな喜んだ。呉郡で卒し、諡は穆。子の最が跡を継いだ。