南史卷三十一 列傳第二十一 張率

張率、字は士簡、張瓌の子(?–?)。若くして詩才に優れ、梁武帝に「東南の才子」と称され秘書丞などを歴任した文人官僚。酒を好み家政に無頓着だったことでも知られる。弟の盾は謹直な清貧の官吏として知られた。

年表(3件)
  • 建武三年秀才に挙げられ太子舎人に除せられる
  • 天監四年華光殿の禊飲の宴で賦を作り武帝に巧みと評される
  • 天監七年中権建安王中記室参軍に除せられる

文才と忘懐の逸話

  • 率、字は士簡。性格は寛雅で、十二歳で文章を能くし、毎日詩一篇を課し、数日作らねば後で埋め合わせるほどであった。次第に賦や頌にも進み、十六歳の頃には二千余首を作った。虞訥という者がこれを見て貶したため、率は一夜にして全て焼き捨て、改めて詩を作って「これは沈約の作」と偽って示すと、訥は句ごとに称賛して欠点のない出来だと言った。率が「これは私の作だ」と明かすと、訥は恥じて退いた。
  • 陸少玄の家に父澄の蔵書一万余巻があり、率は少玄と親しくその蔵書を読み尽くした。建武三年、秀才に挙げられ太子舎人に除せられ、同郡の陸倕・陸厥と幼い頃から親しく交わった。三人で左衛将軍沈約を訪ねた際、その場にいた任昉に約は「この二人は後進の秀才、みな南金(優れた人材)だ、卿もぜひ交わるべき」と言い、これが縁で率は昉と親交を結んだ。
  • 梁天監中、司徒謝朏の掾となり文徳待詔省に直宿。勅命で乙部書を抄写し、また古の婦人事を撰させられ、能書家の琅邪王琛・呉郡范懐約らに写させて後宮に給した。率は休暇を取り東へ帰ってしまい、これを世間は「傲世(世を傲る)」と評した。率は恐れて待詔賦を作って奏上すると大いに称賛され、帝は手勅で「相如は巧みだが機敏に欠け、枚皋は速いが巧みでない、卿は二人を兼ね備え金馬門にいるようなものだ」と答えた。宴に侍って詩を賦した際、武帝は率に別に詩を贈り「東南に才子あり、故に能く官政に服す、我いにしえに慙ずと雖も、人を得て今盛んなり」と述べ、率は詩の応酬を六首重ねた。後に玉衡殿で引見され、帝は「そなたは東南の名望、朕はかねてより耳にしていた、そなたの言う宰相とは何者か、天下は空から降るものでも地から出るものでもなく、そなたのような名家の奇才が礼律を重んじれば、まさにその人物と言える、秘書丞は天下の清官、東南の名望家でこれに就いた者はまだない、今そなたに任せ名誉を定めよう」と語り、まもなく秘書丞に任じ集書詔策を掌らせた。
  • 四年、華光殿で禊飲の宴が催された日、河南国が赤竜駒を献上し、拝伏し舞う芸をよくしたため、率は到溉・周興嗣とともに賦を作るよう命じられ、武帝は率と興嗣の出来を巧みと評した。その年、父の喪で辞職。父の代からの妓が数十人おり、その中に美貌で歌のうまい者があり、同郷の儀曹郎顧珖之が娶りたいと求めたが本人が拒み尼となった。ある斎会が率の邸で催された際、珖之は「率とこの女性は密通している」と密告状を飛ばし、南司が上奏したが、武帝は率の才を惜しみその奏を握りつぶした。それでも世間の評判は悪くなった。喪明け後、しばらく仕官せず、七年、中権建安王中記室参軍に除せられ、まもなく寿光省に直宿して丙丁部書の抄写を掌り、累遷して晋安王宣恵諮議参軍となり、府に十年在職し恩遇篤かった。後に揚州別駕となったが、率は歴任の職務にほとんど関心を持たず、別駕として上奏する際も武帝が帳簿を見て問うても答えられず「事は帳簿の中にあります」とだけ答えたため、帝は不快に思った。後に黄門侍郎を歴任し、新安太守に出たが、実母の喪で卒した。
  • 率は酒を好み家政を顧みず、新安在任中、家僮に米三千石を運ばせたが、着いた時には半分以上失われていた。理由を問うと「雀鼠に食われました」と答え、率は笑って「壮大なものだ、雀や鼠が」と言うだけで、それ以上追及しなかった。若い頃から文を作り、『七略』『芸文志』に記載されながら現存しない詩賦をすべて補作した。著書に『文衡』十五巻、文集四十巻があり世に行われた。子は長。率の弟は盾。

張盾――謹直な清貧の生涯

  • 盾、字は士宣、謹厳さで知られ無錫令となった。強盗に遭った際「何を求めているのか」と問うと、賊は刀で頬を斬りつけたが、盾は眉一つ動かさず、それ以上何も言わなかった。この時、財産をすべて失ったが気にも留めなかった。湘東王記室、監富陽令を歴任し、超然と孤独に過ごし何事にも執着しなかった。死の日、家に遺財はなく、文集と書物千余巻、酒米数甕があるのみだった。