袁彖
- 字は偉才、顗の弟覬の子。覬は学を好み才があり武陵内史。彖は若くして風格があり文に長け玄談を好んだ。臨終の覬は兄の顗への書で彖(小字史公)を「先基を慰めるに足る」と評した。顗誅殺後、宋明帝が屍を江に投じて葬儀を許さなかったため、彖は旧奴一人と共に四十余日探して密かに石頭の後岡に葬り、文集を肌身離さなかった。明帝崩御後に改葬。従叔の司徒粲・祖舅の征西将軍蔡興宗に器を認められた。
- 宋では斉高帝の太傅相国主簿・秘書丞、斉では中書郎・太子中庶子・御史中丞。謝超宗弾劾の奏の言が曖昧として免官。廬陵王諮議のとき、南郡江陵県の茍蔣之が弟胡之の妻を凌辱した僧を殺した事件を審議、彖は「危急の際に見せる節義」を引き、蔣之兄弟の情状を酌み減刑を主張、死罪を免れさせた。
- 太子中庶子・冠軍将軍・呉興郡監事を歴任。武帝に直言して忤れ、王晏を嫌ったため晏に恨まれ、武帝の金刀の話を晏が讒言したことで免官・東冶送りとなったが、彖の妹が竟陵王子良の妃であったことから子良の子昭胄が武帝に涙で訴え、赦された。侍中に復帰。肥満で郊外での射猟に人手を要した。幼くして母を失い伯母王氏に育てられ孝義に篤かった。隆昌元年(494年)没、諡は靖。
袁廓之(彖の宗人)
- 字は思度、宏之の曽孫。父景儁は宋の淮南太守で無実の罪により誅殺され、廓之は終身音楽を聞かず粗衣粗食を貫き晋の王裒に比された。顔延之に幼時「かかる子があれば十分」と称された。斉建国後出仕、殿中郎から太子洗馬。文恵太子のために何澗が作った哀艶な「楊畔歌辞」を諫め、太子は改めて謝した。