南史卷二十六 列傳第十六 袁昻
字は千里。袁顗の子で、父の刑死後に苦難を経て斉に出仕。梁武帝挙兵に際しては独り呉興城を守り抜いた気骨の人物。梁で吏部尚書・尚書令など要職を歴任し、忠節の家として重んじられた。
年表(6件)
- 元徽中(頃)474年赦免され都に戻る(時に十五歳)
- 永元末(500〜頃)501年梁武帝の挙兵に際し呉興太守として独り城を守る
- 天監二年503年後軍臨川王参軍事となり武帝に赦される
- 天監十五年516年尚書左僕射、のち尚書令となる
- 大通中(527〜)529年司空となる
- 大同六年540年八十歳で死去。諡は穆正公
袁昻
- 字は千里、雍州刺史顗の子。顗敗死時、僧に匿われて脱出、乳母に抱かれ廬山に隠れ免れたという異説もある。赦免後も晋安に徙され勤学、元徽中(474年頃)に戻ることを許され当時十五歳。顗の首は建康の武庫に漆で名を記して保管され、昻は号泣して血を吐き、涙で漆字が消えたことが孝感と評された。喪に服し墓の傍らに廬した。従兄の彖が彼を見守った。父の死を悼み終身音楽を聞かなかった。
- 従叔の司徒粲は彖に「昻は幼くして孤児でありながらここまで至った、名器はおのずと所を得るものだ」と語った。斉で王儉の鎮軍府功曹史、儉は昻を「後任の丹陽尹たるべし」と評価。黄門郎。母の喪に哀毀の礼を尽くす中、従兄彖が死去し、昻は幼くして彖に養われた恩から朞服(一年の喪)を制した。「服は情によって定まる、小功も他邦では一等加えるものだ」と書を送り自らの立場を説明した。
- 御史中丞のとき、尚書令王晏の弟詡(広州刺史)の収賄を弾劾。明帝が領軍時代から昻の風格を敬い頻繁に訪ねており、即位後も「昔卿に会いに行ったものだ」と語りかけ、昻は「陛下は在田の日にすでに三顧の礼を賜った」と答え、帝は喜んだ。豫章内史に出、所生母の喪に服し帰路の暴風で柩を自らに縛り付け同じ運命を誓ったところ、昻の船だけが無事だったという。呉興太守に起用。
- 永元末(500〜501年頃)梁武帝の挙兵に州郡が次々降る中、昻は独り城を守った。梁武帝は書を送り「禍福に門なし、天が棄てるものを人は救えぬ」と降伏を説いたが、昻は「都から辱誨を受けたが、勤王の挙とは思っていない、我が郡は用兵の地にあらず」と答えつつ「食禄を受けながら忘恩はできない」と誠意を示した。建康陥落の報に昻は哀を挙げて慟哭した。梁武帝は豫州刺史李元履に「袁昻の家門は忠節の家、兵威で辱めるな」と命じ、昻も降伏を請わず開門しただけで武帝も過去を問わなかった。
- 天監二年(503年)後軍臨川王参軍事に任じられ、上表して自らの罪と恩を陳べた。武帝は「朕は射鉤(桓公の故事)のような恨みを持たぬ」と答えた。侍中・吏部尚書に累進、武帝から「斉明帝はお前を黒頭尚書に用いたが、朕は白頭尚書に用いる、恥ずかしい限りだ」と言われ、昻は「臣は四十七年のうち四十年は自らのもの、七年は陛下に養われた身、七年での尚書は遅すぎるくらいです」と答えた。
- 天監十五年(516年)尚書左僕射、のち尚書令。僕射徐勉が権勢を誇った折、昻の宴で内人の披露を求められ、渋々老女数人を出させ「これらは私の子の母、あるいは主家大家に問い合わせを」と言い、勉は驚いて訪問をやめ、昻の重みを知った。朝廷で直言して「宗臣」と称された。昭明太子薨去後、晋安王綱が皇太子に立てられた際、昻は独り上表して昭明太子の長子歓を皇太孫に立てるよう主張したが用いられず、以後声望を保ちつつ政務から退いた。人物眼に優れ交際は選び「登龍門」と称された。
- 大通中(527〜529年)司空、大同六年(540年)八十歳で薨去、即日挙哀の詔。臨終に遺言し、諡贈も墓碑も断り簡素を旨とした。「官職に恥じるところはないが、昏明の際に呉興を任され明察を欠いた」と自省し、北伐の度に従軍を願い出たが許されなかったことを悔い、死後の贈官も辞退するよう子に命じたが、子らの重ねての上表にも詔は許されず、諡を穆正公とした。文集二十巻。