南史卷二十六 列傳第十六 袁粲
字は景倩、幼名愍孫。袁淑の甥で幼くして父を失い貧しく育つも、学才によって栄達し宋末には尚書令・司徒として重きをなした。斉の高帝の簒奪に抗して石頭城で挙兵を図るも敗れ、子とともに殺された忠臣。
袁粲
- 字は景倩、洵の弟の子。父濯は揚州秀才で早世。粲は幼くして孤児となり、祖母が「愍孫」と名付けた。伯叔は栄達したが愍孫は貧しく、母琅邪王氏(太尉長史誕之の女)が紡績で生計を支えた。伯父洵に従い呉郡で貧しい身なりのまま読書に励んだ。叔父淑は彼を重んじ「わが家に賢者は絶えない、愍孫は必ず三公に至る」と語った。
- 宋孝武帝の即位後、尚書吏部郎・太子右衛率・侍中を歴任。孝建元年(454年)文帝の忌日に群臣が中興寺の八関斎で精進した後、愍孫は黄門郎張淹と魚肉を食べたことが尚書令何尚之の告発により発覚し免官。大明元年(457年)侍中に復帰、興平県子に封。三年(459年)山陰の丁承文から賄賂を受け会稽郡孝廉に挙げたことで免官。五年(461年)左衛将軍・給事中、七年(463年)吏部尚書兼左衛。
- その年、皇太子の元服の宴で顔師伯・柳元景・沈慶之らと双六に興じた際、愍孫が師伯に酒を勧め師伯が断ったため愍孫は「佞人と付き合えない」と侮辱し、師伯を寵愛する孝武帝は激怒し「寒門の身で慢心するな」と刃を向けようとしたが、愍孫は顔色を変えなかった。沈・柳のとりなしで釈放され、海陵太守として外任。廃帝即位後、機密を管掌し吏部尚書・侍中・驍衛将軍を歴任。儀範に厳格で、廃帝が裸にして走らせようとした際も歩みを崩さず「風雨如晦鶏鳴不已」と詩を口にした。
- 明帝泰始元年(465年)司徒左長史・南東海太守。「妙徳先生伝」を著し嵆康「高士伝」に続けて自らをなぞらえ、また「狂泉」の寓話を語り、世に流されず自分を保つ意志を語った。孝武帝時代に改名を望んだが許されず、明帝即位後「粲」への改名を許された。
- 泰始二年(466年)領軍将軍、その年中書令・太子詹事に転じ、三年(467年)尚書僕射・吏部を領し、五年(469年)中書令・丹陽尹を加領。才を恃み世事に深入りせず、独り庭園で詩酒を楽しんだ。竹石を愛でる隣家に無断で立ち入り主人と語らったこと、白楊の郊野で出会った士大夫と一夕痛飲し翌日訪ねてきた相手を「あれは一度きりの縁」と断った逸話がある。「訪迹雖中宇循寄乃滄洲」の五言詩に志を託した。
- 七年(471年)尚書令。かつて孝武帝を怒らせ、母が輦に頭を打ちつけて血を流し目を傷めて以来、粲は人が「眇目」に触れる話をすると涙した。母は夢で亡夫が「愍孫は国家の器となるが富貴の末に滅びを恐れる」と語ったのを粲に告げ、粲はそれ以来自ら謙抑した。明帝崩御に際し褚彦回・劉勔とともに顧命を受け、班剣二十人・鼓吹一部を加えられた。後廃帝即位後、兵五百人を加えられた。元徽元年(473年)母の喪に服し、喪明け後衛将軍を固辞するも受けず、至孝で知られた。
- 二年(474年)桂陽王休範の反乱の際、粲は輿にすがって参内し、諸将が動揺する中で「先帝の顧命を受けた身、今日こそ社稷に殉じる」と激励し、陳顕達らを奮起させ賊を平定した。中書監・開府儀同三司・司徒を授けられたが揚州の職を解いてまで移ることを固辞、三年(475年)尚書令・衛軍開府に転じたが固辞、侍中・爵を侯に進められたがまた受けなかった。粲は斉高帝・褚彦回・劉彦節と交代で入直し万機を裁決したが、寡黙で衆議に流されず独自の判断を貫いた。順帝即位後、中書監・司徒・侍中。
- 斉高帝が東府に居るようになると粲は石頭に鎮した。斉高帝革命の動きの中、粲は宋室への忠義から異図を抱き、劉彦節・王蘊(太后の兄の子)らと結んだ。昇明元年(477年)沈攸之の挙兵に呼応しようとしたが、粲は病と称して斉高帝との対面を避けた。宗人の袁逹の忠告にも「もし彼が私を台へ拉致すれば私は言い訳できず、この石頭に留まれば拒む理由が立つ」と述べた。
- 斉高帝が朝堂に入り駐屯すると、粲は太后の令を偽って劉韞・卜伯興に宿衛兵で朝堂を攻めさせ黄回の軍に呼応させる計画を立てたが、事は漏れた。斉高帝は薛深・蘇烈・王天生らを援軍と称して石頭に配し実は守りを固め、王敬則を直閣として伯興と禁兵を分掌させた。王蘊は劉彦節が逃亡したと聞き自ら軍を率いて石頭へ向かったが薛深に射返され、粲が既に敗れたと誤解して退散。斉高帝は王敬則に劉韞・卜伯興を誅させ、さらに王戴・僧静を石頭に送った。粲と彦節は東門に兵を並べたが僧静は西門から攻め、彦節は子と城を越えて脱出。粲は席に戻り燭を灯し、子の最に「一木で大廈の崩れを止められぬのは分かっていた、名義のためにここまで来た」と語った。僧静が刀を持って迫ると最が父をかばい命乞いしたが、粲は「私は忠臣、お前は孝子であることに変わりない」と述べ筆を求めて遺書を書き「臣義奉大宋、策名両畢、今便帰魂墳壟、永就山丘」と記し、僧静に斬られた。
- 最は字文高、時に十七歳。父子ともに没した。任候伯らはその夜新亭から石頭に馳せ参じたが後に皆誅された。粲の幼い子は乳母が門生狄靈慶のもとへ逃したが、靈慶は「郎君を匿えば厚賞がある」と乳母を欺き子を奪って首を差し出した。乳母は「お前は袁氏に恩を受けながら小利のため殺すのか」と天に呼びかけた。後に靈慶の家では大狗が子の亡霊のように現れ、妻子が没した後にはその狗が靈慶を庭で噛み殺したという。この狗はもと粲の乗っていた犬だった。
- 斉永明元年(483年)武帝は詔して粲・劉彦節・沈攸之の忠義を認め改葬を命じた。粲の省事の莫嗣祖は謀議を知りながら誅殺を免れ、後に梁の豫章王直に師として仕えた。