南史卷二十六 列傳第十六 袁顗

袁顗

  • 字は国章。豫州主簿から晋陵太守に累遷、南昌県五等子を襲封。大明末、侍中・領前軍将軍。新安王子鸞が母の寵愛により太子廃立の噂が立った際、顗は太子の美点を盛んに称え、帝は怒って席を立ち、顗も色をなして退出したが、左丞徐爰の取りなしで帝の怒りは解けた。また沈慶之について忠勤・幹略を陳べ、前廃帝と慶之に感謝された。
  • 景和元年(465年)群公誅殺の際に朝政に引き入れられ吏部尚書・新塗県子に封じられたが、まもなく寵は衰え、沈慶之・徐爰と選事に参与させられたのち逆に罪を問われ、白衣のまま職に留められた。禍を恐れて出鎮を求め、寧蛮校尉・雍州刺史・都督に任じられた。舅の蔡興宗に「襄陽は至って悪い地」と諫められたが、顗は「白刃を前にしても流矢を避けられない今日の行、生きて出られるならそれで良い」と答え出発した。
  • 尋陽に至ると鄧琬と親密になり、異志を抱いているのが周囲にも知られるようになった。襄陽で劉胡に兵器を整えさせた。明帝が定策すると顗は右将軍に進号された。荊州の典籤邵宰が驛を使い江陵へ戻る途中襄陽を通ったため、顗は反意を固めたが兵糧が不足していたため、まず明帝に表を奉ろうとした。子の秘書丞戩が「一度でも上表すれば臣下となる、臣が君を討つのは義に反する」と諫め、顗はこれに従った。太皇太后の令を偽り挙兵、晋安王子勛を擁立、子勛即位後、安北将軍・尚書左僕射に進んだ。
  • 顗は軍略に疎く、軍中でも戎服を着けず詩を賦し議論するばかりで将を統率できなかった。劉胡はこれに大いに不満を持った。胡が兵糧を求めたが顗は応じず、都下の米価高騰の噂を信じて敵は自ら崩れると楽観視した。明帝は顗の旧門生徐碩を遣わし竇融の故事を引いて降伏を勧めたが、劉胡が顗に告げず逃亡し、顗は激怒したが自身も逃走。鵲頭で戍主薛伯珍らと合流し青林へ向かうも、伯珍に「八州を挙げて王室を謀ったが一戦もせず瓦解した、天命か」と語り、尋陽で謝罪の後に自刎するつもりだと述べた。しかし伯珍は隙を見て顗を斬り、首を送って自らの功とした。明帝は顗の反逆を憎み屍を江に流させ、弟の子の彖が石頭の後岡に埋葬、後廃帝即位後に改葬された。顗の子の戩・昻のうち戩は黄門侍郎、盆城を守り尋陽陥落時に誅殺された。