袁淑
- 字は陽源。幼いころから風格があり、伯父湛に「並の子ではない」と評された。十余歳で姑の夫王弘に才を認められ、博学多才で章句の学にこだわらず、文才華麗、弁舌に優れた。
- 彭城王義康の司徒祭酒に召されたが、義康は文学を好まず、外面は礼をもって接したが内心は疎遠だった。従母兄の劉湛が淑を自派に引き入れようとしたが淑は応じず、両者は決裂した。淑は詩を賦し「種蘭忌當門懐璧莫向楚」の句で志を示した。まもなく病により免官。
- 元嘉二十六年(449年)尚書吏部郎に累遷。その秋の北伐に際し、席捲趙魏し泰山で封禅の書を献じたいと述べたが、文帝は「盛徳の事、我は当るに足らず」と答えた。始興王濬の征北長史・南東海太守として出仕、濬に厚遇された。
- 御史中丞に復帰。魏軍が瓜歩まで南下した際、文帝は百官に防禦策を諮問し、淑は誇張気味の議を述べ、しばしば時人の嘲笑の的になった。始興王濬が銭三万を贈った翌日に人を遣わして取り戻し使者の誤りだったと戯れたことに対し、淑は書を送り「七年の中に一たび与え一たび奪う」という故事を引いて諫めた。
- 太子左衛率に遷る。元凶劭が逆を謀った夜、淑は宿直中で、劭・蕭斌らから翌朝の決行を打ち明けられ協力を求められたが、淑と斌はともに「古来かかることはない」と諫めた。劭は怒り、斌は恐れて従う旨を答えたが、淑は斌を叱り「殿下に本当にそのような病があるのか」と言い、劭がさらに怒って「成功するか」と問うと、淑は「疑いのない地位にいてどうして成功しないことがあろうか。だが成功した後は天地に容れられず大禍がすぐに至る」と答えた。左右が淑の衣を引いて口を止めさせた。劭は淑らに袴褶を与え、錦を裂いて分け与えた。
- 淑は退出後なかなか出立せず、劭が催促しても起きず、車後に至ってようやく従ったが、車に乗るよう命じられても辞退し、劭は左右に命じて奉化門外の槐樹下で殺させた。劭即位後、太常を追贈。孝武帝即位後、侍中・太尉を追贈、諡は忠憲公。淑・徐湛之・江湛・王僧綽・卜天興の四家に廩米の支給が詔された。文集が世に伝わる。子はみな早世。兄の洵は呉郡太守、諡は貞。洵の子は顗。