南史卷二十六 列傳第十六 袁湛
字は士深。陳郡陽夏の人で、従外祖父の謝安に見込まれた家柄。宋武帝の挙兵に鎮軍諮議参軍として参加し北伐にも従軍、洛陽陥落後に晋の諸陵へ礼を尽くした実直な人物。文帝の皇后の父として厚遇された。
出自と生い立ち(袁湛)
- 袁湛、字は士深、陳郡陽夏の人。祖父耽は東晋の歴陽太守、父質は琅邪内史。湛は弟の豹とともに従外祖父の謝安に見込まれ、安は兄の子玄の娘を湛に嫁がせた。
袁湛の履歴
- 宋武帝の挙兵に鎮軍諮議参軍として参加、従征の功で晋寧県五等男に封じられた。義熙十二年(416年)尚書右僕射。武帝の北伐に従い太尉を兼ね、范泰とともに九命の礼を奉じて拝授しようとしたが、武帝は固辞した。洛陽の栢谷塢に駐屯した際、范泰らは晋の諸陵に礼を尽くさなかったが、湛だけは五陵に参拝し人々に称賛された。
- かつて甥の謝絢に公の席で侮られたが、湛は正色でたしなめ絢は恥じ入った。義熙十四年(418年)没、左光禄大夫を贈られた。文帝即位後、皇后(湛の娘)の父として侍中を追贈され、左光禄大夫・開府儀同三司、諡は敬公。大明三年(459年)孝武帝は籍田行幸の際に湛の墓に祭祀を行わせ、守墓の戸を五戸増やした。
- 子の淳、淳の子の植はいずれも早世した。
袁豹(湛の弟)
- 字は士蔚。学を好み博聞で談論に長け、古今を比較論評し人を飽きさせなかった。御史中丞のとき、鄱陽県侯孟懐玉が母檀を国太夫人に拝することを願い出て有司はこれを許可したが、豹は婦人が夫の爵に従うのは不当として、懐玉の父綽が現に列卿にある以上妻がその子の爵に従うのは筋が通らないと上奏し、尚書右僕射劉栁らの処分を求めた。詔でいずれも贖罪に処された。のち丹陽尹・太尉長史となり、義熙九年(413年)蜀討伐の謀に参与した功により南昌県五等子を追封され、官にあって没した。子は淑。