出自と生い立ち
- 張興世、字は文徳。竟陵の人。もとの名は世で、宋の明帝が「興世」と改めさせた。若くして貧しく、白衣のまま随王玄謨の蛮族討伐に従軍。後に孝武帝の尋陽鎮守に従い南中郎参軍・督護を務め、元凶討伐と南郡王義宣の反乱討伐にも玄謨に従い戦功を挙げた。
- 明帝即位後、四方で反乱が起こる中、興世は龍驤将軍・領水軍として南方の賊軍を防いだ。当時、臺軍(朝廷軍)は赭圻に拠っており、朝廷は吏部尚書褚彦回を派遣して赭圻で人選を行わせた。この役では先に戦功を立てた者に位を授ける方式が採られ、任命の板が間に合わないため黄紙の札を用いたという。
- 南の賊軍が鵲尾に屯し、両軍が長く対峙する中、興世は「賊は上流を占め地の利を得ている。奇兵を密かに上流に送れば、賊の前後は動揺し進退窮まり糧道も断たれる。これこそ勝利の奇策だ」と献策し、沈攸之・呉喜もこれに賛同した。7000の兵が興世に配され、興世は軽舟で川を遡ってはまた戻ることを繰り返し、賊にこの動きを警戒させないようにした。賊将劉胡はこれを聞いて笑い「我らでさえ下流を越えて揚州を攻める勇気はないのに、興世ごときに何ができようか」と侮った。
- 興世は攸之らに「上流で拠点にできるのは銭渓しかない」と述べ、そこを占拠した。劉胡が攻めてきた際、士卒は迎撃を望んだが、興世は「賊は遠くから来て勢いだけが強い、勢いが激しいほど力は先に尽きる、これこそ曹劌が斉を破った所以だ」と述べ、軍を動かさなかった。賊が近づくと興世は寿寂之・任農夫に命じて壮士を率い撃退させた。袁顗は「賊は人の肝を握って生きているようなものだ、生きていられるはずがない」と憤ったという。
- 同月朔日、赭圻の軍が木を伐って柵を作っていた青山で、童子が「賊は今月中に必ず平らげられるだろう、苦労するには及ばない」と言い残しふいに姿を消したが、その通りに事は運んだ。興世はさらに賊の糧道を断ち、賊軍は次第に飢え、劉胡は軍を捨てて逃走、袁顗もまた四散した。興世は呉喜と共に江陵を平定し、右軍将軍・作唐県侯に封じられ、雍州刺史・左衛将軍を歴任し、病を得て光禄大夫に転じ、まもなく卒した。
- 興世は臨沔水のほとりに住んでおり、襄陽から江まで二千里の間、以前は中州がなかったが、興世が生まれた時、屋敷の前の水中に突然中州ができ、年々大きくなり、興世が方伯(州の長官)となる頃にはその中州は十余頃に及んだという。父の仲子は興世の栄達により給事中を追贈された。興世は仲子を襄陽に迎えようとしたが、仲子は郷里を愛し行くことを拒み、「私は田舎の老いぼれだが鼓や角笛の音を聞くのが好きだ、その楽隊を一部送ってくれ」と語り、田で吹かせたという。興世は普段から恭謹で法を畏れ、「これは天子の鼓角であって田舎者が吹くものではない」と諭した。興世が墓参りをしようとした際、仲子は「お前の随行が多すぎては先祖の霊を驚かせる」と言い、興世は供を全て撤して赴いたという。子は欣泰。
張欣泰(興世の子)
- 字は義亨。武人の家柄でありながら武業に頼らず隷書を能くし子史を好んで読んだ。10余歳の頃、吏部尚書褚彦回を訪ねた際、「張郎は弓馬にどれほど長じているか」と問われ「臆病で馬に弱く弓を引く力もありません」と答えて彦回を驚かせた。諸王府佐を歴任。宋の元徽中、父興世が家にあって雍州から持ち帰った資財の現金三千万を蔵していたが、蒼梧王が自ら人を遣わしてこれを強奪し、一夜にしてほぼすべて失われた。興世はこれを憂い病を得て卒した。兄の欣華が当時安成郡にあったため、欣泰は残った財産を全て封印して兄の帰りを待った。
- 斉の建元初年、尚書都官郎。武帝と若い頃から親しく、即位後は直閤将軍に任じられ、後に武陵内史となったが贓罪と私的な殺人の罪で糾弾されるも赦され、直閤・歩兵校尉・領羽林監に復した。欣泰は雅俗を問わず広く交際し、名士とも多く交わったが、非番の時には鹿皮の冠に納衣・錫杖を身にまとい素琴を携える風変わりな姿をしていた。これを聞いた武帝は「武家の子がこのような振る舞いをするとは」と評した。
- 新林への行幸に従った際、欣泰に監察を命じたが、欣泰は松の木の下で酒を飲み詩を賦していたため、制局監呂文度がこれを上奏し武帝は激怒したが数日後には怒りを解き、「お前は武職を望まないようだから、清貴な職に就けよう」と正員郎に転じさせた。鎮軍南中兵参軍・南平内史を歴任。巴東王子響が僚佐を殺害した事件で、上は中庶子胡諧之を西討させ、欣泰を副とした。欣泰は諧之に「太歳が西南にあり、逆行して軍を進めるのは兵家の大忌、夏口に軍を留めて禍福を示せば戦わずして子響を捕らえられる」と進言したが従わず、江津まで進軍して尹略らが殺害された。事平定後、欣泰は随王子隆の鎮西中兵・河東内史に転じ、子隆に厚く愛されしばしば談笑の宴に招かれた。謝朓に次ぐ待遇を受けたが、典籤がこれを密告し武帝は怒って欣泰を都に呼び戻し、以後屏居した。
- 屋敷は南岡に構え松山に面し、弩を持って雉狩りに興じ、声楽や様々な芸事にも通じた自由な生活を送った。明帝即位後、領軍長史・諮議参軍に任じられ、便宜二十条を上書し、その一条で塔寺の破壊縮小を提言、帝は優詔で応じた。建武二年、魏が鍾離を包囲した際、軍主として崔慧景の救援に従軍し、魏軍が退却した際、邵陽洲に取り残された魏の敗残兵1万人が馬500匹を差し出して道を借りたいと申し出た。慧景は退路を断って攻撃しようとしたが、欣泰は「帰還する敵軍を遮ってはならない、古人はこれを死地と見なし恐れた、兵は軽々しく用いてはならない」と説き、慧景はこれに従った。この時、領軍蕭坦之も鍾離救援に加わっており、明帝に「邵陽洲には1万の敗残兵がいたのに、慧景と欣泰は攻撃しなかった」と報告したため、帝はこの功に対して恩賞を与えなかった。
- 四年、永陽太守として出た。永元初年に都に戻ると崔慧景が城を包囲、欣泰は入城して守備にあたり、事平定後は廬陵王安東司馬となった。梁の武帝が挙兵すると東昏侯は欣泰を雍州刺史としたが、欣泰は弟の前始安内史欣時とともに密かに謀り、太子右率胡松・前南譙太守王霊秀・直閤将軍鴻選・含徳主帥苟励・直後劉霊運らと共謀した。帝が中書舎人馮元嗣を遣わして郢州救援を監督させ、茹法珍・梅虫児・太子右率李居士・制局監楊明泰ら十余人を中興堂に送った際、欣泰らは座に忍ばせた刀で元嗣の首を果物盆に落とし、明泰の腹を斬り、虫児にも数創を負わせたが、居士は塀を越えて脱出し、法珍も逃走して台に戻った。霊秀はそのまま石頭城に赴き建安王宝寅を迎え、文武数百人を率いて警蹕を行い杜姥宅まで至った。
- 欣泰は事が発覚したと聞くと馬を馳せて宮中に入り、法珍らが外城で処理に追われている隙に廃立を図ろうとしたが、法珍は無事に処理を終えて城門を封鎖し欣泰の兵は入れず、鴻選も殿内で決起できなかった。城外の衆はまもなく散り、数日後に事が発覚し、欣泰・胡松らはみな誅殺された。
- 欣泰は若い頃、人相見に「三公に至るがその寿命はわずか三十」と占われた。後に屋根の瓦が落ちて額を傷つけた際、再び占わせると「もはや三公の相はない、寿命は延びて方伯(州刺史)にはなれるだろう」と言われた通り、享年36で死んだ。
史論
- 王仲徳(王懿)は二代にわたり重任を受け、功名を全うした。関中入りの役では檀道済・王鎮悪もその功績に及ばなかったが、元嘉の北討では人の指揮下に立たされ、藺相如のような志を持ちながら関羽のような憤りは示さなかった。まことに長者というべきである。
- 道豫(到彦之)は宗室(劉氏)ゆかりの地に生まれながら恩寵に驕らず、四代にわたり文武の道が絶えなかったのは、まことに優れたことである。
- 垣氏は宋斉の交代期に世々武節をもって聞こえ、崇祖は戦場で力を尽くし韓信・白起を自任したが、結局は白起が杜郵で受けたような非業の最期を遂げたのは痛ましいことである。
- 興世の鵲浦(銭渓)での奇計は深い見識に基づくものであり、その旗を掲げ組(印綬)を垂れた栄達も決して偶然ではなかった。