南史卷二十二 列傳第十二 王騫

経歴

  • 騫、字は思寂、本の字は玄成であったが、斉の高帝の偏諱と同じであったため改めた。性は凝重で簡素、慕容廣(あるいは慕樂廣)を慕い、人の短所を言うことがなかった。女子・姪はみな王侯の妻となったが、輜軿が門に連なるのは望まず、歳中一度の会見に留めた。かつて子らに「わが家は本来素族であり、流れに従い着実に進めばよく、無理に求める必要はない」と語った。黄門郎・司徒右長史を歴任し、産業を営まず、鍾山に旧墅を八十余頃持ち諸宅・故旧とともに耕作させ、常に「私は鄭公業(田四百頃を持ちながら食に困った故事の人)に及ばない」と語った。永元末、侍中に召されたが拝さなかった。永元三年春、枉矢が昼に西方に十余丈も現れ、騫は「これは旧を除き新を布く象である」と評した。梁の武帝が挙兵すると「天時人事はまさにここにある」と語り、梁の武帝の霸府建国後は大司馬諮議参軍に招かれ侍中に遷り、帝の受禅で爵は侯に降格した。度支尚書・中書令を歴任。武帝が鍾山の西に大愛敬寺を造る際、寺の傍らにあった騫の旧墅(もと王導の賜田)を主書に命じて買い取らせようとしたが、騫は「この田は売りません、もし勅で取り上げられるのであれば申し上げようがありません」と答え、応対もぞんざいだったため帝は怒り、市に評価させ田価を強制的に返還させた。これにより上の意に逆らい、呉興太守に出された。騫の性は味には奢侈だが服には倹しく、忌避の多さが累となり、また人との接見にも疎く、王からの書や勅を過ぎても見ないことがあり、才望は弟の暕に及ばなかったが、儉の嫡子であるがゆえに時に棄てられなかった。暕が尚書左丞・僕射として朝政を執っていた頃、騫は中書令から郡邑へ左遷され不満で、郡にあっても事を視ず、召し戻されて度支尚書・給事中・領射聴校尉に復した。母の喪で去職し、普通三年、四十九歳で卒し、侍中・金紫光禄大夫を追贈され諡は安。子の規。