南史卷十五 列傳第五 徐羡之

徐羨之(字宗文、?–426年、享年六十三)は東海郯の人。宋武帝に仕え劉穆之の死後に朝政を統べ、武帝崩御後は傅亮・謝晦・檀道濟とともに顧命を受けて廬陵王義真・少帝を相次いで廃した。文帝が即位すると廃立の責を問われ、自ら首を括って死んだ。

年表(3件)

専権と誅滅

  • 徐羡之(字宗文)は東海郯の人。桓修の撫軍中兵参軍として宋武帝と同府に親交を結び、北伐で太尉左司馬に累遷し留任の副として劉穆之を助けた。武帝が北伐を諮った際、諸臣が諫める中で羡之のみ黙し、問われて「二方はすでに平定、公はまだ小羌の平定に寝食安からぬはず、軽々に議に加わるべきでない」と答えた。
  • 穆之卒後、丹陽尹・総知留任・尚書僕射を歴任。義熈十四年(418年)軍人朱興の妻が病児を生埋めした事件で、羡之は「情理を汲めば遐裔(辺地)への流刑に留めるべき」と議し容れられた。武帝即位後、南昌縣公・司空・録尚書事・揚州刺史に至り、布衣から一躍宰相に近い地位に昇ったが沈密寡言で朝野の推服を得た。傅亮・謝晦との交遊で「羡之は万事に通じ異同を安んずる」と評された。
  • 武帝崩御に際し傅亮・謝晦・檀道濟と共に顧命を受け、少帝の失徳を機に廃立を謀り、まず廬陵王義真を廃し、次いで少帝を廃した。文帝即位後、南平郡公に改封されたが固辞、権を返上する上表を三度繰り返してようやく許され、私第に退いたが、兄子佩之らの強い慫慂で再び政務を執った。
  • 元嘉三年(426年)文帝は羡之・傅亮・謝晦が短期間に廃立を重ねたことを咎めて誅を下す詔を発した。羡之は召しに応じず内人の車で郊外に脱出、新林の陶竈で自縊した。享年六十三。かつて予言者から「銭二十八文を宅四角に埋めれば災いを免れ位人臣を極める」と告げられた逸話や、彗星・双鶴の凶兆が伝えられ、凶終を予兆したとされる。
  • 兄欽之の子佩之は輕薄で利を好み武帝に姻戚として重用されたが、羡之誅殺の際は文帝の温情で免官に留まったものの、その冬謀反が発覚し誅殺された。弟逵之は武帝の長女会稽宣公主の夫で、司馬休之討伐の前鋒として陣没、中書侍郎を追贈された。

徐羡之の後裔――湛之・孝嗣・君蒨

  • 逵之の子湛之(字孝源)は幼くして孤児となり武帝に愛され江夏王義恭と起居を共にした。数歳の折、弟淳之と乗った車が暴走した際、自らより先に弟を助けさせ「幼くして識あり」と称された。祖母・母への孝で知られ、会稽公主(武帝長女)が家事を諮る存在として重んじられた。
  • 大将軍彭城王義康に近侍し劉湛らと結んだ縁で義康失脚に連座しかけたが、公主が武帝の遺した粗末な納布衣(先帝敬皇后の手縫い)を持って文帝に涙ながらに訴え、「お前の母がお前の父のために作ったこの衣を思え」と諫めたことで許された。太子詹事・侍中を歴任、財力豊かで邸宅・園池・伎楽は当代随一、門生千余人を三呉の富人の子で固め、贅を尽くした暮らしぶりは文帝にしばしば咎められた。
  • 丹陽尹・散騎常侍に累遷。范曄の謀反事件では当初連座を疑われたが、密告や事情説明の上表で許され、南兖州刺史として広陵の楼閣・風景を整備、沙門釋惠休(後に還俗し湯姓)を厚遇した。魏軍の瓜歩侵攻では皇太子と石頭を分守。魯爽兄弟の投降処遇にも公正を期した。
  • 尚書僕射・領護軍将軍として尚書令何尚之と政務を分担、御史中丞袁淑の弾劾で一時免官の動議もあったが、実務は湛之が担い「江徐」(江湛と徐湛之)と並び称された。元凶劭・濬の巫蠱発覚後、廢立を巡る議論で南平王鑠を推し、劭が弑逆した夜、文帝と屏人で語り合っていた最中に殺害された。享年四十四。司空・忠烈公を追贈。子聿之は元凶に殺され、聿之の子が孝嗣。
  • 孝嗣(字始昌)は父の被害時に胎児であったが、母が堕胎を試みても生まれ、小字を遺奴とした。幼くして凛然とし、八歳で枝江縣公を襲封、孝武帝への謁見で涙を流し愛された。康楽公主を娶り駙馬都尉。泰始中、登殿の服装違反で罰金を科されたが、齊高帝の下で驃騎従事中郎・太尉諮議参軍・侍中を歴任、王儉に「将来必ず宰相となる」と評された。
  • 御史中丞・呉興太守を経て齊武帝に五兵尚書に召され、儀典の撰定を任された。太子詹事、方山行幸での上奏で武帝を諫止したことなどが伝わり、竟陵王子良に重んじられた。武帝崩後、尚書右僕射として鬱林王廃立に加担、明帝擁立後は丹陽尹・左僕射・尚書令を歴任、高武(高帝・武帝)子孫の誅殺論議では堅く庇護に努めた。
  • 明帝崩後、輔政の重責を担ったが東昏侯(永元帝)の失徳のもとで憂懼の日々を送り、始安王遥光の反乱時にはその存在だけで人心を安んじたが、廃立の決断力を欠くうちに疎まれ、遂に薬を賜り自殺(沈昭略への遺言で始安の変への後悔を語った)。子演・況もともに殺され、被害者中で衣冠を剥がれなかった数少ない例とされる。故吏丘叡の予言(「身を全うできまい」)が的中したという。中興元年(501年)太尉を追贈、後に諡を文忠とし餘干縣公に改封。子緄は梁で侍中・太常。
  • 緄の子君蒨(字懐簡)は博学で音楽・弦歌に長じ、梁湘東王の鎮西諮議参軍となったが豪奢を極め侍妾数十を金翠で飾り、酒宴に耽った。辞令に長け、湘東王との問答で機知を示した逸話が伝わる。北路の魚弘と並んで「北路魚南路徐」と謡われるほどの豪奢ぶりであったが、官にあるまま卒した。