南史卷十五 列傳第五 劉穆之
劉穆之(字道和、小字道人、?–417年)は東莞莒の人。宋武帝劉裕の腹心として仕え、武帝の京口挙兵以来、内外の政務をほぼ一手に処理した宰相格の功臣。武帝の北伐中に都の留守を預かったが、その途上で病没し、佐命の元勲として南康郡公を追封された。
年表(3件)
- 義熙十三年417年北伐中の武帝を支えつつ都で卒去
- 齊建元初曾孫の代、廟墓不修などで削爵となる
- 元嘉二十五年448年文帝が江寧行幸の際、穆之の墓に祭祀を命じる
出仕と武帝への輔佐
- 劉穆之(字道和、小字道人)は東莞莒の人、京口に世居した。かつて琅邪府主簿の頃、宋武帝と海を渡る夢を見て吉兆を得た。武帝が京城を克した際、何無忌の求めに応じ府主簿に推挙されると、武帝は「私も彼を知っている」と即座に召し、以後の大処分はすべて穆之の建議によった。
- 晋の網紀が緩み豪族が勢威を恣にしていたところへ、司馬元顯・桓玄の煩雑な政令が加わり混乱していたが、穆之は時宜を斟酌して矯正し、旬日を経ずして風俗を改めた。尚書祠部郎・府主簿・記室録事参軍・堂邑太守を歴任、桓玄討伐の功で西華縣五等子に封じられた。
- 揚州刺史王謐薨後、武帝が揚州を継ぐべきか議論となった際、劉毅らは謝混を推そうとし、あるいは武帝を丹徒に留め内政を孟昶に委ねる案もあったが、穆之は密かに武帝へ「今日どうして謙譲すべきか、諸公と共に興した大義は事の勢いによる相推挙に過ぎず、君臣の分はまだ定まっていない。力が拮抗すれば互いに呑み合う。揚州は根本の地、他人に委ねてはならぬ」と進言、武帝はこれに従い入輔した。
- 盧循討伐の際も幕中で策を練り、劉毅らに権重を疾まれたが武帝の信任はますます篤くなった。穆之は市井の噂まで細大漏らさず武帝に伝え、賔客との交遊で耳目を広く配し、朝野の動静をことごとく把握した。ある人がこれを譏ると穆之は「私は公の恩義を蒙る身、隠す理由がない、これは張遼が関羽の叛意を告げた故事と同じ」と答えた。
- 武帝の書が拙いのを見て「小事とはいえ天下に布告されるものゆえ留意すべき」と諫め、武帝が意のままにいかぬと見ると「大きな字で書けばよい」と勧め、以後武帝の書は一紙に六、七字となった。人材推挙には「不善なる者を挙げぬのみ」を旨とし、朱齡石と共に武帝の前で書簡処理の速さを競い百通を捌くほどの手腕を見せた。
- 中軍護軍司馬・丹陽尹を歴任。武帝の劉毅討伐の際、諸葛長人が留府を監す役に疑いを持たれると穆之が補佐に付き、長人の異心を「太尉は決して薄情ではない」と鎮めた。武帝の司馬休之討伐でも道憐が留任し事は穆之が決した。尚書左僕射・領選将軍・丹陽尹を兼ね、武帝の北伐時には東城に入居して朝政を内外総攬、事務処理は迅速で滞りなく、日々多忙の中でも自ら書写・校訂を怠らなかった。
- 性格は奢侈で食事は方丈(豪華な饗応)を常とし客を多く招いたが、武帝に「家は元来貧賤ゆえ倹約は心がけているが、朝夕の費えはやや過ぎている」と自ら申告した。義熈十三年(417年)卒。武帝は長安にあって関中経略を続けるつもりであったが訃報に驚き哀しみ、根本(都)が虚弱化することを恐れて彭城に急ぎ戻り、司馬徐羡之に留台を代行させたが朝廷の大事は穆之に諮る慣例のまま北へ問い合わせが続いた。
- 開府儀同三司を追贈され、武帝が上表して功績を顕彰、重ねて侍中・司徒・南昌縣侯を追贈された。武帝受禅後も「穆之が死ななければ天下の治めを助けてくれただろう」と嘆じ、光禄大夫范泰の慰めに対し「駿馬は千里を走るからこそ貴い」と応じた。佐命の元勲として南康郡公を追封され諡は文宣。
家風と後裔
- 穆之は若い頃貧しく、妻の兄の家で食を乞い辱められても意に介さなかった。妻江氏は聡明で、慶事の際に招かれた穆之が檳榔(食後の口直し)を求めると兄弟に「檳榔は消化を助けるもの、いつも飢えている君に何の用か」と嘲られたが、後に穆之が丹陽尹となり彼らを招いた際、妻の兄弟が謝罪すると穆之は怨まず、厨人に金の盤に檳榔一斛を盛らせて振る舞った。
- 元嘉二十五年(448年)文帝が江寕に行幸し穆之の墓を通った際、祭祀を命じた。長子慮之が嗣ぎ、その子邕が嗣いだ。邕は先例に反し封国の内史に臣礼を求めず、河東王歆之と元会で対立した際、孫晧の故事を引いて「昔は汝の臣、今は肩を比べる立場」と応じた。邕は瘡痂(かさぶた)を鰒魚の味に似ると好み、孟靈休の瘡痂を求めて食べ、靈休が驚いて残りを与えた逸話が残る。子肜は妻を刀で傷つけ爵を失い、弟彪が継いだが、齊建元初に降封され、廟墓不修や埋葬の不始末で削爵となった。
- 穆之の中子式之(字延叔)は宣城・淮南太守で贓罪(汚職)を検校された際、「自分は数百万を偸んだにすぎず、偸まぬ者などいようか」と開き直り従征の功で徳陽縣五等侯に封じられ諡は恭。子瑀(字茂琳)は始興王濬の別駕となり、濬の側近顧邁と結んで情報を得ようとしたが露見して邁は広州に流された。瑀は御史中丞として蕭惠開・王僧逹を弾劾するなど筆鋒鋭く、右衛将軍に転じたが、何偃との序列争いで諧謔を交わし怨みを買い、また案件処理を巡って偃と絶交、偃の死を聞いて躍り喜んだ矢先に自らも卒し諡は剛。
- 祥(字顯徴)は式之の孫、父敳は太宰従事中郎。剛直で放言を憚らず、齊の司徒褚彦囬に「寒士は不遜」と咎められると「袁・劉を殺せなかったからこそ寒士に免れ得ないのだ」と応じた。永明初、宋書を撰して禅代を譏り、王儉が上聞したが問われず。王融らとの交遊、連珠十五首の著作などで名を残したが、時勢を諷刺した内容が咎められ広州に流され、まもなく卒した。
- 秀之(字道寳)は穆之の従父兄の子。十歳の時に大蛇に遭っても動じず異才を示し、何承天が娘を娶らせた。建康令・撫軍録事参軍・襄陽令を歴任し、襄陽の六門堰を修復して大豊作をもたらした。西戎校尉・梁南秦二州刺史・都督として漢川の飢饉に倹約を尽くし、貨幣を絹から銭に改め民に利した。元凶弑逆時には即日挙兵を求めたが南譙王義宣に許されず、事平後は益州刺史として奉禄の大半を鎮庫に納め清廉さを示した。
- 丹陽尹として、かつて穆之が子弟に柱の穴に栗を投げ入れさせた際、秀之のみが命中し「後にこの郡を得るだろう」との予言が的中した逸話が残る。尚書右僕射として殺人犯の処遇を巡る議論では「人が官長を害するのは父母を害するに等しい、赦に遇っても長く尚方に留め天命を窮めるべき」と論じ容れられた。寕蠻校尉・雍州刺史・都督を経て左僕射で卒し、諡は忠成公。清廉で家に余財なく、銭二十万・布三百疋を賜った。子孫は齊受禅で国除。