南史卷十四 列傳第四宋宗室及諸王下 邵陵殤王友

邵陵殤王友

  • 劉友(字仲賢)は明帝第七子。五歳で南中即将・江州刺史となり邵陵王に封じられた。後廢帝元徽二年(474年)桂陽王休範誅殺後の王室弱体化に乗じ、府州の文案・臣吏を軽んじる態度を見せたが、順帝昇明二年(478年)南豫州刺史に転じ、子なく薨じ国は除かれた。

その他の明帝諸子

  • 隨陽王翽(字仲儀)は初め南陽王、昇明二年(478年)隨陽王に改封、齊受禅で舞隂縣公に降封。新興王嵩(字仲岳)は齊受禅で定襄縣公に降封。始建王禧(字仲安)は齊受禅で荔浦縣公に降封。三人とも後に謀反の名目で賜死された。

史論

  • 論じて言う。元嘉の禍は甚だしいものであった。弑逆の兆しは肌膚の近きより起こり、父子の情すら失われた。その酷さは鳴鏑(匈奴の故事)にも劣らぬが、家門が完全に滅びなかったのはなお幸いというべきである。明帝の治世は疑心が内に構えられ、まず王戚が手にかけられた(晋熈王昶は獷暴のため身を摧かれ、巴陵哀王休若は温良ゆえにかえって酖毒に斃れた)。保身の道はどこにも見出しがたい。昔の人が「子に善を為すなかれと戒めた」というのも、この理を指してのことか。詩に「我より先ならず我より後ならず」とあるのは、まさに古人が乱を畏れたゆえんである。
  • 孝武帝の諸子は互いに手を携えて禍の端緒を作り、ついに天下は沸き立ち王室は焼け崩れるがごとくとなり、帝の後裔はほとんど皆滅ぼされた。強は弱に及ばぬというのはこの理である。明帝は螟蛉(他家の子)の慶びを負い、事は自らの出自によらぬものであったため、枝葉は茂らず、本を庇うことができなかったのである。