南史卷十五 列傳第五 傅亮
傅亮(字季友、?–426年)は北地靈州の人、後漢の傅咸の子孫。文才に優れ宋武帝に仕えて中書省を掌り、禅譲の詔命を多く起草した。武帝崩御後は徐羨之・謝晦とともに顧命を受け廃立に関与したが、元嘉三年、文帝により誅殺された。
文才と誅滅
- 傅亮(字季友)は北地靈州の人、晋司𨽻校尉傅咸の玄孫。父瑗は学業で知られ安成太守。瑗の友郗超は幼い亮の才を見出し「保家(家門を保つ者)はきっと兄より大成する」と予言した。兄迪(字長猷)は宋初に五兵尚書に至った。
- 亮は経史に博渉し文辞に優れ、中書黄門侍郎・直西省を歴任。武帝が東陽郡への転任を告げた際、兄迪の喜びに反し自ら直訴して固辞し、武帝を喜ばせて太尉従事中郎・記室掌記に用いられた。宋国建国に伴い侍中・領世子中庶子・中書令を歴任。
- 武帝が禅譲を望みながら言い出せずにいた宴席で「今年時衰暮、都に帰り老いたい」との真意を悟った亮は、夜になって帝に単身入宮を告げ「数十人でお送りする」と応じ、長星を見て「天文が今まさに応験した」と拊髀した。都に戻り武帝の入輔を助け、永初元年(420年)太子詹事・建城縣公に封じられ中書省を専掌、詔命はすべて亮の起草によった。
- 尚書僕射に進み、武帝崩御に際し徐羡之・謝晦と共に顧命を受け班劔二十人を賜った。少帝廃立後は文帝を江陵に迎える行台の首座となり、義真・少帝の死の顛末を語る際は哭泣して答えられぬほど動揺した。都では羡之の問い(「文帝は誰に比すべきか」)に「晋の文帝・景帝以上の人物」と答え、羡之の「必ず私の赤心を理解してくれよう」との楽観に「そうではない」と冷静な見立てを示した。
- 文帝即位後は左光禄大夫・開府儀同三司・始興郡公。元嘉三年(426年)文帝が羡之・亮・謝晦を誅する決意を固め、亮を召したが、内報を受けた亮は嫂の病を口実に城外へ脱し、兄迪の墓へ馬で奔ったが屯騎校尉郭泓に捕らえられた。詔で「江陵の忠誠に免じて子は無事とする」と告げられると、亮は「先帝の恩を受け顧命を蒙り、昏を黜け明を立てたことに罪があるならば言うことなし」と述べて刑死。妻子は建安に流された。
- 兄迪はしばしば亮を戒めたが従わず、世の険しさを見て『演慎』という論を著した。少帝失徳の頃、宿直中に燈火に飛び込む夜蛾を見て「感物賦」を作り憂懼を託し、道路詩三首の一篇に悔懼の辞を込め、傾覆を予知していたともいう。辛有・穆生・董仲道への賛を作り見微(先見の明)の美徳を称えた。
傅隆――礼律論議の名手
- 傅隆(字伯祚)は亮の族兄。曽祖晞は司徒属。若くして孤貧ながら学行あり、義熈初、四十歳で孟昶の建威参軍から尚書左丞に累遷、族弟亮が僕射となると縁座を避け太子率更令に転じた。元嘉初、御史中丞として司直の体を得た。
- 会稽剡縣の黄初の妻趙氏が息子の嫁を殺した事件で、赦に遇ったが孫の復讐権を巡る議論となった際、隆は「祖父母を殺した者への復讐は父母殺害への復讐とは異なる」と礼律の理を説き、趙氏の流刑は認めつつ孫による復讐は許されないと論じ、その議が容れられた。義興太守を経て左戸尚書、太常として文帝の新撰礼論に意見五十二事を上表。致仕後も手不釈巻で三礼に精通し、八十三歳で卒した。