南史卷十四 列傳第四宋宗室及諸王下 建安王休仁

功勲と横死

  • 劉休仁は文帝第十二子。元嘉二十九年(452年)十歳で建安王。前廢帝景和年間、廢帝の暴虐の下で明帝・山陽王休祐と共に肥満を理由に籠に閉じ込められ嘲弄され(明帝は「豬王」、休仁は「殺王」、休祐は「賊王」と呼ばれた)、木槽に食物を混ぜて食べさせられるなど陵辱されたが、休仁は機知でしのぎ生き延びた。廢帝が明帝らを殺そうとした夜、逆に廢帝自身が華林園で弑逆され、休仁は即座に明帝への臣礼を示した。
  • 明帝により侍中・司徒・尚書令・揚州刺史とされ、四方の反乱鎮圧では都督征討諸軍事として赭圻に出陣、太子太傅を領し中流平定の功をあげた。しかし戦功の大きさと権勢の集中に明帝は不快感を抱くようになり、休仁は自ら揚州を辞して太尉に転じたが、なお忌避された。
  • 明帝末年、楊運長らが後継体制の主導権を懸念し、明帝の重病に乗じて休仁を東府から召して毒薬を賜い死なせた。休仁は使者に「孝武帝が子孫を誅して滅びたのに、また兄弟を殺すのか、我が大宋の業は久しく続くまい」と罵ったという。死後、詔で自殺と偽られ二子は封を全うしたが、後に降格・流刑となった。