南史卷十三 列傳第三宋宗室及諸王上 廬陵孝獻王義真

劉義真、武帝の第二子(?–424年)。若くして関中経略の任を委ねられたが内紛と讒言により混乱を招き、撤退時には大敗した。帰還後は徐羨之らに疎まれて廃され庶人とされ、最終的に殺害された。文人との交わりを好んだが政治的判断力に欠けたと評される。

年表(4件)

出自と関中経略

  • 劉義真は容貌秀徹で、初め桂陽縣公に封じられ、十二歳で北征に従い関中平定に加わった。武帝が東遷する際、偏将を留めるのみでは人心を固めるに足らぬとして義真を雍州刺史・都督とし、太尉諮議参軍京兆の王修を長史として関中の任を委ねた。
  • 武帝が帰還しようとした際、三秦の父老は「残生は王化に霑わず百年、今初めて衣冠を見て聖澤を仰いだ。長安十陵は公家の墳墓、咸陽宮殿は公家の屋宅、これを捨ててどこへ行かれるのか」と泣いて訴え、武帝は憫れみ「朝廷の命ゆえ擅に留まれないが、第二子を留め文武の才賢と共にこの地を鎮めさせる」と慰めた。義真の手を執り王修に授け、修は子孝孫の手を執らせ帝に授けた。
  • 義真は都督并東秦二州・領東秦州刺史に進んだ。隴上の流戸の多くが関中にあり本籍への帰還を望んでいたが、東秦州設置により隴右経略の意がないことを知り父老は嘆息した。赫連勃勃の侵攻が交々至り、沈田子が王鎮惡を殺し、王修もまた田子を殺した上に義真の左右への賜物を削減したため左右が怨み、義真に「鎮惡は反しようとしたので田子が殺した、修が田子を殺したのも反意があったのでは」と讒言し、義真は左右の劉乞に命じ修を殺させた(修字叔京兆覇城の人。かつて桓玄に「治世の吏部郎の才」と評された)。
  • 修の死後、人心は離れ、武帝は右将軍朱齡石を派遣し義真に代えて関中を鎮めさせ、義真を疾く帰還させた。諸将は競って財貨を取りまとめ徐行し、建威将軍傅𢎞之は「虜騎が来たらどう対処するのか」と警告したが、果たして賊追兵が至り青泥で大敗、義真は独り草中に逃れた。
  • 中兵参軍段宏が単騎で捜し出し、義真は声で段宏と気づき「君が段中兵でなければ、私はここまで、必ず両全せず、我が首を刎ねて南へ持ち帰り家公(父)の望みを絶やしてくれ」と言ったが、宏は泣いて「死生を共にする、下官は忍びない」と義真を背負い単馬で帰った。義真は「丈夫はこの経験がなければ艱難を知らない」と言った。
  • 武帝は義真の安否が分からず激怒し北伐の日を決めた(謝晦が諫めても聞かず)が、段宏の報告により義真の無事を知り止めた。義真は司州刺史・都督となり、段宏を義真諮議参軍とした(宏は鮮卑人、慕容超の尚書左僕射であったが武帝の広固親征の際に帰降した)。
  • 義真は揚州刺史に改められ石頭を鎮め、永初元年(420年)廬陵王に封じられた。武帝の即位に義真は不満げな様子を見せ、侍読博士蔡茂之にその理由を問われ「安きに危うきを忘れずというが、何を恃みとすればよいのか」と答えた。翌年司徒に遷り、武帝の不予に伴い車騎将軍・開府儀同三司・南豫州刺史・都督として歴陽を鎮めることとなったが、赴任前に武帝が崩じた。
  • 義真は聰敏で文義を愛したが軽率で徳業に欠け、陳郡の謝靈運・琅邪の顔延之・慧琳道人と異例なほど交わり、「志を得た日には靈運・延之を宰相に、慧琳道人を西豫州刺史にする」と語ったとされる。徐羨之らは義真・靈運・延之の交わりが度を過ぎるのを嫌い、故吏の范晏が諫めると、義真は「靈運は空疎で延之は狭薄、魏文帝の言う『名節を以て自立できる者は少ない』が、意気投合する者と交わっているに過ぎない」と答えた。
  • 歴陽への赴任に際し隊伍を東府の前に並べたところ、既に国哀があるにもかかわらず義真は靈運・延之・慧琳らと座して部伍を見物し、宴の舟の中で左右に舫の函道を破らせて自分の船を優先させたという。歴陽に着くと多くを求索し、羨之らがすべて応じないことに深く怨み、政権に対して都への帰還を求めた。
  • 当初少帝が東宮にあった頃、多く小人を近づけていたため謝晦が武帝に「陛下すでに高齢、万代の神器を軽々に非才に負わせてはならない」と諫言、武帝が「廬陵はどうか」と問うと晦は「私が観察しましょう」と答え、義真を訪ねた際、義真は大いに語ろうとしたが晦はほとんど応じず、帰って「徳が才に軽く人主の器ではない」と述べ、これにより義真は外に出された。
  • 徐羨之らが専政すると義真はますます不満を強め、少帝の失徳により羨之らが廃立を謀った際、順序では義真が次であったが「義真は軽躁で社稷を任せるに堪えない」として、少帝との不和を理由に廃して庶人とし新安郡に徙した。前吉陽令張約之が上疏して諫めたため梁州府軍参軍に徙されたが、まもなく殺された。景平二年(424年)羨之らは使者を派遣し徙所で義真を殺した。時に年十八。
  • 元嘉元年(424年)八月、詔して先封を追復し、霊柩と孫修華・謝妃を一時に共に迎え還した。元嘉三年(426年)正月、徐羨之・傅亮らを誅殺したその日、侍中・大将軍を追崇し王として遇し、張約に郡を追贈した。義真に子なく、文帝の第五子紹(字休𦙍)が嗣ぎ廬陵王を襲封。紹は寛雅、揚州刺史に至り薨去。子なく南平王鑠の子敬先が嗣いだ。