南史卷十三 列傳第三宋宗室及諸王上 營浦侯遵考

出自と経歴

  • 劉遵考は武帝の族弟。曽祖淳皇、曽祖武原令混之の弟は正員郎、祖巖は海西令、父涓子は彭城内史。武帝の諸子はいずれも幼弱で、宗室で頼れるのは遵考のみであった。
  • 北伐平定後、并州刺史・領河東太守として蒲坂を鎮めたが、関中が失われ南還。冠軍将軍に累遷し、晋帝が秣陵宮に遜位した際は遵考が兵を領して防衛にあたった。武帝即位の初め、營浦縣侯に封じられ、元嘉中に累遷して寕蠻校尉・雍州刺史・都督となったが、施政は厳酷で聚斂節度なく有司に糾弾されたが、上(文帝)は不問に付した。
  • 孝武帝大明中、尚書左僕射・領崇憲太僕に至り、後に老疾で失明。元徽元年(473年)卒し、左光禄大夫・開府儀同三司を贈られ諡は元公。子の澄之は昇明末(479年頃)に貴達した。
  • 澄之の弟琨之は竟陵王誕の司空主簿となった。誕は宝琴を有し、左右の者がその徽(琴の飾り)を犯すと罰しようとしたが、琨之が「これは私の宝物である」と誕を諫めた際「前哲は善人を宝とし珠玉を宝とはしなかった。王孫圉は觀父を楚国の宝と称した。琴瑟を宝とすると聞いたことはない」と述べ、誕は忸怩として喜ばなかった。誕の反乱の際、琨之は中兵参軍とされたが「忠孝は並び立ちがたい、老いた父がいるのにどうしよう」と辞退したところ、誕に殺された。後に黄門郎を追贈され、詔により謝莊が誄を作った。
  • 遵考の従父弟思考も清顕な官を歴任し散騎常侍・金紫光祿大夫で卒した。

季連――蜀での反乱と平定

  • 思考の子季連(字惠續)は早くから清官を歴任した。齊高帝受禅の際、誅殺されそうになったが太宰褚彦回が親交から固く請うて免れた。
  • 建武中、平西将軍蕭遥欣の長史・南郡太守となった。遥欣が多く賓客を招くのを明帝が憎み、季連は遥欣に含むところがあり密かに明帝に「異心あり」と表を上げた。明帝は遥欣を雍州刺史とする一方で季連の心を徳とし、益州刺史として遥欣の上流を扼させた。
  • 季連の父思考が宋代に益州で政績はなかったが、州人は義故(旧義)ゆえによく待遇した。季連は故老を訪ね父の代を知る人々を慰めたが、その後性質が忌み深く狭量となり、厳しく酷薄となって土人は怨みを抱いた。
  • 永元元年(499年)九月、講武と称して中兵参軍宋買に兵を率いさせ中水の穰人李託を襲わせたが失敗。翌年十月、巴西人趙續伯が反し、その郷人李弘を「聖主」に奉じた。李弘は仏輿に乗り五彩で青石を包み「天が我に玉印を与え蜀に王たれと命じた」と百姓を誑かした。季連は中兵参軍李奉伯を遣わし大破しこれを捕らえた。処刑にあたり李弘は「須臾にして我は飛び去る、汝らは空しく我を殺すのみ、三月三日に会して再び出る」と言い放ったが斬られた。
  • 梁の武帝が建鄴を平定すると、左右の陳建孫を遣わし季連の二子と弟通直の子深に命を伝えさせ帰順させた。季連は命を受け還装を修めたが、武帝は西臺の将鄧元起を益州刺史とした。元起は南郡の人で、季連が南郡にいた頃彼を薄く待遇していた。
  • 元起の典籤朱道琛はかつて季連の府都録であったが無頼で季連が殺そうとし逃れたことがあり、この時元起に「先に道を検校せよ」と説いた。道琛は言葉が不遜で、道中の府州人士の器物を奪い「乱を起こす人が何を惜しむ」などと言い、軍府は懼れて季連に訴えた。季連はこれを信じ、加えて以前の非礼を憎み、元起はますます憤懣を募らせた。
  • 司馬朱士略が季連に巴西郡守を求めさせ三子を人質としたところ、季連は許した後、兵を召し集めて精甲十万を得ると「天険の地に拠り盛兵を握れば、進んでは社稷を匡し、退いても劉備たり得る、これを捨てて何処に帰るべきか」と嘆じ、齊の宣徳皇后の令と偽称して再び反し、朱道琛を捕らえて殺し、朱士略・涪令李膺に書を送ったが応じなかった。
  • 天監元年(502年)六月、鄧元起が巴西に至り、季連は将李奉伯を遣わし戦ったが敗れ、季連は固守。元起がこれを囲み、城中は餓死者が相枕むほどとなり、人が人を食う惨状となった。天監三年(504年)季連は肉袒して罪を請い、元起は季連を城外に遷し礼をもって遇した。季連は「早くこうなると知っていれば先日のようなことはしなかった」と謝した。元起は李奉伯を誅し、季連を都に送り返した。
  • 出発に際し人々は誰も見送りに出ず、龔愜のみが送った。当初元起は道中で事が集まらぬことを懼れ、賞を惜しまず約束しており、来投者は別駕中從事の檄を受けた者が二千人に及んだ。
  • 季連は都に着くと闕に詣で謝罪し、東掖門から数歩ごとに稽首して帝の前に至った。帝は笑って「卿は劉備を慕うつもりで公孫述にも及ばぬ、卧龍の臣もいなかったのか」と言い、赦して庶人とした。天監四年(505年)建陽門を出た際、蜀人藺相如に殺された。季連は蜀にいた頃父を殺して名を変え建鄴に逃れており、これに報復されたのである。帝は面縛して罪に服した季連を壮とし赦していた。

宋武帝七男

  • 張夫人は少帝を、孫修華は廬陵孝獻王義真を、胡媫妤は文帝を、王修容は彭城王義康を、桓羙人は江夏文獻王義恭を、孫羙人は南郡王義宣を、呂羙人は衡陽文王義季を生んだ。