南史卷十三 列傳第三宋宗室及諸王上 臨川烈武王道規
出自と勲功
- 劉道規(字道則)は武帝の少弟。ものに動じない大志を持ち、桓玄誅殺の謀に加わった。桓弘が広陵を鎮めていた際、道規は征虜中兵参軍としてこれに従い、武帝が京城を平定したその日、劉毅・孟昶とともに桓弘を斬った。
- 桓玄が敗走すると、道規は劉毅・何無忌とともに追撃し破った。無忌が勝ちに乗じて直ちに江陵に向かおうとした際、道規は「桓氏一族は西楚に世居し、その配下は皆力を尽くして戦うだろう。桓振は三軍随一の勇者ゆえ、まず兵を止めて計略で縛るべきだ」と諫めたが聞き入れられず、無忌は振に破られ尋陽まで退いた。道規は舟甲を修めて再び進み、巴陵・江陵を平定した。江陵平定の功では道規は劉毅を元功に推し、無忌を次に、自らを末とした。挙義の功により華容縣公に封じられ、領護南蠻校尉・荆州刺史・都督に累遷した。
- 刑政に長け、士庶はその威を畏れつつ愛した。盧循が建業に迫った際、道規は司馬王鎮之・揚武将軍檀道濟・広武将軍到彦之らを援軍に派遣したが、朝廷軍は尋陽で盧循党の荀林に破られた。荀林は勝ちに乗じ江陵を伐ち、徐道覆がすでに建業を破ったと偽り、桓謙が長安から蜀に入り譙縦がこれを荆州刺史とし大将譙道福とともに江陵に迫った。
- 道規は将士を集めて「東からの文武はことを済ますに足る。去りたい者は禁じない」と告げ、夜に城門を開かせたが、皆その気概を畏れ服し去る者はなかった。雍州刺史魯宗之が襄陽から来援した際、宗之は信用できないとの声もあったが、道規は単車で自ら迎え、皆その度量に感悦した。
- 諸将が檀道濟・到彦之に荀林らを撃たせようとしたが、道規は「私自身が行かねば決着しない」として宗之に留守を任せ、諸将を率いて桓謙を大破し斬り、諮議劉遵は荀林を追撃し巴陵で斬った。桓謙が枝江に至った際、江陵の士庶が謙に内応する書を送ったが、道規はこれらをすべて焼却し、衆心は大いに安んじた。
- 徐道覆が破冢に迫り、魯宗之が既に襄陽に帰り人心が動揺、盧循がすでに都を陥れたとの流言も広まったが、江漢の士庶は焼書の恩に感じ二心を抱かなかった。道規は劉遵を遊軍とし道覆の前駆に当てたが劣勢となる中、道規自ら壮気を奮い、遵が外から横撃して大破した。当初、遵を遊軍にすることに「見せかけの兵力を無用の地に割くべきではない」との反対もあったが、道覆を破って初めて遊軍の効果が示され、皆服した。
- 遵(字慧明、淮南海西の人、道規の従母兄)は淮南太守を歴任し、監利縣侯を追封された。道規は征西大将軍・開府儀同三司に進み豫州に改授されたが疾で拝さず、義熈八年(412年)都で薨去。司徒を贈られ諡は烈武、南郡公に進封。
- 武帝受命に伴い大司馬を追贈され臨川王を追封。子がなかったため、長沙景王の第二子義慶が嗣いだ(当初、文帝が幼少で道規に養われていた縁で武帝は文帝に道規の跡を継がせようとしたが、礼に二継なしとして文帝は本来の系に戻し、義慶を後継に定めた)。
- 義慶が荆州廟主となり江陵へ随行する予定であったところ、文帝は詔して勲徳と慈蔭の重きを讃え、丞相を追崇し殊礼を加え、鸞路九旒・黄屋左纛・節鉞・前後部羽葆鼓吹・虎賁班劔百人を与え、長沙太妃檀氏・臨川太妃曹氏の薨後の葬礼もこれに準じさせた。
臨川烈武王義慶――治績と文事
- 義慶は幼少より武帝に知られ、十三歳で南郡公を襲封、永初元年(420年)臨川王を襲封。元嘉中に丹陽尹となる。
- 百姓黄初の妻趙氏が子の嫁を殺した事件で、赦に遇ったが孫の讎(仇討ち)を避けるべきか議論となった際、義慶は「周礼で父母の仇を海外に避けるのは莫大な冤罪ゆえだが、骨肉相殺の場合は法外に求めるべき。禮には過失の宥しがあり律には祖を讎とする条文はない。趙氏の暴行は酒によるもので実情は老いぼれによるもの。老いぼれた王母を路上の深讎のごとく扱うべきでなく、共に天を戴くのが孝道に適う」と議した。
- 元嘉六年(429年)尚書左僕射を加えられ、八年(431年)太白が左執法を犯した際、義慶は災禍を懼れ外鎮を乞うたが、文帝は詔して「玄象は茫昧なもの、日蝕は天下最大の忌みだが晋の孝武帝の時にもこの異変があったが結局何事もなかった」と諭した。それでも義慶が固く僕射を辞したため許され、九年(432年)平西将軍・荆州刺史・都督に出た。荆州は上流の重地で兵甲資実は朝廷の半ばを占め、武帝の諸子が代々これを居としたが、義慶は宗室の令名により特に授けられた。性は謙虚で、赴任・離任の際の贈物は一切受けなかった。
- 十二年(435年)内外の群臣に人材推挙を命じた際、義慶は前臨汝令新野の庾実、前徴奉朝請の龔祈、処士南郡の師覺授を推挙した。義慶は撫民に心を配り、州内の官長で親が老いた者は一年に三度、官の吏を実家に帰し親を養わせることを許した(先例は王𢎞の江州にあり)。荆州在任八年、西土に安んじられた。
- 徐州先賢傳十卷を撰し奏上。また班固の典引にならい典叙を作り皇代の美を述べた。江州に改授され、後に南兖州刺史に遷り、都督・開府儀同三司を加えられた。
- 性は簡素で嗜欲少なく、文義を好んだ。文辞は多くはなかったが宗室の表と称するに足り、歴任に浮淫の過ちはなかった。晩年は沙門に帰依し費損を招いた。若い頃は騎乗を善くしたが長じては馬に乗らなくなった。
- 才学の士を招き、遠近から多く集まった。太尉袁淑は当時の文冠であり、義慶が江州にいた際には衞軍諮議に招いた。その他呉郡の陸展、東海の何長瑜、鮑照らも文辞の美をもって佐吏に招かれた。義慶が著した『世説』十卷、撰集した『集林』二百卷はともに世に行われた。文帝は義慶に書を送るたびに常に意を用いて斟酌したという。
鮑照(附伝)
- 鮑照(字明逺、東海の人)は文辞に富み、かつて古樂府を作り甚だ遒麗であった。元嘉中、河濟がともに清んだ際、当時これを瑞祥とし、照は「河清頌」を作りその序は甚だ工みであった。
- 照は初め義慶に謁見しようとしたが機会を得ず、詩を贈って志を言おうとした際、「まだ位が低いのに軽々しく大王の意に逆らってはならぬ」と止められたが、照は「千載の上にも英才異士は沈没して聞こえぬ者が数え切れぬ。大丈夫が智能を蘊蓄したまま蘭艾も分かたぬまま燕雀と伍していてよいものか」と憤然として詩を奏上、義慶はこれを奇として帛二十匹を賜い、国侍に抜擢して重んじた。
- 秣陵令に遷り、文帝は中書舎人とした。上(文帝)は文章を好み自ら誰も及ばぬと自負していたため、照はその意を悟り、あえて拙い言葉と冗漫な句を多く用いた文章を書き、世は「照の才は尽きた」と評したが、実はそうではなかった。
- 臨海王子頊が荆州刺史となった際、照は前軍参軍として書記の任にあたったが、子頊が敗れた際に乱兵に殺された。
臨川烈武王義慶――晩年と後継
- 義慶が広陵在任中、病にかかり白虹が城を貫き、野の獣が府に入るなど不吉な兆しがあり甚だこれを嫌い、朝廷に求め文帝の許しを得て本号のまま帰朝。元嘉二十一年(444年)都下で薨去、司空を追贈され諡は康王。
- 子の哀王曅が嗣いだが、元凶(劉劭)に殺された。曅の子綽が嗣いだが、昇明三年(479年)殺され国は除かれた。