南史卷十三 列傳第三宋宗室及諸王上 長沙景王道憐
劉道憐、宋の武帝劉裕の中弟(?–422年)。武帝の挙兵以来各地を転戦し、その功により長沙王に封じられたが、才に乏しく蓄財を好んだ人物として知られる。子孫は概して凡庸で、孫の韞は齊初に誅殺された。
出自と経歴
- 劉道憐は宋の武帝劉裕の中弟。謝琰の徐州で従事となったのが仕官の始め。
- 武帝が京城・建業を平定した際、道憐は常に太后に付き従い留守を守った。後に軍功により新渝縣男に封じられ、武帝の広固親征に従って慕容超を捕らえる功で竟陵縣公に改封された。
- 司馬休之討伐では太尉留府事を監し、江陵平定後は驃騎将軍・開府儀同三司・荆州刺史・護南蠻校尉となり、北府の文武もすべて配された。
- 道憐は才能に乏しく言葉遣いも粗野で振る舞いに拙いところが多く、蓄財癖があって出鎮のたびに府庫を空にした。その後司空・徐兖二州刺史・都督となり京口に出鎮。
- 武帝受命(宋建国)に伴い太尉に遷り長沙王に封じられた。かつて廬陵王義真が揚州刺史であった際、太后が武帝に「道憐を揚州に用いよ」と求めたが、武帝は「揚州は根本の重地で道憐には務まらない」と答え、道憐は年五十でも十歳の子に及ばないという太后の反論にも「刺史の実務はすべて自分(寄奴)が握っており、道憐の年長は聴望に足らない」と答え、結局授けなかった。
- 永初三年(422年)薨去。太傅を追贈され、晋の太宰安平王孚の故事に依って葬礼が行われた(鸞路九旒・黄屋左纛・輼輬車・挽歌二部・前後羽葆鼓吹・虎賁班劔百人)。
- 文帝元嘉九年(432年)、故太傅長沙景王・故大司馬臨川烈武王・故司徒南康文宣公劉穆之・開府儀同三司華容縣公王𢎞・開府儀同三司永修縣公檀道濟・故青州刺史龍陽縣公王鎮惡らを天府に功を刻んで廟庭に配祭する詔が出された。
長沙景王道憐の子孫
- 子の義欣が嗣ぎ、豫州刺史として夀陽を鎮め、境内は畏服し道に遺失物を拾う者がないほど盛藩强鎮となった。薨後、開府儀同三司を贈られ諡は成王。
- 子の悼王瑾が嗣いだが、爵位は子に伝わり、その子の代に齊の受禅により国が除かれた。
- 瑾の弟の韞(字彦文)は雍州刺史・侍中・領右衛将軍・領軍将軍に至ったが、昇明二年(478年)齊の高帝により誅殺された。韞は人柄が凡庸で、特に明帝に寵愛され、湘州・雍州で絵師に自分の出行の鹵簿・羽儀を描かせて自ら眺めるほどであった。ある時この図を征西将軍蔡興宗に示すと、興宗は戯れに輿の中の人物を指して問うたところ、韞は「まさに自分だ」と答え、その凡庸ぶりはこの類であった。
- 韞の弟述(字彦思)も甚だ庸劣。従子の俁が危篤になった際、父彦節・母蕭氏が対して泣くなか、述は候問し左右に酒肉を取り寄せ俁に進めさせた。周囲が意図を測りかねると「礼に病人は酒肉を飲食すべしとある」と答えた。また新たに緦麻の喪に服していた際、母の安否を問われると「愁いに沈むばかり」と答え、子のことを問われると「父子聚麀(父子相通ずる意)とはこの憂いを言うのだ」と答えたという。
- 義欣の弟義融は桂陽縣侯(食邑千戸。凡そ王子が侯に封ぜられる場合食邑はみな千戸)。五兵尚書・領軍を歴任し、質実で用兵に長け、諡は恭侯。子の孝侯覬が嗣いだが子がなく、弟の襲が晃の子(字茂徳)を継嗣とした。晃・襲は性が庸鄙で、襲が郢州刺史のとき暑月に肌もあらわに聴事に上り、綱紀(属官)が驚いて調べて初めて実態を知ったという。
- 義融の弟義宗は幼くして武帝に愛され字は伯奴、新渝縣侯に封じられ太子左衛率となったが、門生杜徳靈が乱暴を働き義宗邸に逃げ込んだのを匿ったことで免官となった。徳靈は容姿によって義宗に寵愛されたためである。義宗は南兖州刺史で卒し諡は惠侯。子の懐珍が嗣いだが子なく、弟彦節が子承を継嗣とした。
- 彦節は少くして宗室として清謹の評を得、孝武帝の時代、弟の遐が嫡母殷氏を毒殺した疑いを掛けられた際、彦節は「行きずりの人でさえそのようなことはしない、まして我が身内が」と述べ勅命の証言を拒み、これにより世に称賛された。後廢帝即位後、尚書左僕射・参選に累遷し、元徽元年(473年)吏部を領し兵五百人を加えられた。桂陽王休範の反乱に際し、中領軍劉勔が石頭に出て守ったため、彦節は権兼領軍将軍となり、加えられた兵を率いて入殿し当陽侯に封じられた。齊高帝・袁粲・褚彦回とともに日を分けて入直し機事を平决、中書令・撫軍将軍に遷った。
- 順帝廃立(蒼梧王廃立)の際、彦節は路上で従弟韞に「今日の事は兄に帰するのか」と問われ「我らはすでに領軍を譲った」と答えると、韞は胸を叩いて「兄の肉には血がないのか、今年一族は滅びるぞ」と嘆いた。この言葉に齊高帝は彦節を憎んだ。
- 順帝即位、彦節は尚書令に転じたが、齊高帝が輔政する中、天運の移りゆくのを知って密かに異図を懐いた。沈攸之挙兵の際、齊高帝が朝堂に入屯し袁粲が石頭を鎮めると、彦節は諸大将黄回らと密謀し夜に石頭に会することを約したが、いざとなると臆病で騒ぎ立ち、丹陽郡から車で婦女を乗せ一族総出で石頭へ奔った。妻蕭氏の勧めで羹をすすったが手が震えて止まらず、主簿丁靈衛は難を聞いて左右に「今日は取り済ませないが我は劉公の厚恩を受けた身、二心はない」と語った。石頭に至り袁粲に会うと粲は驚き「事すでに敗れた」と嘆いたが、彦節は「公に会えたなら万死も恨みなし」と答えた。従弟の韞は直閣将軍卜伯興と共謀し夜に齊高帝を攻めようとしたが、事が露見し秣陵令劉實・建康令劉遐が密告、齊高帝は驍騎将軍王敬則に命じ収殺、伯興も殺された。
- 袁粲が敗れると彦節は城を越えて逃げ額檐湖で捕らえられ殺された。彦節の子俁がかつて詠んだ詩に「城上の草、根を植うるは高からずにあらざるも、恨むところは風霜の早きなり」とあり、当時これを凶兆と呼んだ。事敗れて俁と弟陔は剃髪し法服をまとって京口へ向かい、客舎で人に見破られ建康の獄に捕らえられ、悉く殺された。
- 彦節は貴人となってからも、士子で三署の出身でなければ自邸の上方の榻に座らせなかったため、世人はこれを軽んじた。妻は蕭思話の娘で、常に禍を恐れ「あなたは富貴すでに十分、児のためを考えるべき」と諭したが従わず禍に至った。
- 彦節の弟遐(字彦道)は嫡母殷氏の急死の件で咎められ始安郡に流され、後に許されて呉郡太守となったが、ここでも誅殺された。遐は人柄がひどく凡庸で、自らの名を諱み主上の諱と同字であることを憚らず、客に対し「孝武帝は無道にも母を枉殺した」などと放言する愚かさであった。彦節が権を握った際、遐は再三方伯(地方官)を求めたが「私が要職にありながら汝を用いれば聴望に足らぬ」と拒まれ、遐は「富貴となれば言葉も通じなくなる」と怒った。連坐を免れたが結局は誅殺された。
- 義宗の弟義賓は興安侯に封じられ徐州刺史。卒して諡は肅侯。義賓の弟義綦は營道縣侯に封じられ、凡庸で見識に乏しかった。始興王濬にからかわれ「陸士衡の詩に営道に烈心なしとあるがどういう意味だ」と問われても意味を解さず「下官は元来士衡を知らぬ、なぜそのように苦しめるのか」と答えたという。湘州刺史となり諡は僖侯。