南史卷十 陳本紀下第十 陳頊(字紹世)・陳叔寶(字元秀)
後主、諱は叔寶、字は元秀、小字は黄奴。宣帝の嫡長子(553–604年)。太建十四年に即位したが酒色と詩文に耽り朝政を怠り、張貴妃ら寵姫を重んじて国政を乱した。禎明三年、隋軍の南下により陳は滅亡し、長安に送られ隋の文帝に厚遇されつつ生涯を終えた亡国の帝。
出自と生い立ち(髙宗孝宣皇帝陳頊)
- 髙宗孝宣皇帝、諱は頊、字は紹世、小字は帥利。始興昭烈王の第二子。梁中大通二年(530年)七月辛酉、赤い光が室に満ちる中で生まれた。若くして寛容で智略に富み、長じては容儀が美しく身長八尺三寸、手は膝を過ぎ、勇力があり騎射に優れた。
- 武帝が侯景を平定し京口に鎮したとき、梁の元帝は武帝の子姪を江陵に召し出仕させ、武帝は頊を江陵に送った。累進して中書侍郎となる。ときに軍主李總と親交があり、頊が酒に酔って灯をともしたまま眠ると、外出して戻った總は頊が大龍の姿をしていると見て驚き別室に走り去った。魏が江陵を平定すると長安に遷され、頊の容貌は一見ぼんやりして見えたが、魏の将楊忠の門客張子煦はこれを見て「この人は虎頭の相、必ず大貴となる」と評した。
- 永定元年(557年)遥かに始興郡王に襲封され、文帝が即位すると安成王に改封された。天嘉三年(562年)周から帰還し侍中中書監中衛将軍に任じられ佐吏を置いた。歴任して司空・尚書令、廃帝即位に伴い司徒録尚書都督中外諸軍事を拝命。光大二年正月、太傅領司徒に進み剣履上殿の殊礼を加えられた。十一月甲寅、慈訓太后が廃帝を臨海王に黜し頊が皇統を継ぐこととなった。この月、斉の武成帝が崩じた。
太建元年(569年)
- 春正月甲午、皇帝は太極前殿で即位し大赦・改元。文武に位一階を賜い、孝弟力田・父の後継者に爵一級、自活できない鰥寡に穀五斛を賜った。太皇太后の尊号を皇太后に復し、妃柳氏を皇后に、世子叔寶を皇太子に立てた。皇子で江州刺史康楽侯叔陵を始興王として昭烈王の祀を奉じさせた。乙未、太廟に謁した。丁酉、四方に大使を分遣し風俗を観察させ、尚書僕射沈欽を左僕射、度支尚書王勱を右僕射とした。辛丑、南郊を祀った。壬寅、皇子建安侯叔英を豫章王、豊城侯叔堅を長沙王に封じた。
- 二月乙亥、籍田を耕した。夏五月甲午、斉人が来聘。丁巳、吏部尚書徐陵を尚書右僕射とした。秋七月辛卯、皇太子が沈氏を妃に迎え、王公以下に帛を差等をもって賜った。冬十月、新任の左衛将軍歐陽紇が広州で反乱を起こし、辛未、開府儀同三司章昭逹を遣わして討伐させた。
太建二年(570年)
- 春二月癸未、章昭逹が歐陽紇を捕らえ都に送り建康市で斬り、広州が平定された。三月丙申、皇太后が崩じた。丙午、広・衡二州を曲赦。丁未、大赦し周廸・華皎討伐以来の戦死者をすべて棺槥を給し本郷に送還した。
- 夏四月乙卯、臨海王伯宗(廃帝)が薨じた。戊寅、皇太后を万安陵に祔葬。五月壬午、斉人が弔問に来た。六月戊子、新羅国が朝貢。辛卯、大雹。乙巳、大使を四方に分遣し寃屈を巡省させた。冬十一月辛酉、高麗国が朝貢。十二月癸巳、雷が鳴った。
太建三年(571年)
- 春正月癸丑、尚書右僕射徐陵を尚書僕射とした。辛酉、南郊を祀った。二月辛巳、明堂を祀った。丁酉、籍田を耕した。三月丁丑、大赦。夏四月壬辰、斉人が来聘。五月辛亥、高麗・新羅・丹丹・天竺・盤盤等の国が朝貢。六月丁亥、江陰王蕭季卿が罪により免じられ、甲辰、東中郎長沙王府諮議参軍蕭彞を江陰王に封じた。冬十月乙酉、周人が来聘。十二月壬辰、司空章昭逹が薨じた。
太建四年(572年)
- 春正月丙午、尚書僕射徐陵を左僕射、中書監王勱を右僕射とした。二月乙酉、皇子叔卿を建安王に立てた。三月乙丑、扶南・林邑国が朝貢。夏五月癸卯、尚書右僕射王勱が卒した。この月、周人が冢宰宇文護を誅した。秋八月辛未、周人が来聘。九月庚子朔、日食。辛亥、大赦。丙寅、故太尉徐度・儀同三司杜稜・程霊洗を武帝廟庭に、故司空章昭逹を文帝廟庭に配食させた。冬十一月己亥、地震。この歳、周建徳元年。
太建五年(573年)
- 春正月癸酉、吏部尚書沈君理を尚書右僕射兼吏部とした。辛巳、南郊を祀った。二月辛丑、明堂を祀った。乙卯夜、白気が虹のように北方から北斗・紫宮を貫いた。三月壬午、開府儀同三司呉明徹に征討諸軍事を都督させ北辺の地を略取させた。丙戌、西衡州が角の生えた馬を献じた。己丑、皇孫胤が誕生し内外文武に帛を差等をもって賜り父の後継者に爵一級を賜った。
- 夏六月癸卯、周人が来聘。秋九月癸未、尚書右僕射沈君理が卒した。壬辰晦日、夜が明るかった。冬十月己亥、特進周弘正を尚書右僕射とした。乙巳、呉明徹が壽陽城を攻略し王琳を斬りその首を建鄴に送り朱雀航に梟した。十二月壬辰、熊曇朗・留異・陳寶応・周廸・鄧緖ら及び王琳の首を親族に還し弘く恩赦した。乙巳、皇子叔明を宜都王、叔獻を河東王に立てた。この歳、諸軍の略地はいたる所で勝利を重ねた。
太建六年(574年)
- 春正月壬戌、江右・淮北の諸州を赦した。甲申、周人が来聘、高麗国が朝貢。二月壬辰朔、日食。辛亥、籍田を耕した。夏四月庚子、彗星が現れた。六月壬辰、尚書右僕射周弘正が卒した。冬十一月乙亥、北辺で行軍のあった地に十年の復(賦役免除)を詔した。十二月戊戌、吏部尚書王瑒を尚書僕射とした。
太建七年(575年)
- 春正月辛未、南郊を祀った。三月辛未、豫・二兖・譙・徐・合・霍・南司の九州および南豫・江・郢の江北諸郡に雲旗義士を置き大軍と諸鎮の備防に充てるよう詔した。夏四月丙戌、大角に彗星が現れた。庚寅、監豫州陳桃根が青牛を献じたが百姓に返すよう詔した。乙未、桃根がまた織成羅紋錦被の表を各二進上したが雲龍門外で焼かせた。壬子、郢州が瑞鍾六口を献じた。六月丙戌、北伐で戦死した将士のため哀を挙げるよう詔した。壬辰、尚書右僕射王瑒を尚書僕射とした。己酉、雲龍・神虎門を改築した。
- 秋八月癸卯、周人が来聘。閏九月壬辰、都督呉明徹が呂梁で斉軍を大破した。この月、甘露が頻繁に楽游苑に降り、丁未、輿駕が苑に幸し甘露を採り群臣を宴し、苑の龍舟山に甘露亭を建てるよう詔した。冬十月己巳、皇子叔齊を新蔡王、叔文を晉熈王に立てた。十二月壬戌、尚書僕射王瑒を左僕射、太子詹事陸繕を右僕射とした。甲子、南康郡が瑞鍾一を献じた。
太建八年(576年)
- 春二月壬申、開府儀同三司呉明徹を司空とした。夏五月庚寅、尚書左僕射王瑒が卒した。六月甲寅、尚書右僕射陸繕を左僕射、新除晉陽太守王克を右僕射とした。秋九月戊戌、皇子叔彪を淮南王に立てた。
太建九年(577年)
- 春正月乙亥、斉主が太子恒に位を伝え太上皇と号した。この月、周が斉を滅ぼした。二月壬子、籍田を耕した。秋七月己卯、百済国が朝貢。庚辰、大雨で万安陵の華表が震われた。己丑、慧日寺の刹と瓦官寺の重門が震われ、一女子が震死した。冬十月戊午、司空呉明徹が呂梁で周将梁士彦を破った。十二月戊申、東宮が完成し皇太子が新宮に移った。
太建十年(578年)
- 春二月甲子、周軍が梁士彦を救援し呂梁で司空呉明徹を大敗させ、将卒はみな捕虜となり帰らなかった。三月辛未、武庫が震われた。丙子、諸軍に周への備えを分命。乙酉、大赦。夏四月庚戌、従軍者に爵二級を賜うよう詔し、また御府・堂署の造営や礼楽・儀服・軍器以外の営造はすべて停止し、掖庭の王侯妃主への供給も量を減らすよう詔した。庚申、大雹。六月丁酉、周武帝が崩じた。閏六月丁卯、大雨で大皇寺の刹・荘厳寺の露盤・重陽閣東楼・千秋門内の槐樹・鴻臚府門が震われた。秋七月戊戌、新羅国が朝貢。八月戊寅、霜が降り稲菽を枯らした。九月乙巳、婁湖に方明壇を立て、戊申、揚州刺史始興王叔陵に王官伯を兼ねさせ盟を臨ませた。甲寅、婁湖に幸し誓衆に臨んだ。乙卯、大使を分遣し盟誓を四方に布告し上下互いに警めさせた。冬十月戊子、尚書左僕射陸繕を尚書僕射とした。十二月乙亥、合州廬江の蛮田伯興が樅陽に出寇し、刺史魯広逹がこれを討ち平定した。この歳、周宣政元年。
太建十一年(579年)
- 春正月丁酉、南兖州で龍が現れたとの報告。二月癸亥、籍田を耕した。秋七月辛卯、初めて大貨六銖銭を用いた。八月丁卯、大壮観に幸し閲武。冬十月甲戌、尚書僕射陸繕を尚書左僕射、祠部尚書晉安王伯恭を右僕射とした。十一月辛卯、大赦。戊戌、周将梁士彦が壽陽を囲み陥した。辛亥、また霍州を陥した。癸丑、揚州刺史始興王叔陵を大都督とし水歩衆軍を総督させた。十二月乙丑、南北兖・晉三州及び盱台・山陽・陽平・馬頭・秦・歴陽・沛・北譙・南梁等九郡の民がみな挙って建鄴に移った。周はまた譙・北徐二州を陥し、これより淮南の地はことごとく周に帰した。己巳、軍国に必要でないものはすべて減らし儉約に帰するよう詔した。この歳、周宣帝大象元年。
太建十二年(580年)
- 夏四月癸亥、尚書左僕射陸繕が卒した。己卯、大いに雩(雨乞い)を行い、壬午、雨が降った。五月癸巳、尚書右僕射晉安王伯恭を尚書僕射とした。己酉、周宣帝が崩じた。六月壬戌、大風が皋門の中闥を吹き壊した。秋八月己未、周の鄖州総管司馬消難が統べる九州八鎮の地をもって来降し、消難を大都督に詔し司空を加え隨郡公に封じた。庚申、鎮西将軍樊毅を進めて沔漢諸軍事を督させ、南豫州刺史任忠に軍を率いて歴陽に趣かせ、超武将軍陳慧紀を前軍都督として南兖州に趣かせた。
- 戊辰、司空司馬消難を大都督水陸諸軍事とした。庚午、通直散騎常侍淳于陵が臨江郡を攻略。癸酉、智武将軍魯広逹が郭黙城を攻略。甲戌、大雨が続いた。丙子、淳于陵が柘州城を攻略。九月癸未、周の臨江太守劉顯光が兵を率いて来降した。この夜、天の東南で風水の相激するような音がし三夜続いた。丁亥、周将王延貴が兵を率いて歴陽を援けたが任忠がこれを撃破し延貴らを捕らえた。己酉、周の広陵義軍主曹薬が兵を率いて来降した。冬十月癸丑、大雨・雷電。十二月庚辰、南徐州刺史河東王叔獻が薨じた。
太建十三年(581年)
- 春正月壬午、中権将軍護軍将軍鄱陽王伯山に本号のまま開府儀同三司を加え、尚書僕射晉安王伯恭を左僕射、吏部尚書袁憲を右僕射とした。二月乙亥、籍田を耕した。秋九月癸亥夜、西北から大風が起こり屋を吹き木をなぎ倒し大雹が降った。冬十月壬寅、丹丹国が朝貢。十二月辛巳、西南に彗星が現れた。この歳、周静帝大定元年、隋に位を譲り隋の文帝が開皇元年と改元した。
太建十四年(582年)
- 春正月己酉、上(帝)は姿が病んだように見え、甲寅、宣福殿で崩じた。時に五十三歳。遺詔でおよそ終制の事は倹約を旨とし、金銀の飾りは壙に入れず明器はすべて瓦を用い、日を月に代える喪の制、公除の制はすべて旧準に依り、在位百司は三日一臨、四方の州鎮・五等諸侯はそれぞれの職を守り駆けつけることを停めさせた。二月辛卯、群臣が孝宣皇帝と諡し廟号を髙宗とし、癸巳、顕寧陵に葬った。
- 帝はもと恢弘の度量を備え、帝位に就いてからは実に天人にかなう資質を発揮した。ときに国歩はようやく落ち着き始めたばかりで、淮南の地はすでに斉に併呑されていた。帝は旧境の回復を志し、逆に地を侵そうとしたが、力の強弱の差は歴然としており、無理な企てはついに自らを捕らえる結果を招いた。周軍が斉を滅ぼしその勢いに乗じて略地しつつ帰還する動きに至り、自らも懼れを抱いた。その後、都城の防備を修めたが、地中から出た銘に「二百年後、癡人ありてわが城を破らん」と刻まれていたといい、当時その意味を測りかねたという。
出自と生い立ち(後主陳叔寶)
- 後主、諱は叔寶、字は元秀、小字は黄奴。宣帝の嫡長子。梁承聖二年十一月戊寅(553年)江陵で生まれた。翌年魏が江陵を平定し、宣帝は長安に遷され後主は穰城に留め置かれた。天嘉三年(562年)建鄴に帰り安成王世子に立てられ、光大二年に累進して侍中となった。太建元年正月甲午、皇太子に立てられた。
太建十四年(582年)(叔寶即位)
- 正月甲寅、宣帝が崩じ、乙卯、始興王叔陵が謀反を起こして誅された。丁巳、太子は太極前殿で皇帝に即位し大赦、在位の文武および孝弟力田・父の後継者にみな爵一級を賜い、孤老鰥寡で自活できない者には穀人ごとに五斛・帛二匹を賜った。癸亥、侍中丹陽尹長沙王叔堅を驃騎将軍開府儀同三司揚州刺史とした。乙丑、皇后を皇太后に尊んだ。丁卯、皇弟叔敦を始興王として昭烈王の祀を奉じさせた。己巳、妃沈氏を皇后に立てた。辛未、皇弟叔儼を尋陽王、叔慎を岳陽王、叔逹を義陽王、叔熊を巴山王、叔虞を武昌王に立てた。甲戌、太極前殿で無礙大会を設けた。
- 三月癸亥、内外の衆官九品以上にそれぞれ一人を推薦させ、また忠讜隠すことなき諫言を求めるよう詔した。己巳、新除翊左将軍永陽王伯智を尚書僕射とした。夏四月丙申、皇子永康公胤を皇太子に立て天下の父の後継者に爵一級、王公以下に帛を差等をもって賜った。庚子、金銀薄の飾り物や布帛の粗悪な短狹軽疎な物は財を傷め業を廃するため禁じるよう詔し、また僧尼道士の邪道・民間の淫祀・祅書・珍怪の事を条制を定めて禁絶させた。秋七月辛未、大赦。この月、建鄴から荊州まで長江の水が血のように赤くなった。八月癸未、天に風水の相激するような音がし、乙酉夜にも同様の音がした。九月丙午、太極前殿で無礙大会を設け捨身・乗輿御服も捨て大赦。辛亥夜、天の東北に虫が飛ぶような音がし西北に移った。丙寅、驃騎将軍開府儀同三司揚州刺史長沙王叔堅を司空、征南将軍江州刺史豫章王叔英に本号のまま開府儀同三司を加えた。
至徳元年(583年)
- 春正月壬寅、大赦・改元。江州刺史豫章王叔英を驃騎将軍開府儀同三司とし、司空揚州刺史長沙王叔堅を江州刺史征東将軍開府儀同三司とした。癸卯、皇子深を始安王に立てた。秋八月丁卯、驃騎将軍開府儀同三司長沙王叔堅を司空とした。九月丁巳、天の東南に虫が飛ぶような音がした。冬十月丁酉、皇弟叔平を湘東王、叔敖を臨賀王、叔宣を陽山王、叔穆を西陽王、叔儉を南安王、叔澄を南郡王、叔興を沅陵王、叔韶を岳山王、叔純を新興王に立てた。十二月丙辰、頭和国が朝貢。司空長沙王叔堅が罪により免じられた。戊午夜、天が西北から東南にかけて開き、その中に青黄の雑色が見え、雷のような轟音があった。
至徳二年(584年)
- 春正月丁卯、大使を分遣し風俗を巡省させた。癸巳、大赦。夏五月戊子、吏部尚書江總を尚書僕射とした。秋七月壬午、皇太子が元服し在位の文武に帛を差等をもって賜り、孝弟力田・父の後継者に爵一級、自活できない鰥寡癃老に穀人ごとに五斛を賜った。冬十一月丙寅、大赦。この月、盤盤・百済国がともに朝貢。
至徳三年(585年)
- 春正月戊午朔、日食。庚午、鎮左将軍長沙王叔堅に本号のまま開府儀同三司を加えた。三月辛酉、前豊州刺史章大寶が兵を挙げて反した。夏四月庚戌、豊州義軍主陳景詳が大寶を斬りその首を建鄴に送った。冬十月己丑、丹丹国が朝貢。十一月己未、仲尼廟の修復を詔した。辛巳、長干寺に幸し大赦。十二月癸卯、高麗国が朝貢。この歳、梁の明帝が薨じた。
至徳四年(586年)
- 春正月甲寅、王公以下に隔てなく知る者を推薦させる詔を出した。二月丙申、皇弟叔謨を巴東王、叔顕を臨江王、叔坦を新会王、叔隆を新寧王に立てた。夏五月丁巳、皇子荘を会稽王に立てた。秋九月甲午、玄武湖に幸し艫艦を訓練させ閲武。丁未、百済国が朝貢。冬十月癸亥、尚書僕射江總を尚書令、吏部尚書謝伷を尚書僕射とした。十一月己卯、大赦。
禎明元年(587年)
- 春正月戊寅、大赦・改元。乙未、地震。秋九月庚寅、梁の太傅安平王蕭巖・荊州刺史蕭瓛が都官尚書沈君公を遣わし荊州刺史陳紀に降を請うた。辛卯、巖らはその文武官・男女を率いて長江を渡った。甲午、大赦。冬十一月丙子、蕭巖を平東将軍開府儀同三司東揚州刺史とした。丁亥、驃騎大将軍開府儀同三司豫章王叔英を兼司徒とした。十二月丙辰、前鎮衛大将軍開府儀同三司東揚州刺史鄱陽王伯山を鎮衛大将軍開府儀同三司とした。
禎明二年(588年)
- 春正月辛巳、皇子恮を東陽王、恬を銭唐王に立てた。夏四月戊申、無数の鼠が蔡洲の岸から石頭に渡り淮を越え青塘に至り、両岸で数日のうちに自ら死んだ。この月、郢州の南浦の水が墨のように黒くなった。五月甲午、東冶で鉄を鋳るとき、赤い物が升ほどの大きさで天から落ち鋳造所を熔かし、雷のような音を立てて鉄が塀の外に飛び出し人家を焼いた。六月戊戌、扶南国が朝貢。庚子、皇太子胤を廃して呉興王とし、揚州刺史始安王深を皇太子に立てた。辛丑、太子詹事袁憲を尚書僕射とした。丁巳、大風が西北から起こり波が石頭城の淮渚に激しく打ち寄せ舟や車が漂没した。
- 冬十月己亥、皇子蕃を呉王に立てた。己酉、莫府山に幸し大規模な狩猟を行った。十一月丁卯、大政殿で日を決めて獄を訊すよう詔した。丙子、皇弟叔栄を新昌王、叔匡を太原王に立てた。
- 隋の文帝が周から禅を受けたとき隣好を篤くし、宣帝もまた侵掠を禁じなかったが、太建末に隋が大軍を興そうとしたとき宣帝の崩御を聞いて軍を退かせ、使者を弔いに送り敵国の礼を修め、書には姓名を書き頓首していた。しかし後主はますます驕り、書の末尾に「そちらの統内も、こちらの宇宙のごとく清泰であればよいが」と書いたため、隋の文帝は不快がり朝臣にこれを示した。清河公楊素は「主が辱められれば臣は再拝して罪を請う」と言い、襄邑公賀若弼も討伐を求めて奮起した。副使袁彦が隋に赴いた際、隋の文帝の姿をひそかに図に描いて持ち帰り、後主はこれを見て大いに驚き「私はこの人物に会いたくない」と言った。後主が間諜を送るたびに、隋の文帝は衣馬を与えて礼を尽くし送り返したが、後主はいっそう驕り、外難を予期せぬまま酒色に荒れ政事を疎かにした。左右には貂を珥にした嬖侫の臣五十人がおり、美貌で服飾巧みな婦人千余人が侍り、常に張貴妃・孔貴人ら八人と席を並べ、江總・孔範ら十人が侍宴して「狎客」と呼ばれた。八人の婦人に彩箋を畳ませ五言詩を作らせ、十人の客が代わる代わる唱和し、遅れれば罰酒を科すなど、君臣の酣飲は夕方から明け方まで続き常となっていた。
- 加えて宮室の造営を絶えず行い、江税・市税を種々徴収し、刑罰は酷烈で牢獄は常に満ち、覆舟山や蔣山の柏林では冬でも醴(甘酒)のような露が多く採れ、後主はこれを甘露の瑞祥と称した。前後して怪異が多く、老子と称する神が都下に現れ人と対話しながら姿を見せず吉凶をよく的中させ酒を勧めればたちまち飲み干し三、四年を経て去った。船の下から「明年乱れる」との声が聞こえ、探ると頭のない身長三尺の嬰児が見つかった。蔣山の鳥たちが両翼で胸を打ちながら「奈何帝奈何帝」と鳴いた。建鄴城が理由なく自壊し、青龍が建陽門の井から出て霧を吐き、赤地に黒白の毛が生え、大風が朱雀門を吹き飛ばし、臨平湖の旧く塞がれた水路が突然通じた。後主はまた黄衣の者が城を囲む夢を見、城を巡らせた橘の樹をすべて伐らせた。大蛇が真っ二つに分かれて頭と尾がそれぞれ逃げ去るのを見、夜中に酒を求めると忽然と血に変わり階から寝台にまで滴り、寝台の下から狐が現れ捕らえられず、祅(凶事の予兆)と見て自らを仏寺に奴として売り厄除けとした。都内の大皇仏寺に七層の塔を建てたが未完のまま火が出て石頭まで飛び火し多くの死者を出した。湘州から木材を採り正寝を造ろうとしたが、筏が牛渚磯に至って水中に沈み、後に漁師が海上に浮かぶのを見た。また齊雲観を起こしたが、国人は「齊雲観、宼来たりて際畔なし」と歌った。かつて北齊の末、諸省の官人がしきりに「省主」と称し、まもなく滅んだが、今また同じ称号が朝廷に流行し、識者はこれを「省(自らを省みる、あるいは省られる)」の兆と見た。
- 隋の文帝は僕射高熲に「私は百姓の父母たる者、どうして一衣帯水を理由に彼らを救わずにいられようか」と語り、大いに戦船を造らせ、これを秘するよう進言する者もあったが、文帝は「私は天誅を顕らかに行うのだ、何を秘する必要があろうか」と述べ、柹(木片)を江に流させ「もし彼が改めることができるなら、私も何を求めよう」と語った。梁の蕭瓛・蕭巖を受け入れたことでいよいよ怒りを深め、晉王楊広を元帥として八十総管を督させ討伐に向かわせ、璽書を送って後主の二十の悪を暴き、詔書三十万紙を書いて江外の諸軍にあまねく諭した。既に江浜の鎮戍が相次いで報告を上げたが、新任の湘州刺史施文慶・中書舎人沈客卿が機密を掌り抑えて奏上しなかった。
- はじめ蕭巖・蕭瓛が来たとき、徳教学士沈君道は殿前で長身の朱衣武冠の者が欄干から現れ腕を怒らせて「どうして叛いた蕭を受け入れ、人の事を誤らせるのか」と叫ぶ夢を見た。後主はこれを聞き二蕭を忌んで遠く配置し、巖を東揚州刺史、瓛を呉州刺史とし、領軍任忠に呉興郡を守らせ両州の連携とした。南平王嶷に江州、永嘉王彦に南徐州を鎮めさせたが、まもなく両王に明年の元会に赴くよう詔し、江防の船艦もすべて両王とともに都に還らせ威勢を示すこととした。これにより江中に一隻の闘船もなくなり、上流諸州の兵は楊素の軍に阻まれ都下に至れず、甲士なお十余万がありながら隋軍の来襲を聞いて後主は「王気はここにある。斉軍が三度、周軍が二度攻めて来たが皆敗れ沈んだ。今回来る者も自ら敗れよう」と言い、孔範も「渡江の理はない」と言い、酒宴・詩作を止めなかった。
禎明三年(589年)
- 春正月乙丑朔、朝会で大霧が四方を塞ぎ人の鼻に入り誰もが辛酸を覚えた。後主は昏睡し晡時(夕刻)まで目覚めなかった。この日、隋の将賀若弼が北道の広陵から渡江し、韓擒虎は横江から渡って分兵し朝に采石を襲い取り、姑熟を攻略して新林に進んだ。弼は京口を攻め下し、沿江の諸戍は風を望んでみな逃げた。弼は分兵して曲阿の要路を断ちつつ進んだ。丙寅、采石の戍主徐子建が異変を報告。戊辰、「犬羊が陵縦して郊畿を侵し、螽蠆(害虫)が毒を持つゆえ速やかに掃討すべし、朕みずから六師を率い八表を清めん」との詔を下し内外に戒厳を布いた。以後、蕭摩訶を皇畿大都督、樊猛を上流大都督、樊毅を下流大都督、司馬消難・施文慶をともに大監軍とし、賞格を重ねて分兵で要害を守らせ、僧尼道士もみな軍役に服させた。
- 庚午、賀若弼が南徐州を陥落。辛未、韓擒虎が南豫州を陥落。隋軍は南北両道から進み、辛巳、賀若弼は鍾山に進み白土岡東南に駐屯、衆軍は敗れ、弼は勝ちに乗じ宮城に迫り北掖門を焼いた。このとき韓擒虎は新林から石子岡に至り、鎮東大将軍任忠が降伏し擒虎を先導、朱雀航を経て宮城に迫り南掖門から入城した。文武百司はみな逃げ、ただ尚書僕射袁憲と後閤舎人夏侯公韻のみが側に留まった。憲は端座して待つよう帝に勧めたが、後主は「刃の下で交渉できまい、私には別に策がある」と言って井戸に逃げ込もうとし、二人が苦諫しても従わず、身をもって井を塞いだが後主は二人と争って井に入った。皇后沈氏は普段通りに居し、太子深は十五歳で閤を閉じて坐し舎人孔伯魚が侍していた。戍士が閤を叩いて入ると、深は落ち着いて「戦の途中でお疲れであろう」と労った。
- 軍人が井を覗いて呼びかけたが後主は応じず、石を投げ入れようとしたところ叫び声が聞こえ、縄で引き上げると意外な重さで、出てみると張貴妃・孔貴人とともに三人が乗っていた。隋の文帝はこれを聞いて大いに驚き、開府鮑宏は「東井は天文で秦(隋)に当たり、今の王都の所在。井に投じたのは天意ではないか」と語った。これに先立ち江東の童謡に多く歌われた王献之の「桃葉辞」――「桃葉また桃葉、江を渡るに檝を用いず、ただ渡れば苦しみなし、われ自ら迎え取らん」――があり、晉王楊広が六合に軍を進めたとき、その山の名が「桃葉」であったことから、果たして陳の船に乗って渡ったという。
- 丙戌、晉王広が台城に入り後主を東宮に送った。三月己巳、後主は王公百司とともに建鄴を発ち長安へ向かった。隋の文帝は京城の人家を分けて内外の準備を整え、使者を遣わして迎え労ったが、陳の人々は詠じ歌いながらその滅亡を忘れているかのようであった。使者が戻って「後主以下、大小の行列が五百里にわたり連なって絶えなかった」と奏上すると、隋の文帝は嘆じて「これほどとは」と言った。京師に至り宮殿の庭に陳の車服器物を並べ、後主を前に引き出し、前後二人の太子、諸父・諸弟・王に封じられた衆子ら二十八人、司空司馬消難、尚書令江總、僕射袁憲、驃騎蕭摩訶、護軍樊毅、中領軍魯広逹、鎮軍将軍任忠、吏部尚書姚察、侍中中書令蔡徴、左衛将軍樊猛ら尚書郎以上二百余人が並んだ。文帝は納言に詔を宣べさせ彼らを労い、次いで内史令に詔を宣べさせ後主を責めたが、後主は地に伏し息をひそめ答えることができなかった。ついに宥された。隋の文帝は陳の武・文・宣三帝の陵にそれぞれ五戸を給し守らせるよう詔した。
- はじめ武帝が即位した夜、奉朝請史普直が夢の中で天から人が降り数十人を率いて太極殿前に至り、北面して玉策を執り「陳氏五帝三十二年」と金字で記されているのを見た。後主が東宮にいたころ、婦人が突然現れ「畢」と唱え、一足の鳥が殿庭に集まり嘴で地に文字を描いて「独足高台に上る、盛草灰と変ず、わが家の在り処を知らんと欲せば、朱門まさに水を開くべし」と記した。解する者は「独足」とは後主が孤独に振る舞うこと、「盛草」とは荒廃を指すとした。隋は火徳(火運)を承け、草は火を得て灰となる、との解釈であった。京師に至って一族は都水台に館舎を与えられたが、これがまさに「水に当たる」ことにあたるという。また後主の名「叔寶」を反語にすると「少福」となり、これも滅亡の徴であったと言われる。
- 宥された後主は隋から厚遇を受け、しばしば引見され三品に準じる班に列した。宴に列するたびに悲しみを催すのを恐れて呉音の楽は奏でられなかった。後に監守者が「叔寶はもはや官位がないため、朝集に参列するたびに官号を一つ賜りたいと願っている」と奏上すると、隋の文帝は「叔寶には全く心肝がない」と言った。監守者はまた「叔寶は常に酔いしれ、めったに醒めることがない」と伝え、文帝は酒を節するよう命じたが、まもなく「その性のままにさせよ、そうでなくてどう日を過ごせようか」と言った。まもなく文帝が監守者に叔寶の嗜好を尋ねると「驢肉を好みます」と答え、酒量を問うと「子弟とともに一日一石飲みます」と答えた。文帝は大いに驚いた。
- 東巡で芒山に登った際、後主は宴に侍って詩を奉り「日月光天徳、山川壮帝居」と詠み、太平の御代に報いるため封禅の儀を行うべきと上表したが、隋の文帝は謙譲の詔を出して許さなかった。後に仁壽宮への行幸に随行し、常侍の宴に侍ったとき、文帝は「この者の身の破滅はまさに酒によるものだ、詩を作る力があるならなぜ安泰の時のことを考えないのか」と目して言った。かつて賀若弼が京口を渡ったとき、彼の地の者が密かに危急を告げたが、叔寶は酒を飲んでいて省みず、高熲が至った日にもその啓(上申文)はなお寝台の下に未開封のまま置かれていた――これもまた滑稽であり、天が陳を亡ぼす兆しであったといえる。かつて苻氏(前秦)が征服した国の主を厚遇したように、みだりに名誉を求めても天命に背けば天そのものにも背くことになる。隋の文帝は陳氏の子弟が多いことから京師に集めておくことを危惧し、諸州県に分置して毎年衣服を賜り安んじさせた。
- 後主は隋の仁壽四年十一月壬子(604年)、洛陽で薨じた。時に五十二歳。大将軍を贈られ長安県公に封じられ、諡を煬とし河南洛陽の芒山に葬られた。
史論
- 論じていう。陳の宣帝は器量が弘厚で人君の資質を備えていた。文帝(世祖)は後継の廃帝が仁弱であることを知り早くから太伯(周の太伯、位を譲った故事)のような心を抱いていたが、その心が遂げられぬまま委託されるところとなった。しかし業を継いでからは、領土を拓き境を開こうとしながら、徳は文帝に及ばず智は武功に及ばず、志は大きいのに実が伴わず、ついに呂梁の敗戦を招き江左の地は日ごとに縮小した。これはその由るところである。
- 後主は衰弱した国を継ぎ、滅亡へ向かう運命の中で刑政を整えることなく、加えて荒淫にふけった。三代の隆盛でさえ数十代を経て滅びるときはみな婦人によって敗れたというのに、まして狭小な陳が、明徳をもつ隣国(隋)を隔てて覆車の轍を踏み、末世の乱れをなお追い続けたのだから、数年を支えられただけでも幸いであったといえよう。忠義の情に動かされ井戸の隅で慟哭したとしても、それは麦秀(亡国を悲しむ詩)の深い悲しみを救うものではなく、ただ千年の後まで笑いの種となるに過ぎない。
- ああ、梁末の童謡に「憐れむべし巴馬の子、一日行くこと千里、馬上の郎を見ず、ただ黄塵の起こるを見る、黄塵は人の衣を汗す、皁莢(さいかち)相い料理す」とあった。王僧辯が滅んだとき、群臣がこの謡を奏上し「僧辯はもと巴馬に乗って侯景を撃った。馬上の郎とは王(僧辯の姓)の字を指し、塵とは陳のことだが、皁莢の意味は分からなかった」と言った。やがて陳が隋に滅ぼされると、論者は「江東では羖羊(黒羊)の角を皁莢と呼ぶ。隋の姓は楊、楊は羊に通じる。ついに隋に滅ぼされることを意味していたのだ」と説いた。かくして興亡の兆しには数(天命の定め)があるというべきであろう。