南史卷十一 列傳第一 后妃上
鬱林王の妃、諱は婧英、廬江灊の人、撫軍将軍何戢の娘。南郡王(のち鬱林王)蕭昭業に嫁ぎ、夫の即位に伴い皇后となったが素行に乱れが多く、寵臣楊珉之との醜聞により明帝の勅で珉之が誅殺され、夫の廃位とともに王妃に落とされた。
後宮位号の沿革
- 歴代王朝で内官(后妃の位階)の呼称は代替わりごとに変遷した。晋の武帝は漢魏の制を参考に、三夫人(貴嬪・夫人・貴人、位は三公に準ずる)、九嬪(淑妃・淑媛・淑儀・脩華・脩容・脩儀・婕妤・容華・充華、位は九卿に準ずる)、その下に美人・才人・中才人(位は千石以下)を置いた。宋の武帝は二才人を省いた。
- 各号の由来は、貴嬪は魏の文帝、夫人は魏の武帝が魏国を建てた際、貴人は漢の光武帝、淑妃は魏の明帝、淑媛は魏の文帝、淑儀・脩華は晋の武帝、脩容は魏の文帝、脩儀は魏の明帝、婕妤・容華は前漢の旧号、充華は晋の武帝、美人は漢の光武帝の制にそれぞれ由来する。
- 宋の孝武帝は孝建三年(456年)、夫人を省いて貴妃(位は相国に準ずる)を新設し、貴嬪(丞相に準ずる)・貴人(三司に準ずる)とあわせて三夫人とした。さらに昭儀・昭容・昭華を脩華・脩儀・脩容に代えて置き、中才人・充衣を散位とした。昭儀は漢の元帝、昭容は孝武帝、昭華は魏の明帝、中才人は晋の武帝、充衣は前漢の旧制に由来する。
- 明帝の泰始二年(466年)、淑妃・昭華・中才人・充衣を省いて脩華・脩儀・脩容・才人・良人を復し、三年にはさらに貴人を省いて貴姬を三夫人の一に加え、昭華・淑容・承徽・列榮を増設した。以後、淑媛・淑儀・淑容・昭華・昭儀・昭容・脩華・脩儀・脩容を九嬪、婕妤・容華・充華・承徽・列榮を五職、美人・才人・良人を散役とした。
- 齊の高帝は建元元年(479年)、貴嬪・夫人・貴人を三夫人、脩華・脩儀・脩容・淑妃・淑媛・淑儀・婕妤・容華・充華を九嬪、美人・中才人・才人を散職とし、三年には太子宮に良娣・保林・才人の三内職を置いた。永明元年(483年)には貴妃・淑妃に金章紫綬を加え、七年に昭容を九嬪に復した。
- 梁の武帝は貴妃・貴嬪・貴姬を三夫人、淑媛・淑儀・淑容・昭華・昭儀・昭容・脩華・脩儀・脩容を九嬪、婕妤・容華・充華・承徽・列榮を五職、美人・才人・良人を三職とし、東宮に良娣・保林の二職を置いた。簡文帝以降は動乱により制度の整備が滞り、陳の武帝も質素を旨として後宮の員数は少なかった。文帝天嘉年間(560-566年)以降に位を備えたが、基本は梁の旧制を踏襲し、宣帝・後主も改変しなかった。
宋孝穆趙皇后――孝皇帝の妃
- 諱は安宗、下邳の僮の人。父は趙裔、平原太守。
- 東晋の穆帝升平四年(360年)、孝皇帝(宋の高祖の父)に嫁ぎ、武帝を産んで丹徒の官舎で没した。晋陵丹徒県東郷練璧里の雩山に葬られた。
- 宋の建国後、追号・諡を贈られ、陵は興寧と号した。永初二年(421年)、父裔に光禄大夫・金章紫綬を追贈し、命婦の孫氏を豫章郡建昌県君に封じ、裔を臨賀県侯に追封した。
- 裔の子倫之には別伝がある。
孝懿蕭皇后――孝皇帝の継室
- 諱は文壽、蘭陵の人。父は蕭卓、字は子略、洮陽令。
- 孝皇帝の継室となり、長沙景王道憐・臨川烈武王道規を産んだ。義熙七年(411年)豫章公太夫人を拝命、武帝が宋公・宋王となると太妃・太后の号を加えられた。
- 武帝即位後は皇太后として宣訓宮に居り、少帝即位で太皇太后に進んだ。景平元年(423年)、顕陽殿にて八十一歳で崩じた。
- 遺令で、漢代の帝后陵は皆別所に葬られたのに倣い塋域内に別の壙を設けるよう命じたが、実際は開いた別壙が興寧陵と合墳となった。武帝の微賤時代の貧窮を思い、太后死後は孝皇の陵に祔葬しないとの遺旨だったため、遺令のとおり別葬とされた。
- 父卓は趙裔とともに金紫光禄大夫を追贈され、臨封陽県侯。妻の下邳趙氏は呉郡寿昌県君に封じられた。卓の子源之は爵を襲い、源之の事績は子の思話伝にある。
武敬臧皇后――武帝の妃
- 諱は愛親、東莞の人。祖父臧汪は尚書郎、父臧儁は郡功曹。
- 武帝に嫁ぎ、会稽宣長公主興弟を産んだ。武帝の倹約な生き方に沿い、恭謹に仕えた。
- 義熙四年(408年)正月甲子、東城で没し、豫章公夫人を追贈され丹徒に葬られた。武帝臨終の遺詔で建鄴への改葬が命じられ、法駕を備えて梓宮を初寧陵に祔葬した。
- 宋建国後、父儁に金紫光禄大夫を追贈、妻の高密叔孫氏を永陵平郷君に封じた。儁の子燾・熹にはそれぞれ別伝がある。
武帝張夫人――少帝の生母
- 諱は不詳、出自も不明。少帝および義興恭長公主惠媛を産んだ。
- 永初元年(420年)夫人を拝命。少帝即位後、皇太后の尊号を上られ、宮を永楽と号した。
- 少帝廃位後は璽紱を返上して呉郡に随従、文帝元嘉元年(424年)営陽国太妃を拝命、二年(425年)に薨じた。
文章胡太后――文帝の生母
- 諱は道女、淮南の人。義熙初年に武帝が娶り、文帝を産んで五年後に譴責され賜死、丹徒に葬られた。
- 武帝即位後、婕妤を追贈。文帝即位後、章皇太后の尊号を上られ、陵を熙寧と号し、建鄴に廟を立てた。
少帝司馬皇后――少帝の妃
- 諱は茂英、晋の恭帝の娘。初め海鹽公主に封じられ、少帝(当時は公子)に嫁いだ。
- 宋の建国後、皇太子妃を拝命、少帝即位で皇后。元嘉元年(424年)営陽王妃に降格、のち南豊王太妃となり、十六年(439年)に薨じた。
文元袁皇后――文帝の妃
- 諱は齊媯、陳郡陽夏の人。左光禄大夫袁湛之の庶女。母は卑賤の出。
- 五、六歳で挙げられ育ち、文帝に嫁いで宜都王妃を拝命、子の劭・東陽献公主英娥を産んだ。文帝の恩寵は厚かったが、袁氏は貧しく、后は上(文帝)に銭帛を求めては実家を助けていた。
- のちに潘淑妃が寵を得て後宮の求めは何でも叶うと言われ、后がそれを疑い潘淑妃を通じて三十万銭を求めたところすぐに得られたため、上(文帝)への不信を恚み、疾と称して以後会わなくなり、憤恚のあまり病を得た。
- 元嘉十七年(440年)、病篤くなり文帝が涙して問うたが、后は被を引いて顔を覆ったまま顕陽殿で崩じた。文帝は深く悼み、永嘉太守だった顔延之に哀策文を作らせた。有司の奏で宣皇后と諡すべきところ、詔して元と改めた。
- 后は子の劭を産んだ際、その容貌が尋常でなく国を破り家を滅ぼす相だとして自ら殺そうとしたが、文帝が慌てて幔で禁じ止めた。
- 后の死後、しばしば霊験があったと伝わる。明帝の生母沈美人が無実の罪で死を賜ろうとした際、生前の后の居所であった徽音殿の戸が独りでに開き、これにより美人は赦された。
- 大明五年(461年)、孝武帝は后の外祖の親族に爵位を追贈し、趙・蕭・臧・袁の各家の墓に塋戸を給した。父湛之には別伝がある。
潘淑妃――文帝の寵姫(附伝)
- 容貌によって進み、当初は寵を得なかったが、羊車で回る文帝を惹きつけるため部屋を飾り、密かに地面に塩水を撒かせた。羊が地を舐めて去らないのを見た帝が「羊すら汝のために足を止めるのに人はなおさらだ」と言い、以後寵愛を独占した。
孝武昭路太后――孝武帝の生母
- 諱は惠男、丹陽建康の人。容色により後宮に入り、孝武帝を産んで淑媛を拝命。年長じて寵を失い、孝武帝の藩邸出向に随従した。
- 孝武帝即位後、太后の尊号を上られ宮を崇憲と号し顕陽殿に居った。閨房での礼遇は薄く、御幸の跡が太后の房に残ることもあり、宮中で醜聞が絶えなかったが真偽は不明。
- 孝建二年(455年)、父興之に散騎常侍を追贈。大明四年(460年)、太后の甥・撫軍参軍瓊之が上表し、有司の奏で瓊之の父道慶に給事中、瓊之と弟休之・茂之にも顕職が与えられた。太后は政事に頗る関与し、瓊之らへの賜与や器服は皇子に匹敵した。
- 大明五年、南豫州巡幸に太后も随行。廃帝即位で太皇太后、明帝即位で崇憲太后と号した。
- 明帝は幼くして生母を失い太后に養われたが、義嘉の変で太后が事の成功を心中喜んだことを知り、明帝を招いて酒に毒を仕込んで進めようとしたところ、明帝が異変に気付き太后に酒を勧めた。太后はその日のうちに崩じ、事は秘され喪儀は東宮で行われ崇憲宮と題された。
- 詔して斉衰三月の喪に服し、昭皇太后と諡し孝武陵の東南、脩寧陵に葬った。のち晋安王子勛の乱の際、巫者の言により陵を開いて梓宮を移し厭勝を行ったため修復が乱雑になった。泰始四年(468年)、明帝はこれを憂い改葬を命じた。
- 廃帝景和年間、興之に侍中・金紫光禄大夫、諡孝侯を追贈。道慶にも光禄大夫・開府儀同三司、諡敬侯を追贈し、道慶の娘(皇后)の縁で休之は侍中となった。
明宣沈太后――明帝の生母
- 諱は容姫、出自不明。文帝の美人として明帝を産み、婕妤を拝命。元嘉三十年(453年)に没し建康の莫府山に葬られた。
- 孝武帝即位後、湘東国太妃を追贈。明帝即位後、皇太后の尊号を上られ、諡は宣、陵号は崇寧。
孝武文穆王皇后――孝武帝の妃
- 諱は憲嫄、琅邪臨沂の人。元嘉二十年(443年)武陵王妃を拝命、廃帝・豫章王子尚ほか多数の子女を産んだ。
- 孝武帝在藩時より寵愛され、即位後は皇后。大明四年(460年)、后は六宮を率いて西郊で親蚕の礼を行い、皇太后が観礼、妃主以下に恩賜があった。
- 廃帝即位後、皇太后として宮を永訓と号したが、その年のうちに含章殿で崩じ、景寧陵に祔葬された。父偃には別伝がある。
殷淑儀――孝武帝の寵姫(附伝)
- 南郡王義宣の娘。麗色巧笑で、義宣の敗死後、孝武帝が密かに引き取り殷氏を仮姓として寵愛したが、漏らした側近の多くが死に処され、当時その出自を知る者は少なかった。
- 薨じた後も帝はしばしば姿を見たいと望み、蓋を通した棺を作らせて開けては屍を見た。日を重ねても形色が変わらなかったという。
- 貴妃・諡宣を追贈され、葬送には輼輬車・虎賁班剣・鑾輅九旒・黄屋左纛などが与えられた。帝自ら南掖門で喪車を見送り、悲しみのあまり政務も廃するほどであった。
- 有司に「仲子は魯の惠公の元嫡ではないが別宮を得た故事」を奏させ、都下に別廟を立てた。巫者を通じて貴妃の姿を見たとされ、謝荘に哀策文を作らせて帝が読んで涙し、都下で書写されて紙墨が貴んだという。
- 淑儀は殷琰の家人で、義宣家に入りその敗死後に宮に入ったとも伝わる。
前廢帝何皇后――前廃帝の妃
- 諱は令婉、廬江灊の人。孝建三年(456年)皇太子妃を納れられ、大明五年(461年)東宮徽光殿で薨じ、献妃と諡された。廃帝即位で献皇后に追崇、明帝即位で廃帝と合葬され龍山の北に葬られた。
- 父何瑀、字は幼玉、晋の尚書左僕射何澄の曾孫。瑀は武帝の少女豫康長公主(諱次男、先に徐喬に嫁いだ)を娶った。公主は容色に優れ聡敏で、文帝の世に礼遇が厚かった。
- 瑀は当時、平昌の孟霊休・東海の何朂らと輿馬を競うほど豪奢で、公主との仲は睦まじく、何氏一族も皆その恩恵を受けた。瑀は右衛将軍に至り、公主薨去の際に瑀の墓が開かれた。孝武帝は瑀に金紫光禄大夫を追贈。
- 瑀の子邁は文帝第十女新蔡公主(諱英媚)を娶り、南済陰太守に至った。廃帝は公主を後宮に納れ、偽って薨じたと称し婢を代わりに葬らせた。邁は異図を疑われ、自らも同志を集めて廃立を図ろうとしたが発覚し誅殺された。明帝即位後、建寧県侯を追封された。
- 瑀の兄の子何衍は性が躁動で、官途を急いで求め、侍中を得られず怨罵して賜死された。
明恭王皇后――明帝の妃
- 諱は貞風、琅邪臨沂の人。初め淮陽王妃、明帝が改封されると湘東王妃となり、晋陵長公主伯姒・建安長公主伯媛を産んだ。明帝即位で皇后。
- ある時、宮中に婦人を裸にして集め笑いものにする宴が催されたが、后は扇で顔を覆い一言も発しなかった。帝が怒って咎めると、后は「楽しみの方法は他にもある。姉妹が集まって婦人の裸形を見て笑うようなことは、我が実家の楽しみ方とは異なる」と答え、帝はますます怒って退席させた。
- 后の兄で揚州刺史の景文が従舅の陳郡謝綽に「后は家では弱々しい婦人であったが、これほど剛正だったとは」と語ったという。
- 廃帝即位で皇太后、宮を弘訓と号した。廃帝の乱行を諫めても改まらず、帝は后が贈った玉柄の毛扇を嫌い毒殺を図ったが、側近に「そんなことをすれば陛下は孝子と呼ばれても自由な出入りができなくなる」と止められ思いとどまった。
- 順帝即位後、斉の高帝が権を執ると宗室の劉晃・劉綽・卜伯興らの謀反に太后も関わりがあったとされる。順帝の禅譲後、丹陽宮に移り汝陰王太后を拝命、建元元年(479年)に薨じ、宋の礼に准じて葬られた。父僧朗には別伝がある。
後廢帝陳太妃――後廃帝の生母
- 諱は妙登、丹陽建康の屠家の娘。孝武帝が容色ある民間の女子を捜させた際、太妃の家は建康県内の貧しい草屋にあり、帝自ら見て銭三万を賜り瓦屋を建てさせた。当時十二、三歳であった太妃を尉が見て美貌を帝に報告し、宮に迎え入れられた。
- 当初は太后の房に置かれ、二年ほど呼ばれず、のち幸を得て太后の口添えで明帝に賜られ寵を得たが一年で衰え、李道児に下賜されたのち再び迎えられ廃帝を産んだ。世間では明帝を不能とし廃帝を「李氏の子」と呼び、廃帝自らも「李将軍」「李統」と称した。
- 明帝即位で貴妃を拝命、皇太子の位に准じ、廃帝践阼で皇太妃の尊号を受け、晋の孝武李太妃の故事に倣った輿服を用い、宮を弘化と号し家令を置いた。昇明初年、蒼梧王太妃に降格した。
後廢帝江皇后――後廃帝の妃
- 諱は簡珪、済陽考城の人。泰始五年(469年)、明帝が太子妃を占わせたところ卜筮で吉と出た江氏を選んだ。江氏は名族だが后の父祖はすでに亡く弟も幼少であった。
- 六年(470年)皇太子妃を拝命。朝士・州郡に献物を促し多くは百金相当を献じる中、始興太守孫奉伯のみ琴と書のみを献じ、帝は激怒し薬を封じて賜死を命じたが、のち許した。
- 太子即位で皇后となるが、帝の廃位で蒼梧王妃に降格。祖父江智深には別伝がある。
順陳太妃――順帝の生母
- 諱は法容、丹陽建康の人。明帝は晩年肥満により内御できず、弟たちの姫で懐妊した者を宮に取り入れ、生まれた男子の母を殺してその子を寵妃に育てさせた。
- 順帝は桂陽王休範の子で、陳昭華を母として育てられた。明帝崩御後、昭華は安成王太妃を拝命、順帝即位で皇太妃に進んだが、禅位で皇太妃の号を失った。
順謝皇后――順帝の妃
- 諱は梵境、陳郡陽夏の人。右光禄大夫謝荘之の孫、父は謝颺、車騎功曹。昇明二年(478年)皇后に立てられ、順帝の禅位で汝陰王妃に降格。祖父謝荘には別伝がある。
齊宣孝陳皇后――蕭道成(高帝)の生母
- 諱は道止、臨淮東陽の人、魏の司徒陳矯の後裔。家は貧しく、若くして機織りに励んだが人が労苦を憐れんでも改めなかった。
- 宣帝(蕭承之)に嫁ぎ、庶生の衡陽元王道度・始安貞王道生に続き高帝(蕭道成)を産んだ。高帝が二歳の頃、乳が出ず困っていた際、后は夢で人から麻粥の入った甌を二つ与えられ、目覚めると乳が豊かに出たという。
- 宣帝が外任中、后は家に留まり、相者に「貴子を持ちながら見ぬままとなろう」と言われ、后は三子のうち高帝の幼名を呼んで「まさにこの子であろう」と嘆じた。
- 宣帝没後、后は自ら勤め、婢の過ちも咎めなかった。高帝は仕官しても家業貧しく建康令であった頃、明帝らが冬に綿入れも無い中、后は自らの膳から肉を省いて「私にはこれで十分」と言ったという。
- 后は県舎で没し、昇明二年(478年)竟陵公国太夫人を追贈、斉建国で斉国太妃、建元元年(479年)孝皇后を追尊、外祖父肇之に金紫光禄大夫・諡敬侯を追贈、母胡氏を永昌県靖君とした。
- 永明九年(491年)、太廟の四時祭で宣皇帝には麺餅・鴨□、孝皇后には笋・鴨卵・脯・醤炙・白肉、高皇帝には肉膾・葅羹、昭皇后には茗粣・炙魚をそれぞれ薦めるよう詔した。いずれも生前好んだ品であった。
高昭劉皇后――高帝の妃
- 諱は智容、広陵の人。祖父劉玄之・父劉夀之はともに員外郎。母桓氏が玉勝を呑む夢を見て后を生んだ際、室に紫光が満ちたことを夀之に告げると、夀之は「男でないのが惜しい」と言い、桓氏は「女でも家を興すに足りる」と笑って答えた。
- 后は寝所で羽蓋が上を覆う姿を家人にたびたび見られた。十七歳の時、裴方明の子との婚約が定まっていたが、后の夢に龍旗豹尾を伴う迎車が現れ、これを喜んで従ったところ、裴氏との婚儀は成らず、結局高帝(蕭道成)に嫁いだ。
- 厳整で礼法に則り、太子(蕭賾)と豫章王嶷を産んだ。太子懐妊中、里帰りした際に家の祭祀で夜明けを過ごし忙しく祭食を整える中、后が胡麻を炒めるのを手伝うと、薪が未着火のうちに自然に火が付いたという。
- 宋の泰豫元年(472年)に没し、先帝の墓のそば(泰安陵)に葬られた。墓工が墓を掘り始めると白兎が跳ね出て見失い、墳墓が完成すると兎が戻ってその上に棲んだという。
- 昇明二年(478年)竟陵公国夫人、三年(479年)斉国妃印綬を追贈。斉建元元年、昭皇后と尊諡。二年、父夀之に金紫光禄大夫、母桓氏に上虞都郷君を追贈。
武穆裴皇后――武帝(蕭賾)の妃
- 諱は惠昭、河東聞喜の人。祖父裴封之は給事中、父裴璣之は左軍参軍。
- 若くして豫章王妃庾氏と姒娣の間柄にあった。庾氏は女工に励み高昭后(劉皇后)に恭謹に仕えたが、后はそれに及ばず舅姑の重んじるところとならず、武帝からも薄遇された。
- 性は剛厳で、竟陵王子良の妃袁氏が布衣の頃に過ちを犯した際、后は罰を加えたという。
- 昇明三年(479年)斉世子妃、建元元年(479年)皇太子妃、二年(480年)薨じ穆妃と諡され休安陵に葬られた。
- 葬儀に際し石誌を立てる議が出たが、王儉は「石誌は礼に出典が無く、宋の元嘉年間に顔延之が王球のために作ったのが素族に銘策の無かったため行の記録として始めたもので、儲妃の重礼にはそぐわず、既に哀策があれば石誌は不要」として退けた。
- 武帝即位後、皇后を追尊。父璣之に金紫光禄大夫、母檀氏に余杭広昌郷元君を追贈。
- 顕陽・昭陽の二殿はもと太后・皇后の居所だが、永明中は太后・皇后が不在で、羊貴嬪が昭陽殿西、范貴妃が昭陽殿東、寵姫荀昭華が鳳華柏殿に居った。寿昌画殿南閣には白鷺鼓吹二部を置き、乾光殿東西頭には鐘磬を両廂に置き、いずれも宴楽の場であった。
- 帝はしばしば苑囿に遊幸し宮人を後車に載せ、宮内は端門の鼓漏の音も聞こえぬほど深く隠れていた。景陽楼上に鐘を置き五鼓・三鼓に応じて鳴らし、宮人はこれを聞いて早起きし化粧した。帝がしばしば琅邪城へ行幸する際、宮人は早発し湖北埭で鶏の初鳴きを聞くため、この道は「鶏鳴埭」と呼ばれた。
- 呉郡の韓蘭英は文才があり、宋の孝武帝の時に中興賦を献じて入宮、宋の明帝の時は宮中の職僚となり、斉の武帝は博士として六宮に書学を教えさせ、その老練博識により「韓公」と呼ばれた。
文安王皇后――文惠太子(のち追尊文帝)の妃
- 諱は宝明、琅邪臨沂の人。祖父王韶之は呉興太守、父王曄之は太宰祭酒。
- 宋の世に高帝が文惠太子のために納れ、建元元年(479年)南郡王妃、四年(482年)皇太子妃となったが寵を得ず、太子宮人が新しい衣裳や首飾りを整える中、后の牀帷は古い釵鑷十余枚のままであった。
- 永明十一年(493年)皇太孫太妃、鬱林王即位で皇太后(宣徳太后)を拝命し、宮に男の左右三十人を置いた(これは前代に無かったこと)。父曄之に金紫光禄大夫、母桓氏に豊安県君を追贈された。
- 明帝即位後は鄱陽王の旧邸に出居し宣徳宮と号した。永元三年(501年)梁の武帝が建鄴を平定すると宮に迎え入れられ、称制を行った。禅位後は外宮に退き、梁天監十一年(512年)薨じ崇安陵に葬られ安后と諡された。祖父韶之には別伝がある。
鬱林王何妃――鬱林王の妃
- 諱は婧英、廬江灊の人、撫軍将軍何戢の娘。当初南郡王妃に納れられる際、文惠太子は戢に男子が無く門地が孤弱であることを嫌ったが、王儉は「南郡王妃は将来の外戚となる。高貴な家柄なら強い門地でなくともよい」と説き婚儀が成った。
- 永明三年(485年)婚儀成立。妃は淫乱な性で、南郡王が交わる無頼の徒の中から容姿の良い者を選んで密通した。特に南郡王の侍書人馬澄を寵愛し、腕相撲で戯れた。
- 澄はもと剡県の寒人で、南岸で人家の娘を無理に奪おうとして秣陵県に捕らえられたが南郡王の口添えで放免されたことがあり、また姨の娘を妾に求めて建康令沈徽孚に訴えられた際も強弁したという。
- 十一年(493年)皇太孫妃。女巫の子楊珉之という美貌の男とも夫婦のように同衾した。太孫即位で皇后。后の嫡母劉氏を高昌県都郷君、生母宋氏を余杭広昌郷君に封じた。
- ある日、后が鏡を持とうとして何の原因もなく地に落ちたことがあり、その冬太后と同日に太廟に謁した。楊珉之は帝の寵臣として近侍していたが、明帝が輔政すると王晏・徐孝嗣・王広之らが誅殺を求めても許されず、蕭諶・坦之が重ねて求めた際も、皇后は帝と同席し涙して「楊郎は年若く罪も無いのになぜ殺すのか」と訴えた。
- 坦之が帝に「これは別の意味がある、人に聞かせられない」と耳打ちし、帝が皇后(阿奴)を一時退けている間に、坦之は「世間では楊珉之と皇后に不倫の噂が広がっている」と告げ、帝はやむなく勅を下し、坦之は明帝に報告し建康での処刑を命じた。のち帝が赦す勅を出したが、珉之はすでに死んでいた。
- 后はその後も帝と親密で、帝は后の親族を宮に迎え入れ数十百万銭を賜与し、武帝の曜霊殿を后の家族の住まいとした。帝廃位後、后も王妃に貶された。父戢には別伝がある。
海陵王王妃――海陵王の妃
- 諱は韶明、琅邪臨沂の人、太常王慈の娘。永明八年(490年)臨沂公夫人、鬱林王即位で新安王妃、延興元年(494年)皇后となるがその年のうちに海陵王妃に降格した。父慈には別伝がある。
明敬劉皇后――明帝の妃
- 諱は惠端、彭城の人、光禄大夫劉道弘の孫。高帝が明帝のために娶らせ、建元三年(481年)西昌侯夫人を拝命、永明七年(489年)没し江乗県張山に葬られた。
- 延興元年宣城王妃を追贈、明帝即位後は敬皇后を追尊、父の通直郎劉景猷に金紫光禄大夫、母王氏に平陽郷君を追贈。明帝崩御後、興安陵に改葬合祀された。
東昏褚皇后――東昏侯の妃
- 諱は令璩、河南陽翟の人、太常褚澄之の娘。建武二年(495年)皇太子妃を納れられるも寵を得ず、帝は側近に「山陰公主のような女性を得られれば思い残すことはない」と語った(山陰公主は明帝の長女で、のちに帝と密通した)。
- 翌年、后は敬后廟に謁し、東昏即位で皇后となる。帝は潘妃を寵愛し后は疎まれ、黄淑儀が太子誦を産んで没した。東昏廃位後、后と誦はともに庶人に落とされた。父澄には別伝がある。
和王皇后――和帝の妃
- 諱は蕣華、琅邪臨沂の人、太尉王儉の孫。初め随王妃、中興元年(501年)皇后となるが帝の禅位で王妃に降格。祖父儉には別伝がある。