南史卷七 梁本紀中第七 梁髙祖武皇帝(蕭衍・字叔達)

梁の高祖武皇帝、諱は衍(457–549年)。治世後半は仏教への傾倒を強め同泰寺への行幸・捨身を繰り返し、大同・太清年間には北朝の内紛に乗じて版図を広げたが、晩年に東魏の降将侯景の反乱(侯景の乱)を招いて建康を包囲され、幽閉の末に崩御した。

年表(12件)

普通元年(520年)

  • 正月乙亥朔、大赦・改元。丙子、日食。己夘、司徒臨川王宏を太尉・揚州刺史、金紫光禄大夫王份を尚書左僕射とする。庚子、扶南・高麗等国が朝貢。二月癸丑、高麗王の嗣子安を寧東将軍・高麗王とする。三月、滑国が朝貢。夏四月、河南国が朝貢。秋七月己夘、江淮海が同時に氾濫。九月乙亥、東方に星が現れ光は火のように燦爛とした。この年、魏の正光元年。

普通二年(521年)

  • 正月辛巳、南郊を祀り孤独園を設置し孤幼を救済する詔。戊子、大赦。二月辛丑、明堂を祀る。三月庚寅、大雪、平地三尺。夏四月乙夘、南北郊を改作。「東作の秩序は南に在るべきでない」として震(東)の方角に千畝の藉田を設け、東郊外十五里に藉田を移す。五月癸夘、琬琰殿が火災、後宮の屋三千間に延焼。閏月丁巳、瑞祥の慶賀を停止する詔。六月丁夘、義州刺史文僧明が州ごと魏に帰属。秋七月丁酉、假大匠卿裴邃が節を仮せられ諸軍を督して魏を侵攻。甲寅、魏の荆州刺史桓叔興が衆を率いて降る。八月丁亥、始平郡石鼓村で地中に自然に井戸ができ、方六尺六寸・深さ三十二丈に及んだ。冬十一月、百済・新羅国が朝貢。十二月戊辰、鎮東大将軍百済王餘隆を寧東大将軍とする。

普通三年(522年)

  • 正月庚子、呉郡太守王暕を尚書左僕射とする。庚戌、都下で地震。三月乙夘、巴陵王蕭屏が薨去。夏四月丁夘、汝陰王劉端が薨去。五月壬辰朔、日食。癸巳、大赦、公卿百僚に上封事を命じ、連率・郡国に賢良方正・直言の士の推挙を命じる詔。秋八月甲子、婆利・白題国が朝貢。冬十一月甲申、開府儀同三司始興王憺が薨去。

普通四年(523年)

  • 正月辛夘、南郊を祀り大赦。辛亥、明堂を祀る。二月乙亥、耕藉田、孝弟力田に爵一級を賜い、預耕の官に酒を賜う。冬十月庚午、中衛将軍袁昂を尚書令とし本号のまま開府儀同三司とする。十一月癸未朔、日食。甲辰、尚書左僕射王暕が卒去。十二月戊午、給事中王子雲の議により初めて鉄銭を鋳造。狼牙修国が朝貢。

普通五年(524年)

  • 夏六月乙酉、二頭の龍が曲阿の王陂で闘い、西へ移動して建陵城に至り、経路の樹木を数十丈にわたり倒し折った。庚子、員外散騎常侍元樹を平北将軍・北青兖二州刺史とし衆を率いて魏を侵攻。

普通六年(525年)

  • 正月辛亥、南郊を祀り大赦。庚申、魏の徐州刺史元法僧が彭城を挙げて降る。前年来北侵の諸軍が各地で戦果を挙げていた。甲戌、元法僧を司空・始安郡王とする。二月辛巳、法僧を宋王に改封。三月丙午、新附の人の賦役免除・詿誤罪の一律不問を布告。夏五月己酉、宿豫堰を修築、済陰に曹公堰を修築。壬子、中護軍夏侯亶に寿陽の諸軍を督させ魏を侵攻。六月庚辰、豫章王綜が魏に奔り、魏は彭城を回復。秋七月壬戌、大赦。冬十二月壬辰、都下で地震。この年、魏の孝昌元年。

普通七年(526年)

  • 正月辛丑朔、死罪以下を赦す。夏四月乙酉、太尉臨川王宏が薨去。南州津に校尉を改置し奉秩を増加、群臣に清吏の推挙を命じる詔。秋九月己酉、荆州刺史鄱陽王恢が薨去。冬十一月庚辰、丁貴嬪が薨去、大赦。この年、河南・高麗・林邑・滑国が朝貢。

大通元年(527年)

  • 正月乙丑、尚書右僕射徐勉を尚書左僕射とし、百官の俸禄を今後現銭で長給する詔。辛未、南郊を祀り、流亡者の宅業復帰・五年間の賦役免除、貧家の三調免除、孝弟力田に爵一級を賜う詔。この月、司州刺史夏侯夔が三関に進軍しことごとく克つ。帝が創建した同泰寺に対し大通門を開き(反語で「同泰」に協うとし)、以後の講義はこの門を用いた。三月辛未、同泰寺に幸して捨身、甲戌還宮、大赦・改元して寺と門の名にちなみ大通とする。夏五月丙寅、成景雋が魏の臨潼・竹邑を克す。冬十月庚戌、魏の東豫州刺史元慶和が渦陽ごと内属。甲寅、東豫州を曲赦。十一月丁夘、中護軍蕭藻を都督として魏を侵攻させ渦陽に鎮した。この年、林邑・師子・高麗等国が朝貢。

大通二年(528年)

  • 正月乙酉、蠕蠕国が朝貢。二月、寒山堰を築く。癸丑、魏の孝明皇帝が崩御。夏四月戊戌、魏の爾朱栄が孝荘帝を推戴、庚子、栄は幼主と太后胡氏を殺害。辛丑、魏の郢州刺史元願達が義陽を挙げて降り、楽平王に封ぜられた。この時魏は大乱にあり、北海王顥・臨淮王彧・汝南王悦が相次いで来奔、北青州刺史元儁・南荆州刺史李志も地を挙げて降った。冬十月丁亥、魏の北海王顥を魏主とし、東宮直閤将軍陳慶之に護送させ北へ送り返す。魏の豫州刺史鄧献が地を挙げて降る。この年、魏の武泰元年、改めて建義、また永安と改元された。

中大通元年(529年)

  • 正月辛酉、南郊を祀り大赦、孝悌力田に爵一級を賜う。辛巳、明堂を祀る。夏四月癸巳、陳慶之が魏の梁城を攻略、進んで考城を屠り魏の済陰王暉業を捕らえる。五月癸酉、虎牢を陥落。魏の孝荘帝は河北へ出奔、乙亥、元顥が京師に入り建武と僭号。六月壬午、永興公主の重病により大赦(公主の希望による)。この月、都下で疫病が甚だしく流行、帝は重雲殿で百姓のため救苦斎を設け自ら祈祷。閏月、護軍将軍南康王績が薨去。己夘、魏の将爾朱栄が元顥を攻め殺し京師が反正。秋九月辛巳、朱雀航の華表が災に遭う。癸巳、同泰寺に幸し四部無遮大会を設け、帝は御服を脱ぎ法衣を纏い清浄大捨を行い、身を以て私人の役に服し瓦器・小車で暮らした。甲午、講堂の法坐に登り四部大衆に涅槃経を講じた。癸夘、群臣が銭一億万を以て「皇帝菩薩」の大捨を贖おうとしたが僧衆は黙許にとどめた。乙巳、百辟が寺の東門に赴き復位を三たび請い、帝は三たび答書し頓首を称した。冬十月己酉、また四部無遮大会を設け、道俗五万余人が参会、会畢して帝は金輅で還宮、太極殿に御して大赦・改元。十一月戊子、魏の巴州刺史厳始欣が城を挙げて降る。この年、盤盤・蠕蠕国が朝貢。

中大通二年(530年)

  • 夏四月癸丑、同泰寺に幸し平等会を設ける。庚申、大雨雹。六月丁巳、魏の汝南王悦を北に送り返し魏主とし、庚申、魏の尚書左僕射范遵を司州牧として悦に随い北侵させる。この月、林邑・扶南国が朝貢。秋八月庚戌、徳陽堂に幸し魏主元悦を送る。会稽郡県に山賊が出没、九月壬午、超武将軍湛海珍を仮節として討伐に当たらせる。この年、魏の荘帝が権臣爾朱栄を殺害、栄の党が魏の長広王曄を主に奉じて孝荘帝を殺す、年号を建明とした。

中大通三年(531年)

  • 正月辛巳、南郊を祀り大赦。丙申、魏の尚書僕射鄭元護を征北大将軍とする。二月辛丑、明堂を祀る。夏四月己巳、皇太子統が薨去。六月癸丑、昭明太子の子で華容公の歓を豫章郡王、枝江公の誉を河東郡王、曲江公の詧を岳陽郡王に立てる。この月、丹丹国が朝貢。秋七月乙亥、晋安王綱を皇太子に立て、大赦・父を継ぐ者や忠孝文武清勤の士に爵一級を賜う。庚寅、宗戚で服属ある者に湯沐の郷亭侯を逺近に応じて賜う詔。壬辰、吏部尚書何敬容を尚書右僕射とする。九月、狼牙修国が朝貢。この秋、呉興で野生の稲が生じ飢民が救われた。冬十月己酉、帝は同泰寺に幸し法座に登り四部衆に涅槃経を講じ乙夘に終わる。前楽山県侯蕭正則が罪あって流徙されていたが亡命者を誘い広州を寇そうとし討平された。十一月乙未、帝は同泰寺で般若経を講じ十二月辛丑に終わる。この年、魏の爾朱兆が主曄を廃し節閔皇帝を奉じ、建明二年を普泰元年と改元。また魏の渤海王高歓が信都で挙兵し、渤海太守朗を主に別立、普泰元年を中興と改元した。

中大通四年(532年)

  • 正月丙寅、開府儀同三司南平王偉を大司馬、司空宋王元法僧を太尉尚書令、開府儀同三司袁昂を司空とする。臨川靖恵王宏の子正徳を臨賀郡王に立てる。庚午、嫡皇孫大器を宣城郡王として諸王の上位に置く。癸未、魏の南兖州刺史劉世明が城を挙げて降る。二月壬寅、太尉元法僧を北へ送り返し魏主とし、侍中元景隆を徐州刺史・彭城郡王、常侍元景仲を青州刺史・平昌郡王とし法僧に随い北侵させる。庚戌、新除揚州刺史邵陵王綸が罪あり庶人に落とされる。三月庚午、侍中領国子博士蕭子顕が制旨孝経助教一人・生十人の設置を上表、帝が釈いた孝経義を専ら通ずるものとする。夏四月、盤盤国が朝貢。秋七月甲辰、星が雨のように降る。九月乙巳、司空袁昂に尚書令を加える。冬十一月、高麗国が朝貢。十二月丙子、魏の彭城王爾朱仲遠が来奔、定洛将軍・河南王とし北侵で得た土地は自ら封建させた。庚辰、太尉元法僧を郢州刺史・驃騎大将軍・開府同三司の儀とする。この年、魏の丞相渤海王高歓が爾朱氏を平定、節閔皇帝と自ら奉じた渤海故王朗を廃し平陽王修(孝武皇帝)を奉じ、中興二年を大昌、まもなく永熙元年と改元した。

中大通五年(533年)

  • 正月辛夘、南郊を祀り大赦、孝悌力田に爵一級。この前夜、南郊令解滌之らが郊所を巡視した際、異香が三度風に乗って至り、祭事の際には壇上に円満な神光が朱紫黄白の雑色に食頃ほど輝いて消えた奇瑞があった。戊申、都下で地震。己酉、長星(彗星)が現れる。辛亥、明堂を祀る。二月癸未、同泰寺に幸し四部大会を設け金字般若経の題を発し己丑に終わる。三月丙辰、大司馬南平王偉が薨去。夏五月戊子、都下大水、御道を船が通う。六月己夘、魏の建義城主蘭保が東徐州刺史崔祥を殺し下邳を挙げて降る。冬十月庚申、尚書右僕射何敬容を左僕射、吏部尚書謝挙を右僕射とする。この年、河南・波斯・盤盤国が朝貢。

中大通六年(534年)

  • 二月癸亥、藉田を耕し大赦、孝悌力田に爵一級。三月己亥、行河南王可沓振を西秦河二州刺史とし正式に河南王に封じる。甲辰、百済国が朝貢。夏四月丁卯、熒惑(火星)が南斗に在る。秋七月甲辰、林邑国が朝貢。冬十月丁夘、信武将軍元慶和を鎮北将軍・魏王とし衆を率い北侵させる。閏十二月丙午、西南に二度雷声。この年、魏の孝武帝は丞相高歓に迫られ関中に出奔、歓は別に清河王世子善見(孝静帝)を主に立て、永熙三年を天平元年と改元、魏はここに東西に分裂した。孝武帝は関中に至った後、丞相宇文泰と不和になり、まもなく毒殺された。

大同元年(535年)

  • 正月戊申朔、大赦・改元。二月辛巳、明堂を祀る。丁亥、藉田を耕す。辛丑、高麗・丹丹国が朝貢。三月丙寅、同泰寺に幸し無遮大会を設ける。辛未、滑国が朝貢。夏四月庚子、波斯国が朝貢。壬戌、同泰寺に幸し十方銀像を鋳造し無碍会を設ける。秋七月辛夘、扶南国が朝貢。冬十月、黄塵が雪のように降る。十一月壬戌、北梁州刺史蘭欽が漢中を攻め、魏の梁州刺史元羅が降る。癸亥、梁州を復す。この年、西魏文皇帝大統元年。

大同二年(536年)

  • 二月乙亥、藉田を耕す。三月庚申、直言を求め文武の在位者に人材推挙を命じる詔。戊寅、帝は同泰寺に幸し平等法会を設ける。夏四月乙未、開府同三司の儀元法僧を太尉とする。五月癸夘、魏の梁州刺史元羅を青冀二州刺史・東郡王とする。六月丁亥、郊・明堂・陵廟等の令を散騎侍郎に改める詔。秋九月辛亥、同泰寺に幸し四部無得法会を設ける。冬十月乙亥、大挙北侵の詔。壬午、同泰寺に幸し無碍大会を設ける。十一月、黄塵が雪のように降り掬えるほど積もった。己亥、北侵の諸軍に班師を命じる詔。辛亥、都下で地震、白毛が長さ二尺生じる。十二月壬申、東魏と通和。

大同三年(537年)

  • 正月辛丑、南郊を祀り大赦、孝悌力田に爵一級。この夜、朱雀門が災に遭う。壬寅、灰が黄色に雨のように降る。二月丁亥、藉田を耕す。癸巳、護軍将軍蕭藻を尚書左僕射とする。三月戊戌、昭明太子の子○を武昌郡王、譼を義陽郡王に立てる。夏五月癸未、同泰寺に幸し十方金銅像を鋳造し無得法会を設ける。六月、青州胊山で隕霜。秋七月、青州で雪が苗稼を害す。癸卯、東魏の使者が来聘。己酉、義陽王譼が薨去。八月辛夘、阿育王寺に幸し無碍法喜食を設け大赦。九月、兼散騎常侍張皋を東魏に聘使として派遣。閏九月甲子、侍中太尉元法僧が薨去。冬十月丙辰、都下で地震。この年、飢饉。

大同四年(538年)

  • 二月己亥、藉田を耕す。三月、河南・蠕蠕国が朝貢。夏五月甲戌、東魏の使者が来聘。六月辛丑、日食。秋七月癸亥、柬冶徒李胤之が象牙如来の真形を降し与えたとして大赦とする詔。戊辰、兼散騎常侍劉孝儀を東魏に聘使として派遣。八月甲辰、南兖等十二州は饑饉を経たため逋租・宿責を免じ今年の三調を停止する詔。九月、楽游苑で閲武。

大同五年(539年)

  • 正月乙夘、護軍将軍廬陵王続を驃騎将軍、安右将軍尚書左僕射蕭藻を中衛将軍としともに開府儀同三司、中権将軍丹陽尹何敬容を本号のまま尚書令、吏部尚書張纉を尚書左僕射とする。丁巳、御史中丞参礼儀事賀琛が南北二郊・藉田の往還は輦を用い路を用いぬべきこと、二郊は素輦・藉田往還は常輦を用い侍中が陪乗し大将軍・太僕を停めることを上奏、詔で尚書に博議させ施行、素輦の名を大同輦、郊祀宗廟は佩輦に乗ることとした。辛未、南郊を祀り、孝弟力田・州閭郷党で善人と称される者に爵一級を賜う詔。秋八月乙酉、扶南国が生きた犀を献上。冬十一月乙亥、東魏の使者が来聘。十二月、兼散騎常侍柳豹を東魏に聘使として派遣。この年、都下で「天子が人の肝を天狗に食わせる」との流言が広まり大小相警め日暮れには門を閉じ武器を持つ有様が数ヶ月続いた。

大同六年(540年)

  • 正月庚戌朔、司豫徐兗四州を曲赦。二月己亥、藉田を耕す。夏四月癸未、晋宋斉三代の諸陵に職司ある者に守護を勤めさせる詔。五月己夘、河南王が馬・方物を献じ釈迦像と経論十四条の下賜を求め、勅で像及び制旨涅槃・般若・金光明講疏一百三巻を付す。秋七月丁亥、東魏の使者が来聘、散騎常侍陸晏子を報聘に派遣。八月戊午、大赦。辛未、盤盤国が朝貢。九月戊戌、司空袁昂が薨去。冬十一月己夘、都下を曲赦。十二月壬子、江州刺史豫章王歓が薨去。

大同七年(541年)

  • 正月辛巳、南郊を祀り大赦。辛丑、明堂を祀る。二月乙巳、行宕昌王梁彌泰を平西将軍・河涼二州刺史とし正式に宕昌王に封じる。辛亥、藉田を耕す。乙夘、都下で地震。夏四月戊申、東魏の使者が来聘、兼散騎常侍明少遐を報聘に派遣。冬十一月丙子、地方の使役に女丁を用いることを停止する詔。十二月壬寅、東魏の使者が来聘、兼散騎常侍袁狎を報聘に派遣。丙辰、宮城西に士林館を建て学者を招集。この年、宕昌・蠕蠕・高麗・百済・滑国が朝貢、百済は涅槃経疏・医工・画師・毛詩博士を求め全て許された。交州の李賁が刺史蕭諮を攻める。

大同八年(542年)

  • 正月、安成郡人劉敬躬が左道を挟んで反乱。二月戊戌、江州刺史湘東王繹が中兵曹子郢を遣わし討ち捕らえ、都に送り建康市で斬った。三月、江州の新蔡・高塘に頌平屯を興し蛮地を開墾。

大同九年(543年)

  • 閏正月丙申、地震、地に毛が生じる。三月、太子詹事謝挙を尚書僕射とする。夏四月、林邑王が徳州を破りさらに李賁を攻めたが、賁の将范修が林邑王を九徳で破り敗走させた。冬十一月、益州刺史武陵王紀を征西将軍・開府儀同三司に進号。

大同十年(544年)

  • 正月、李賁が交阯で「天徳」の年号を僭称。三月甲午、蘭陵に幸す。庚子、建陵を謁し陵上に紫雲が食頃ほど覆い、帝が流した涙で草が変色し、陵傍の枯泉が香り高い水となって復活する奇瑞。辛丑、脩陵で哭す。壬寅、皇基寺で法会を設け、蘭陵の老幼に位一階と頒賜を加え、経由した県邑には今年の租賦を免除する詔。癸夘、園陵の職司にも位一階と賜賚を加える。己酉、京口城北固楼に幸し北顧と改名。庚戌、回賔亭に幸し宴し、帝の郷里の故老・経由した近県の奉迎者、少長数千人にそれぞれ銭二千を賜う。夏四月乙夘、蘭陵より帰還、鰥寡孤独の困窮者に賑恤の詔。五月、広州人盧子略が反乱、刺史新渝侯映が討平し広州を曲赦。秋九月己丑、赦。冬十一月、大雪、平地三尺。

大同十一年(545年)

  • 正月、華林園の光厳殿・重雲閣に落雷、帝は自ら位を貶め上天に累度謝罪しようやく止んだ。夏四月、東魏の使者が来聘。冬十月己未、贖罪の典を再び開く詔。

中大同元年(546年)

  • 正月丁未、曲阿県建陵の隧口の石辟邪が舞い動き、大蛇が隧中で闘い一方が傷ついて逃げ、青虫が陵樹の葉をほぼ食い尽くす異変。癸丑、交州刺史楊㬓が交阯の嘉寧城を克し、李賁は屈獠洞へ逃げ込み交州が平定された。三月乙巳、大赦。庚戌、同泰寺に幸し金字三慧経を講じ自ら施身。夏四月丙戌、皇太子以下が贖いを奉り同泰寺で解説の法会を設け、大赦・改元。この夜、同泰寺が災に遭う。六月辛巳、天空全体に風水が相打つような音が響く。秋七月甲子、大逆及び父母・祖父母への罪でなければ連座しない詔。丙寅、九陌銭(劣悪銭)の流通で物価が乱れることを憂え、今後は良質な足陌銭を通用させる詔。八月丁丑、東揚州刺史武昌王○が薨去。甲午、渇槃陁国が方物を献上。冬十一月癸酉、汝陰王劉哲が薨去。

太清元年(547年)

  • 正月己亥朔、日食。壬寅、荆州刺史廬陵王続が薨去。辛酉、南郊を祀り大赦。甲子、明堂を祀る。この月、東魏の丞相渤海王高歓が薨去。二月己夘、白虹が日を貫く。庚辰、東魏の司徒侯景が河南十三州を挙げて内属を求める。壬午、景を大将軍・河南王・大行台とし承制することを鄧禹の故事に倣って許す。丁亥、藉田を耕す。三月庚子、同泰寺に幸し無遮大会を設け、帝は御服を脱ぎ法衣を纏い清浄大捨(羯磨と称す)を行い、五明殿を房とし素木床・葛帳・土瓦器で暮らし小輿に乗り私人が役に従事、乗輿・法服を全て屏除した。甲辰、司州刺史羊鴉仁に土州刺史桓和・仁州刺史湛海珍らを率いさせ侯景の接応に向かわせるが、間に合わず東魏軍が景を攻め、景は西魏にも救援を求めて包囲を解いた。乙巳、帝は光厳殿の講堂で師子座に登り金字三慧経を講じ捨身。夏四月庚午、群臣が銭一億万を以て「皇帝菩薩」の贖いを奉り僧衆は黙許、戊寅、百辟が鳳荘門に赴き三たび請い三たび答え頓首、中大通元年の故事に同じ。丁亥、衮冕を服し輦で還宮、太極殿に幸すること即位の礼の如く、大赦・改元。この月、神馬が出現、皇太子が宝馬頌を献上。六月戊辰、前雍州刺史鄱陽王範を征北将軍とし漢北の征討諸軍事を総督させる。秋七月庚申、羊鴉仁が県瓠城に入る。八月乙丑、諸軍を北征させ南豫州刺史蕭明を大都督とし、緣辺の初附諸州を赦す。戊子、大将軍侯景に行台尚書事の録を兼させる。九月癸夘、王游苑が完成し輿駕が幸す。冬十一月、東魏の将慕容紹宗が寒山で蕭明を大敗させ捕虜とし、紹宗は潼州を包囲。十二月戊辰、太子舎人元真を北へ送り東魏主とする。

太清二年(548年)

  • 正月癸巳朔、二つの月が鉤のように相連なり西方に現れる。戊戌、在位の者に人材推挙を命じる詔。己亥、東魏が渦陽を克す。辛丑、尚書僕射謝挙を尚書令、守吏部尚書王克を尚書僕射とする。甲辰、東魏が殷豫二州を克す。三月甲辰、撫軍将軍高麗王高延が卒去、子の成を寧東将軍・高麗王・楽浪公とする。己未、屈獠洞が李賁を斬り首を建鄴に伝える。夏四月丙子、朝廷及び州郡に人材推挙を命じる詔。五月辛丑、新除中書令邵陵王綸を安前将軍・開府儀同三司とする。辛亥、交・愛・徳三州を曲赦。六月、天が西北で長さ十丈・幅二丈に裂け、光は電光のように出て音は雷のようだった。秋七月、兼散騎常侍謝班を東魏に派遣し和を結ぶ。八月戊辰、侯景が挙兵し反乱、甲辰、開府儀同三司邵陵王綸に諸軍を都督させ景を討伐、南豫州を曲赦。九月戊辰、地震、江左で特に甚だしく屋を壊し人を殺す、地に長さ二尺の白毛が生じる、益州の市に飛蝗が万群で人を刺し殺す。冬十月、侯景が譙州を襲い歴陽を陥落。戊申、臨賀王正徳を平北将軍・都督諸軍とし丹陽郡に屯させる。己酉、景は横江から采石を渡り、辛亥、建鄴に至る。臨賀王正徳が衆を率いて賊に附く。十一月戊午朔、壇を設け白馬を刑して太極殿前で蚩尤を祀る。己未、景は蕭正徳を南闕前で天子に立てる。辛酉、賊が東府城を陥落。庚辰、邵陵王綸が武州刺史蕭弄璋・前譙州刺史趙伯超らを率いて入援、乙酉、湖頭に進軍し賊と戦うが敗績。丙戌、安北将軍鄱陽王範が世子嗣・雄信将軍裴之高らを遣わし入援、張公洲に進む。十二月戊申、天が西北で裂け光は火のようだった。尚書令謝挙が卒去。丙辰、司州刺史柳仲礼・前衡州刺史韋粲・高州刺史李遷仕・前司州刺史羊鴉仁らが軍を率いて入援。

太清三年(549年)

  • 正月丁巳、大都督柳仲礼が諸軍を率い南岸に分拠、賊が青塘で渡河し韋粲を襲殺。庚申、白虹が日を三重に貫く。邵陵王綸・臨城公大連らが兵を率い南岸に集結。戊辰、長さ三十丈の流星が武庫に堕ちる。李遷仕及び天門太守樊文皎が青渓東に進軍し賊に破られ文皎が戦死。壬午、熒惑が心宿を守る。二月、侯景が使者を遣わし和を求め、皇太子が固く請うたため帝はこれを許可、西華門下で盟を結んだ。景は東城の米を石頭に運んだが包囲を解かず、諸軍の退却を求める上申を行う。丁未、皇太子は南兖州刺史南康王会理・前青冀二州刺史湘潭侯退に江北の軍を率いさせ蘭亭苑に駐屯させる。甲子、開府儀同三司丹陽尹邵陵王綸を司空、合州刺史鄱陽王範を征北大将軍・開府儀同三司、司州刺史柳仲礼を侍中尚書僕射とする。この時、景の姦計が成り、帝の失政を上表しつつ再び挙兵し闕を目指した。三月、城内は景の盟約違反を天地神祗に告げる壇を設けた。戊午、前司州刺史羊鴉仁らが東府に進軍し賊と戦うが大敗、四方から入援した征鎮の軍は三十余万に及んだが互いに闘志がなく略奪し合うのみだった。丁卯、賊が宮城を陥落させ大掠。己巳、賊は詔を偽って石城公大款を遣わし外援の軍を解散させる。庚午、侯景は自ら都督中外諸軍事・大丞相・録尚書事となる。辛未、入援の諸軍が各々退散。丙子、熒惑が心宿を守る。夏四月己丑、都下で地震、丙申にも再び地震。己酉、帝は求めが満たされぬことを憂憤し寝疾に伏す。この月、青冀二州刺史明少遐・東徐州刺史湛海珍・北青州刺史王奉伯がそれぞれ州を挙げて東魏に帰属。五月丙辰、帝は浄居殿で崩御、時に八十六歳。辛亥、梓宮を太極前殿に遷す。十一月乙卯、脩陵に葬られ武皇帝と追尊、廟号は高祖。

帝の人となり

  • 帝は生来純孝で、六歳のとき献皇太后(生母)が崩じた際、水漿を三日間口にせず、哭泣する様は成人を超えていたという。文帝(皇考順之)の喪に際しては、斉の随王の諮議として荆鎮にあり病を聞くやただちに投劾し寝食を廃して昼夜駆けつけ、容貌は骨立するまで痩せ、親族友人も見分けられぬほどであった。以後、山陵に拝掃するたびに涙が松や草を変色させ、日々の食は麦二溢に留めるなど哀慕の情が篤かった。
  • 即位後は鍾山に大愛敬寺、青渓辺に智度寺、台内に至敬等殿を建立し、七廟の堂で月に再度浄饌を供え、拝礼のたびに涕泗を流した。
  • 若くして学を好み諸学に通じ、万機多忙の中でも書巻を手放さず、夜は戊夜(三更)まで灯火のもとで学び続けた。通史六百巻・金海三十巻・制旨孝経義・周易講疏及び六十四卦二繋文言序卦等義・楽社義・毛詩春秋答問・尚書大義・中庸講疏・孔子正言孝経講疏など合わせて二百余巻を撰述し、王侯朝臣が上表して質疑すればみずから解説した。国学を整備拡充して生員を増やし、五館を立てて五経博士を置き、天監初年には何佟之・賀瑒・厳植之・明山賓らが制旨を敷衍して吉凶軍賓嘉の五礼一千余巻を撰し、帝自ら制断した。大同年間には台西に士林館を立て、領軍朱异・太府卿賀琛・舎人孔子祛らが交代で講述、皇太子・宣城王も東宮宣猷堂や揚州解で開講し、四方の郡国が風になびくように学問に向かった。
  • 即位から即位後まで自ら賛序・詔誥・銘誄・箴頌・牋奏などの諸文を制作し合わせて百二十巻に及んだ。六藝にも通じ、囲碁は逸品の域に達し、陰陽緯候・卜筮占決・草隷尺牘・騎射のいずれにも巧みであった。
  • 晩年は仏道に傾倒し日に一食、膳には鮮腴を用いず豆羹・糲飯のみ、時に事に紛れて日をまたぐこともあった。涅槃・大品・浄名・三慧など諸経の義記を数百巻著し、余暇には重雲殿や同泰寺で名僧碩学とともに講説、四部の聴衆は常に一万余人に及んだ。布衣・木綿の皂帳を用い、冠は三年に一度、被は二年に一度替えるのみ、五十を過ぎてからは房室を断った。後宮も貴妃以下、六宮の禕衣・褕翟・闕翟の外は地に曳かぬ衣とし、錦綺を用いず、酒を飲まず音楽を聴かず、宗廟祭祀の大会や法事以外では音楽を用いなかった。
  • 政務に勤勉で、冬の四更竟には灯火を執って政務を見て、寒さで手が皴裂するほどであった。しかし親族や寵愛する者への仁愛から縦捨(罪の見逃し)が多く、そのため政刑が弛緩し、死罪の裁可のたびに哀憐の涙を流したという。
  • 性格は方正で、小殿・暗室にあっても常に衣冠を整え、暑い盛りでも衣を寛げることがなく、内豎・小臣に接する際も大賓に対するようであった。
  • 斉高帝が屐を履いて登殿する夢を見た際、武明二帝の後ろに天地図を張る一人を見て「順子(皇考順之)の後」と告げられた逸話や、崔慧景の乱で長沙宣武王が越城で援軍に赴いた際、馬に乗り天を飛んで墜落する夢を見て「帝の馭す馬が赤龍と化し虚を騰り独り上った」と語られた逸話、宿衛の巫覡が太極殿で六龍が柱を守る幻を見て、宣武王の宅・郢州滞在時に龍が集まったことを目撃し、益州から都に戻る途中で病死する際「蕭雍州(帝)は必ず天子となろう」と語った逸話などが伝わる。
  • 蒙塵(侯景の乱)の中でも斎戒を怠らず、疾病に至っても盥漱は平常通り、皇太子が日に二度見舞い涕泗を流し、賊臣の侍者も涙を隠せなかったという。臨終近くには蜜を求めても得られず「荷荷(嘆息の声)」と言って崩じた。
  • 天監中、沙門釈宝誌が「昔年三十八今年八十三、四中復有四、城北火酣酣」の詩を残し、帝は周捨に命じてこれを封印させたが、中大同元年に同泰寺が焼失した際、封を開くとまさにその通りであったため、帝は流涙したという(帝が三十八歳で建鄴を克した年と、丙寅の年に八十三歳で災に遇ったことが符合したとされる)。太史令虞履に筮せしめると「巛(坤)履」の卦を得、繇辞に「西南得朋東北喪朋安貞吉」とあり、文言に「東北喪朋乃終有慶」とあった。帝はこれを「魔鬼の兆し」と読み解き、善言を唱えさせて対処したという逸話も記される。
  • 太清元年、帝が光厳・重雲殿で捨身した際には遊仙化生の像が震動し三日にわたり続いたが、当時これを祥瑞と称賛する者がいた一方、識者は「動くべきでないものが動いた」として石季龍の敗亡の前兆(殿壁の画人の頸が縮んだ故事)に比した。海中の浮鵠山(餘姚沖合千余里)に三百歳の女人とその女官・道士が住み、紅い席を献上した逸話や、大衆の中で自ら身を割いて飢えた鳥に施した男の話、鉄鈎で身を懸けて千の灯を燃やし一昼夜端坐した沙門智泉の話、講義の日に三足の烏や白雀・連理の樹・五色の雲が現れた瑞祥の話も伝わるが、帝の仏教への傾倒が甚だしくなるにつれ国内もこれに倣い、ついに国の喪亡に至ったとされる。

史論

  • 論じて言う。梁の武帝は昏虐な時代に遭遇し家に冤禍を受けたが、地の利と勢いに乗じて挙兵した。文徳に武功を兼ね、湯武の軍事行動をもって始まり唐虞の事業をもって終えた点は、人の謀りごとというより天命というべきであろう。図籙を得てから長く在位し、礼楽を制定し儒学を尊んだことで、江左(江南)は二百年来もっとも文物の盛んな時代を迎えた。
  • しかし先王は文と武、徳と刑を併せ用いることで水火・陰陽のごとくバランスを保つべきであるのに、武帝は俎豆(祭祀・礼制)に心を留める一方で干戚(武備)を忘れ、仏教に溺れて刑典を弛緩させた。そのため帝室の紀綱が立たず、悖逆が生じ、子弟によって反噬される事態を招いた。履霜の兆しを戒めなかった結果、乱亡に至ったのである。
  • 古来、乱を撥めた君主は多いが、その多くは晩節を保てず子孫の代で失うのが常であった。しかし梁の武帝のように、自らその功業を興し自らその身でこれを喪ったという例は稀である。徐偃王の仁を追い求めた末に一族滅亡の酷禍に至ったことは、深く痛み、深く戒めとすべきことである。