南史卷六 梁本紀上第六 梁髙祖武皇帝(蕭衍・字叔達)

南蘭陵の蕭氏、諱は衍、字は叔達、小字は練児(457–549年)。斉の宗室に連なり、東昏侯の暴政に対し襄陽で挙兵、建康を平定して和帝の禅位を受け梁を建国した初代皇帝(高祖)。即位後は制度整備・学問興隆に努め「天監の治」と呼ばれる安定期を築いた。

年表(13件)

出自と生い立ち

  • 梁の高祖武皇帝、諱は衍、字は叔達、小字は練児。南蘭陵中都里の人、姓は蕭氏で斉の皇室と同族。淮陰令の蕭整を始祖とし、整は皇高祖・鎋(済陰太守)を生み、鎋は皇魯祖・副子(州治中従事)を生み、副子は皇祖・道賜(南台治書侍御史)を生み、道賜は皇考・順之(字文緯)を生んだ。順之は斉の高帝蕭道成の族弟にあたる。
  • 順之は外見清和・内心英気を秘め、若くして高帝と親交を結んだ。かつて金牛山に登り路傍の枯骨を見て「周文王以来何年経てばこの骨を掩う者が現れるか」と高帝が語り、皇考は高帝の大志を悟ったという。北討で薛索児を討った夜、刺客が高帝の寝所に迫った際、皇考がこれを手ずから斬った。鎮軍司馬・長史として高帝に随従。宋帝の暴虐に対し高帝が挙兵を謀った際、皇考は「一旦奔亡すれば危険が測り知れない。人の望みに乗じて伊尹・霍光の故事を行うべし」と進言し、高帝はこれに深く同意した。
  • 袁粲が石頭城で反乱を起こし黄回と通謀した際、皇考は家兵を率いて朱雀橋を守った。黄回配下の斥候が「朱雀橋南の一長者(蕭順之)が威風堂々と座している」と報告したため出撃を控え、石頭城の危機は救われた。斉の建元末、高帝は「揚州を阿玉(豫章王嶷)に授けよう」と皇考に語り、斉武帝も皇考を深く信頼した。皇考は臨湘県侯に封ぜられ、侍中・衛尉・太子詹事・領軍将軍・丹陽尹を歴任、没後に鎮北将軍を贈られ諡は懿。
  • 帝は宋の孝武帝大明元年甲辰、秣陵県同夏里三橋の宅に生まれた。母張氏は日を抱く夢を見て懐妊し、帝を産んだという。生まれつき異相があり、日角・龍顔・重岳・虎顧・舌に八字の文があり、項に浮光を帯び、両骻には駢骨、項上には隆起があり、右手に「武」の文があったと伝わる。幼時、空を踏んで歩けたという逸話も残る。
  • 長じて博学多通、籌略に長け文武の才幹を備えた。衛軍王倹の東閣祭酒となり、王倹に見出されて戸曹属に迎えられ「蕭郎は三十で侍中となろう、それを越えれば貴きこと言うべからず」と評された。竟陵王蕭子良が西邸に文学の士を招いた際、沈約・謝朓・王融・蕭琛・范雲・任昉・陸倕らと交遊し「八友」と号された。王融は「天下を宰制するのは必ずこの人だ」と語ったという。随王の鎮西諮議参軍として牛渚を通過中、風雨で龍瀆に泊まった夜、一老人に「君は龍行虎歩の相、天下が乱れればその主となろう」と予言され、たちまち姿を消したという。その後皇考の喪に服すため職を辞し建業へ帰った。

斉末の政局と挙兵への道

  • 斉武帝が病篤いとき、竟陵王子良は帝や兄の懿、王融、劉繪、王思遠、顧暠之、范雲らを帳内軍とした。王融は子良を擁立しようとしたが、帝は「非常の事は非常の人物を待たねばならない、王融の才ではその図を成し得ない」と退けた。范雲が「国を憂うのは王融のみ」と言うと、帝は「憂国とは周公・召公たらんとするのか、それとも豎刁たらんとするのか」と反問し、兄懿も「直言だ」と同調した。
  • 皇考の喪に不遇があった経緯は「魚復侯伝」に見える。鬱林王が失徳し斉明帝が輔政して廃立を図った際、帝は明帝を助けて武帝の後嗣を除き父の恥を雪ごうとした。明帝はこれを察知し、しばしば帝と謀議した。随王子隆・会稽の王敬則の処遇について帝は「随王は名声こそあれ実は凡庸、腹心は司馬垣歴生・武陵太守卞白龍のみで利に走る者ばかり。顕職で誘えば従わぬ者はない。王敬則は江東の富貴に安んじているので美女で心を娯しませればよい」と献策し、明帝はこれを採用、随王を召還して自尽させ、豫州刺史崔慧景の不安も鎮めるため帝を寿陽に鎮させ、外は魏への備え、内は慧景への牽制とした。慧景が服罪に来た際、諸将は「慧景を討て」と迫ったが帝は「掌中の嬰児を殺すのは武ではない」と笑って和解し、慧景は安堵した。
  • 隆昌元年、中書侍郎、のち黄門侍郎に遷る。建武二年、魏の王肅・劉昶が司州刺史蕭誕を攻め、帝は左衛将軍王広之の偏帥として救援に赴いた。賢首山の要害を巡り諸将は魏軍の勢威を恐れて進まなかったが、帝が自ら精鋭を率いて夜間進軍し、賢首山を制圧、魏軍の糧道封鎖をしのいで王広之の本隊を前進させた。風雲の変化を読んで「これは帰る気の兆し、魏軍は退くだろう」と喝破し、総攻撃で王肅・劉昶を大敗させ千を数える斬獲を得た。この功で建陽県男に封ぜられ、司州刺史となった。沙門僧惲が「君の項には伏龍があり人臣の相ではない」と語ったという逸話も伝わる。
  • 州にあって威名高く、贈られた馬を密かに柱に繋いで返す逸話が伝わる。太子中庶子・四廂直となり石頭に出鎮、明帝の猜疑を避けて質素な牛車に乗るなど時嫌を避けた。建武四年、魏孝文帝が雍州刺史曹虎を攻めた際、明帝は劉暄を雍州に送ろうとしたが暄が固辞したため、帝に密旨を与え雍州へ赴かせ、崔慧景・陳顕達の援軍とともに鄧城まで進んだが、魏軍十余万騎の急襲を受け慧景が退却を主張、帝の制止を聞かず大敗した。帝は自ら軍を統率して撤退し全軍を保った。
  • 明帝崩御に際し遺詔により帝は都督雍州刺史となった。当時、揚州刺史始安王遥光・尚書令徐孝嗣・右僕射江祏・右将軍蕭坦之・侍中江祀・衛尉劉暄が「六貴」として交代で内省を統べ、御刀の茹法珍・梅虫児・豊勇之ら八人が「八要」と号し、舎人王咺之ら四十余人も王命を私し国憲を専断した。帝は張弘策に「政令が多門から出て国は乱れる。今、禍を避けられるのはこの地だけだが、諸弟は都にあり心配だ、益州の兄懿と図らねばならぬ」と語り、弘策を郢州の懿の元へ遣わしたが容れられなかった。帝は弟の偉・憺を呼び寄せ、密かに檀溪に竹木を沈めて船の準備を進めた。
  • 永元二年冬、兄懿が誅殺されたとの報が届くと、帝は長史王茂・中兵呂僧珍・別駕柳慶遠・功曹史吉士瞻らと謀議し、十一月乙巳、僚佐を集めて挙兵を宣言、檀溪の竹木で軍船を仕立て、旬日で百姓志願の鉄馬五千匹・甲士三万人を集めた。

挙兵から建康平定まで

  • 東昏侯(帝の呼称は当時「東昏」)が劉山陽を巴西太守として荆州を経由させ、行事蕭穎冑を襲わせようとする計を察知した帝は参軍王天武・龎慶国を江陵へ遣わし諸州府に檄を発した。張弘策との謀議で「天武が至れば荆州は動揺し、我が方に付くほかない。三峡を断ち巴蜀を分定すれば長江上流を制し、九派を絶ち江南へ檄を伝えれば風になびく草のようなものだ」と説いた。
  • 山陽が巴陵に至ると、帝は再び天武を頴胄兄弟へ遣わし、「用兵の道は攻心を上とする」と語った。天武の口が堅いため頴胄側が疑いを深め、柳忱の勧めで天武を斬って首を山陽へ送るという計略(樊於期の故事に擬えた)が実行され、山陽はこれを信じて入城しようとした所を伏兵に討たれ、首は帝へ届けられた。
  • 南康王(蕭宝融)を擁立する議に対し、頴胄側は「来年二月に進軍すべき」としたが、帝は「十万の兵を長く留めれば士気が衰える」「太白が西方に出て義に叶う、天時人謀に不利はない」と即時進軍を主張。竟陵太守曹景宗の勧めで南康王を襄陽に迎え早めに尊号を正す案も帝は退けた。王茂が「南康王を他人の手に委ねれば、その者が天子を挟んで諸侯に令することになる」と諫めても、帝は「事が成らねば蘭艾ともに焚かれるまで、成れば功業は誰にも奪われぬ」と応じた。
  • 沔南に新野郡を設置し降人を集めた。三年二月、南康王を相国とし帝を征東将軍とする。帝は雪の中を襄陽から進発、弟偉に襄陽を託し「襄陽の人心を腹中に置くように」と訓じた。竟陵占領後、長史王茂・太守曹景宗を前軍として郢州刺史張沖を破り、荆州の冠軍将軍鄧元起らと夏口で合流、漢口城を築いて魯山を守り、水軍で邾・魯二城の連絡を断った。
  • 三月乙巳、南康王が江陵で即位し東昏侯を涪陵王に廃した。帝は尚書左僕射・征東将軍・都督征討諸軍・仮黄鉞・西台に任ぜられ、四月には郢城を攻囲。五月、東昏が呉子陽・光子衿ら十三軍を派して郢州を救援させたが、七月の加湖の戦いで王茂らが夜襲、水位急変(流星が城に墜ち、無雨で水が暴増した奇瑞)に乗じ大勝、子陽らは潰走した。江州刺史陳伯之の帰順交渉も進め、九江の帰趨を制した。
  • 八月、上庸太守韋叡に郢城を任せて全軍を東進、蕪湖・姑孰を制圧。新亭・赤鼻邏・越城・皂莢橋・道士墩・籬門の各拠点を次々に攻略し、東昏側は南岸の家屋を焼いて戦場を開くなど焦土戦術に出た。十月には石頭軍主朱僧勇が投降、王珍国の陣も王倀子の内応で崩壊、京口・広陵・瓜歩の守将も相次いで降った。
  • 十二月丙寅、兼衛尉張稷・北徐州刺史王珍国が東昏侯を斬り、首級を軍中に送った。帝は呂僧珍・張弘策に府庫・図籍を封じさせ、寵妃潘氏を誅殺、逆党の王咺之ら四十八人を処刑、宮女二千人を将士に分与した。宣徳皇后の令で東昏侯は追廃され、帝は中書監・大司馬・録尚書・驃騎大将軍・都督・揚州刺史・建安郡公(食邑一万戸)に叙され、班劒四十人・黄鉞・侍中の礼を給された。

禅譲と即位

  • 帝は殿内に入り閲武堂で軍容を整え、大赦を布告。凡そ東昏の悪政・濫刑・過重な賦役は検討のうえ全廃し、原状回復の措置を講じた。義師で戦死・病没した者への弔恤も命じた。
  • 天監に先立ち、選挙制度の弊害(甲族は二十歳、寒門は三十歳を過ぎねば試吏できない慣行)を批判する上表を行い、選簿の整備を命ずる詔が下った。
  • 斉帝(和帝)は帝を都督中外諸軍事・剣履上殿・入朝不趨・賛拝不名とし、前後部の羽葆鼓吹を加え、のちに相国・総百揆・梁公(食邑十郡)とし九錫の礼を備えさせた。策文は齊末の乱を鎮めた十指に余る功績(荆河の乱鎮定、廃帝立王の策、樊漢救援、漢南の強鎮化、東昏廃立の建策、京邑平定、群凶討滅、九派鎮定、姑孰防衛、新亭・石頭の攻略等)を美辞麗句で列挙する形式で、帝はこれを固辞したが府僚の重ねての勧進により受諾した。
  • のち梁公から梁王へ進爵、豫州・廬江・江州・郢州など十郡を加増、九錫の礼を再び受けた。斉帝は帝に冕十二旒・天子旌旗・出警入蹕・金根車・五時副車の使用を許し、禅位の詔(宣徳皇后の令)を発した。策文には歴代禅譲の故事(唐虞・漢魏・晋宋)を引きつつ、天命の帰趨と符瑞(星変・図讖)を述べる長大な美辞が連ねられている。
  • 帝は表を奉って固辞したが通じず、斉の百官(豫章王元琳ら八百十九人)および梁台の侍中范雲ら百十七人が上表して勧進、太史令蒋道秀が天文符讖六十四条を陳べ、群臣の重ねての要請により受諾した。

天監元年(502年)

  • 四月丙寅、南郊に壇を設け天を祭り即位を告げる文を奏上。斉の歴運が終わり天命が梁に帰したことを宣言し、建康宮太極前殿に還って大赦・改元。爵位二級、文武官に位二等を賜い、鰥寡孤独に穀五斛を支給、逋布・口銭・宿責を免除、郷論清議で贓汚淫盗とされた者の科条も洗い清め新たな出発とした。
  • 斉の和帝(蕭宝融)を巴陵王として一郡を全食させ、天子の旌旗・五時副車の使用と斉の正朔奉行を許した。斉の宣徳皇后を斉文帝妃、和帝后王氏を巴陵王妃とし、斉代の王侯の封爵を大幅に降格したが功労著しい者は別に処遇、宋の汝陰王のみ例外とした。劫賊に没収されていた家族を解放し、流徙の家は本土帰還を許した。
  • 兼尚書令に王亮、兼尚書右僕射に沈約。皇弟の中護軍宏を臨川王・南徐州刺史、秀を安成王・雍州刺史、偉を建安王・右衛将軍、恢を鄱陽王・荆州刺史、憺を始興王とし、郡王以下の爵を県で六等に分け、皇弟・皇子は郡王(食邑二千戸)、庶子は県侯(五百戸)として「諸侯」と称し、功臣の爵邑には定まった規程を設けなかった。
  • 鳳凰が南蘭陵に飛来。丁卯、後宮の楽府・西解・暴室で幽閉されていた者を全て放免、老衰者には官給の食料を給付。戊辰、巴陵王に銭二百万・絹布各千疋・綿二千斤を贈与。高麗王高雲を車騎大将軍、百済王餘太を征東大将軍、倭王武を征東将軍に進号。己巳、巴陵王(斉和帝)が姑孰で死去、斉和帝の礼で葬送した。
  • 庚午、内侍を四方に分遣し地方政治を巡察、賢才の推挙、訴訟の停滞、公を忘れ私を営む者の摘発を命じ、隠棲する有能な人材の推挙も求めた。金による贖罪を古制に依り復活。辛未、蕭宝義(謝沐公)を新たに巴陵王とし斉の祭祀を継がせ、南蘭陵武進県を復興。謝朏を侍中・左光禄大夫・開府儀同三司とし、南東海郡を蘭陵郡と改称、南徐州の僑郡県を土断。
  • 癸酉、公車府・謗木・肺石のそばに投書箱を設置し、民の不満・冤罪の訴えを直接聴く制度を整えた。甲戌、逺近の慶賀の礼を停止。閏月丁酉、行宕昌王梁彌邕を安西将軍・河涼二州刺史とし正式に宕昌王に封じた。壬寅、風聞による上奏(弾劾)の制度化。皇考(順之)を文皇帝・廟号太祖、皇妣張氏を献皇后(陵は建陵)、郗氏を徳皇后(陵は修陵)と追尊。
  • 五月乙亥夜、盗賊が南北掖門に侵入し神武門・総章観を焼き、衛尉卿張弘策を殺害。戊子、江州刺史陳伯之が反乱、領軍将軍王茂を征南将軍・江州刺史として討伐に当たらせた。六月庚戌、北秦州刺史楊紹先を武都王に封じる。同月、陳伯之は魏に逃亡し江州平定。前益州刺史劉季連が成都で反乱。
  • 秋七月丁巳朔、日食。八月戊戌、建康三官を設置。癸卯、鸞鳥が楽游苑に出現。乙巳、平北将軍西涼州刺史象舒彭を安西将軍に進号し鄧至王に封じる。丁未、王瑩ら八人に律令の参定を命じ、交州が献じた歌う鸚鵡は受け取りを拒否。林邑・干陁利国が朝貢。
  • 冬十一月己未、小廟を建立。甲子、皇子統を皇太子に立て、天下の父を継ぐ者に爵一級を賜与。十二月大雪、深さ三尺。この年大旱で米価が高騰し餓死者多数出た。

天監二年(503年)

  • 正月乙卯、尚書僕射沈約を左僕射、吏部尚書范雲を右僕射とする。辛酉、南郊を祀り死罪以下の囚人を減刑。庚辰、仇池公楊霊珍を北梁州刺史・仇池王に封じる。
  • 夏四月癸夘、尚書刪定郎蔡法度が梁律二十巻・令三十巻・科四十巻を上奏。五月、尚書右僕射范雲が卒去。乙丑、益州刺史鄧元起が成都を克復、益州を曲赦。六月丁亥、新除左光禄大夫謝朏を司徒・尚書令とする。甲午、中書監王瑩を尚書右僕射とする。この夏、疫病が流行。
  • 秋七月、扶南・亀茲・天竺国が朝貢。冬十月、皇子綱が誕生(のちの簡文帝)。十一月乙夘、雷電・大雨・晦冥。

天監三年(504年)

  • 正月癸丑、尚書右僕射王瑩を左僕射、太子詹事柳惔を右僕射とする。二月、魏が梁州を陥落。三月隕霜殺草。夏五月丁巳、扶南王僑陳如闍耶跋摩を安南将軍とする。六月丙子、使者を四方に分遣し地方の寃罪・酷政を巡察させる詔。癸未、大赦。
  • 秋七月甲子、皇子綜を豫章王に立てる。八月、魏が司州を陥落。九月壬子、河南王世子伏連籌を鎮西将軍・西秦河二州刺史・河南王とする。北天竺国が朝貢。冬十一月甲子、贖罪の科条を除く詔。この年、魏の正始元年。

天監四年(505年)

  • 正月癸夘、九流常選は三十歳未満で一経に通じない者は解褐(初任官)を許さぬが、才が甘顔(顔回)に匹敵する者は年次を限らないとする詔。五経博士各一人を設置。有司が呉令唐傭の盤龍火炉・翔鳳硯の鋳造を上奏、詔で終身禁錮とした。丙午、鳳凰銜書伎を廃止。戊申、宮人の帷宮での禋郊観覧を停止する詔。辛亥、南郊を祀り大赦。
  • 二月、胄子律博士を初めて設置。壬午、衛尉卿楊公則に宿衛兵を率いさせ洛口を塞ぐ。壬辰、交州刺史李凱が反乱、長史李畟が討平し交州を曲赦。この月、建興苑を秣陵建興里に造営。
  • 夏四月丁巳、行宕昌王梁彌博を安西将軍・河涼二州刺史とし正式に宕昌王に封じる。六月庚戌、孔子廟を建立。冬十月、中軍将軍揚州刺史臨川王宏を都督北討諸軍事とし魏を侵攻、その軍資として王公以下に租と田穀を上納させた。この年大豊作で米斛三十銭。

天監五年(506年)

  • 正月丁夘朔、郡国の旧族で朝位に在る者のいない家について、選官に推挙させる詔。乙亥、前司徒謝朏を中書監・司徒とする。甲申、皇子綱を晋安王に立てる。三月丙寅朔、日食。
  • 夏四月甲寅、初めて詔獄を設置、建康県に三官を置き廷尉三官と獄事を分掌させ、建康を南獄、廷尉を北獄と号した。五月、集雅館を設置し逺方の学者を招いた。秋七月乙丑、鄧至国が朝貢。八月辛酉、東宮を造営。九月、臨川王宏の軍が洛口に至り大潰、損失万計、宏は単騎で帰還。
  • 冬十一月甲子、都下で地震、白毛が生じた。乙丑、出征が長引いたため大赦。魏軍は勝ちに乗じ鍾離を攻撃。十二月癸卯、司徒謝朏が薨去。

天監六年(507年)

  • 春三月庚申、隕霜殺草。この月、三頭の象が建鄴に入る。夏四月壬辰、左右驍騎・左右游撃将軍の官を設置。癸巳、曹景宗・韋叡らが邵陽洲で魏軍を破り斬獲万計。己酉、江州刺史王茂を尚書右僕射とする。丁巳、揚州刺史臨川王宏を驃騎大将軍・開府儀同三司、右光禄大夫沈約を尚書左僕射とする。五月己巳、中衛・中権将軍を設置し驍騎を雲騎、游撃を游騎と改称。
  • 秋八月戊子、大赦。戊戌、都下大水。九月乙亥、閲武堂を徳陽堂、聴訟堂を儀賢堂と改称。冬閏十月乙丑、開府臨川王宏を司徒、行太子太傅尚書左僕射沈約を尚書令、行太子少傅吏部尚書袁昂を兼尚書右僕射とする。甲申、左光禄大夫夏侯詳を左僕射とする。十二月丙辰、左僕射夏侯詳が卒去。

天監七年(508年)

  • 正月戊子、元樹を恒朔二州都督とし魏郡王に封じる。戊戌、神龍仁獣闕を端門・大司馬門外に造営する詔。二月乙夘、越城の南に国門を新設。乙丑、鎮衛将軍以下を十品二十四班に増置し気序に応じ十品八班(八風に象る)を別に置き、施外国将軍二十四班を加え計百九号とした。庚午、州郡県に州望・郡宗・郷豪各一人を置き人材推薦を専掌させる詔。乙亥、車騎大将軍高麗王高雲を撫東大将軍・開府儀同三司に進号。
  • 夏四月乙夘、皇太子の納妃により大辟以下を赦し朝臣・近侍に頒賜。五月、都下大水。戊子、蘭陵県の建陵・脩陵修築、周囲五里内の住民の賦役を終身免除。己亥、宗正・太僕・大匠・鴻臚を再置し太府・太舟を増置して十二卿とし、朱衣直閤将軍の官を設置。六月辛酉、陵監を令と改称。
  • 秋八月丁巳、皇子繹が誕生(のちの元帝)、大辟以下未確定の罪を赦す。九月壬辰、童子奉車郎を設置。癸巳、皇子績を南康王に立てる。冬十月丙寅、呉興太守張稷を尚書左僕射とする。丙子、大挙北侵の詔。丁丑、魏の県瓠鎮主白皂生が豫州刺史胡遜を通じ城ごと内属。この年、魏の永平元年。

天監八年(509年)

  • 正月辛巳、南郊を祀り大赦。壬辰、魏の鎮東参軍成景雋が宿豫城ごと内属。夏四月戊申、司徒臨川王宏を司空・揚州刺史、車騎将軍領太子詹事王茂を本号のまま開府儀同三司とする。秋七月癸巳、巴陵王蕭宝義が薨去。冬十一月壬寅、皇子続を廬陵王に立てる。

天監九年(510年)

  • 正月乙亥、左光禄大夫王瑩を尚書令とする。庚寅、緑淮塘を新設。三月己丑、国子学に幸し講義を親臨、祭酒以下に頒賜。乙未、皇太子・王侯の子で従師の年齢にある者に就学を命じる詔。夏四月丁巳、尚書五都令史の選任を士流から用いる制度に改める。六月癸丑、盗賊が宣城太守朱僧勇を殺害。閏六月己丑、宣城の盗賊が呉興へ転じ太守蔡撙が討平。冬十二月癸未、国子学に幸し胄子を策試し訓授の司に頒賜。この年、于闐・林邑国が朝貢。

天監十年(511年)

  • 正月辛丑、南郊を祀り大赦。戊申、荆州で騶虞(瑞獣)が出現。三月、盗賊が東莞・琅邪二郡太守劉晰を殺害、朐山を魏徐州刺史盧昶に引き渡す。夏六月、国子祭酒張充を尚書右僕射とする。冬十二月、山車が臨城県に出現。振逺将軍馬仙琕が魏軍を大破し斬馘十余万、朐山城を奪回。この年、宮城門を三重楼に改築し二道を開く。宕昌国が朝貢、婆利国が金の敷物を献上。

天監十一年(512年)

  • 正月壬辰、連座で捕縛される家族の老幼の護送を停止する詔。鎮南将軍江州刺史建安王偉を開府儀同三司、司空揚州刺史臨川王宏を太尉、驃騎将軍王茂を司空とする。二月戊辰、新昌・済陽二郡で野蚕が繭を作る奇瑞。三月丁巳、旱害のため揚徐二州を曲赦。庚申、高麗国が朝貢。夏四月、百済・扶南・林邑等国が朝貢。秋九月、宕昌国が朝貢。冬十月乙未、呉郡太守袁昂を兼尚書右僕射とする。己酉、太尉揚州刺史臨川王宏を驃騎将軍・開府同三司の儀に降格。癸丑、斉の宣徳太妃王氏が薨去。この年、魏の延昌元年。

天監十二年(513年)

  • 正月辛夘、南郊を祀り大辟罪以下を赦す。辛酉、兼尚書右僕射袁昂を正官とする。丙寅、行き倒れの遺骸を埋葬させる詔。辛巳、太極殿を新築、十三間として閏数に合わせる。閏三月乙丑、特進中軍将軍沈約が卒去。夏四月、都下大水。六月癸巳、太廟の基壇を九尺増築。秋九月、揚州刺史臨川王宏を司空に加え、司空王茂を驃騎将軍・開府同三司の儀・江州刺史とする。冬十月丁亥、明堂の低湿地を改善させる詔。

天監十三年(514年)

  • 二月庚辰朔、西南で震動があり天が裂けるようだった。丁亥、耕藉田、大赦、孝悌力田に爵一級。夏六月、都下で「棖棖(妖怪)が人の肝と血を天狗に食わせる」との流言が広まり民が大いに恐れたが二旬で止んだ。秋七月乙亥、皇子綸を邵陵王、繹を湘東王、紀を武陵王に立てる。この年、林邑・扶南・于闐国が朝貢。浮山堰を築造。

天監十四年(515年)

  • 正月乙巳朔、皇太子の元服、大赦、父を継ぐ者に爵一級を賜与。辛亥、南郊を祀り逺近に人材を求める詔、墨刑に代わる重刑の条項を廃止。丙辰、汝陰王劉胤が薨去。丁巳、魏の宣武皇帝が崩御。夏四月丁丑、驃騎将軍開府同三司の儀・江州刺史王茂が薨去。冬十月、浮山堰が決壊。この年、蠕蠕・狼牙修国が朝貢。

天監十五年(516年)

  • 三月戊辰朔、日食。夏四月、高麗国が朝貢。六月庚子、尚書令王瑩を左光禄大夫・開府儀同三司、尚書右僕射袁昂を左僕射、吏部尚書王暕を右僕射とする。秋八月、蠕蠕・河南国が朝貢。九月辛巳、左光禄大夫開府儀同三司王瑩が薨去。壬辰、大赦。冬十一月、交州刺史李畟が反乱者阮宗孝を斬り首を建鄴に送る、交州を曲赦。この年、魏の孝明皇帝熙平元年。

天監十六年(517年)

  • 正月辛未、南郊を祀り、貧家の三調免除、無田業者への賦給、産子の家の賦役軽減、寃獄の是正、孤老鰥寡の救済を命じる詔。二月辛亥、耕藉田。甲寅、罪人を赦す。三月丙子、太医が生類を薬に用いることを禁じる勅、織官の錦の文様から仙人鳥獣の意匠を排除。天地宗廟に殺生をやめる旨を告げ、郊廟の供物を麪(小麦粉)に代えたが山川の祀りは従来通りとした。公卿の異議・世間の喧騒があったが従わなかった。冬十月、宗廟の供物に初めて蔬果を用いる。この年、河南・扶南・婆利等国が朝貢。

天監十七年(518年)

  • 二月癸巳、雍州刺史安成王秀が薨去。甲辰、大赦。三月丙申、建安郡王偉を南平王に改封。夏六月乙酉、中軍将軍中書監臨川王宏を本号のまま行司徒とする。秋八月壬寅、兵の官婢で男六十六歳・女六十歳の者を編戸に免ずる詔。閏八月、干陁利国が朝貢。冬十月乙亥、行司徒臨川王宏を正官とする。十一月辛亥、南平王偉を左光禄大夫・開府儀同三司とする。この年、魏の神亀元年。

天監十八年(519年)

  • 正月甲申、領軍将軍鄱陽王恢を征西将軍・荆州刺史、荆州刺史始興王憺を中撫将軍としともに開府儀同三司、尚書左僕射袁昂を尚書令、右僕射王暕を左僕射、太子詹事徐勉を右僕射とする。辛夘、南郊を祀り孝悌力田に爵一級を賜う。夏四月丁巳、帝は無碍殿で仏戒を受け、罪人を赦す。秋七月、于闐・扶南国が朝貢。