南史卷五 齊本紀下第五 鬱林王・海陵王・明帝(鸞)・東昏侯・和帝

明帝の第八子、諱は宝融、字は智昭(488–502年)。東昏侯討伐の兵に擁立されて江陵で即位したが実権は蕭衍が握り、まもなく梁に禅位、まもなく殺害された。斉朝最後の皇帝。

年表(5件)

廃帝鬱林王(昭業)――出自と幼少期

  • 諱は昭業、字は元尚、小字は法身。文恵太子の長子。髙帝が相王として東府に鎮していたころ、5歳の昭業は髙帝の白髪を抜く役目の者に「私を誰と言う」と尋ね「太翁(曾祖父)」と答えられ、髙帝は「曾孫にまで白髪を抜かれるとは」と笑って鏡と毛抜きを投げ捨てたという逸話がある。武帝即位後、南郡王に封じられ、永明5年(487年)冠礼、11年、文恵太子薨去に伴い皇太孫に立てられ東宮に居した。同年7月戊寅、武帝崩御、皇太孫が即位し大赦。護軍将軍武陵王曄を衛将軍、征南大将軍陳顕達を開府儀同三司とするなど布陣。竟陵王子良を太傅とし班剣を増す。三調・逋債を免除し、御府・無用の池田・関市の税を減じた(西昌侯鸞が実質政務を執り、恩恵が実効を伴ったため天下が帰服したという)。文恵太子を世宗文皇帝と追尊、皇太后・皇后何氏を立てる。

隆昌元年(494年)

  • 正月丁未、大赦・改元。太傅竟陵王子良に殊礼、西昌侯鸞を大将軍とし親兵五百人を加える。鄱陽王鏘を尚書右僕射とする。南郊祭祀。4月、武陵王曄・竟陵王子良が相次いで薨去。5月、日食。7月癸巳、皇太后の令により帝は廃されて鬱林王となった。
  • 帝は容姿端麗で隷書を能くし、武帝に鍾愛されたが、実際は矯情で邪心を隠し、無頼の徒二十余人と衣食を共にし放蕩を極めた。妃何氏とともに市井の富人から金を巻き上げ、廃立後の恩賞名簿を密かに用意するなど不逞の企てを重ねた。文恵太子の喪の際は号泣して見せたが、私室に戻ると宴楽にふけった。武帝の病の際は巫女楊氏に祈祷させ早い崩御を願ったともいう。武帝の遺言「五年は宰相に任せよ」を守らず、即位後まもなく招婉殿を壊し馬場を作り、狩猟・闘鶏に興じ、府庫を蕩尽した。西昌侯鸞がしばしば諫めたが聞かず、皇后との淫乱、中書令何胤・直閤将軍曹道剛らを用いた専横も甚だしく、ついに鸞を除こうと図ったが察知され、蕭諶らが軍を率いて宮中に入り帝を弑した。享年22。徐龍駒の邸宅近くに王礼をもって葬られた。

廃帝海陵恭王(昭文)

  • 諱は昭文、字は季尚。文恵太子の第二子。永明4年(486年)臨汝公に封じられ、鬱林王即位後に新安王と改封。鬱林王廃位ののち西昌侯鸞に擁立され、延興元年(494年)7月丁酉に即位、大赦・改元。西昌侯鸞を驃騎大将軍・録尚書事・都督揚州刺史とし宣城郡公に封じ実権を掌握させた。この間、鄱陽王鏘・随王子隆・安陸王子敬・晋安王子懋・南平王鋭・晋煕王銶・宜都王鏗ら宗室が相次いで誅された。10月、宣城公鸞に黄鉞を加え太傅・都督中外諸軍事とし王に進爵。桂陽王鑠・衡陽王鈞・江夏王鋒・建安王子真・巴陵王子倫も誅殺された。帝の起居はすべて鸞に諮ってから行われ、些細な望みすら通らなかった。11月、皇太后の令により帝は廃されて海陵王となり、翌月殞じた(漢の東海王彊の故事に倣い温明秘器で葬礼を行う)。

髙祖明皇帝(鸞)――出自と即位への道

  • 諱は鸞、字は景栖。始安貞王道生の子、小字玄度。幼くして父を失い髙帝に諸子同様に養われた。宋の泰豫元年(472年)安吉令として厳能の誉れ高く、昇明中に淮南・宣城太守を歴任し輔国将軍。髙帝即位後、西昌侯に封じられ郢州刺史。永明元年(483年)侍中・領驍騎将軍、清廉な行いで知られた。累進して尚書左僕射・領右衛将軍。武帝の遺詔により侍中・尚書令、鎮軍将軍。隆昌元年に大将軍、開府儀同三司。海陵王擁立ののちは驃騎大将軍・録尚書事・揚州刺史・都督、班剣四十人、宣城郡公に封じ東府城を鎮め、のち仮黄鉞・都督中外諸軍事・太傅・領大将軍・揚州牧を加え、剣履上殿等の殊礼を受け、宣城王に封じられた。海陵王廃位により群臣三請を経て帝位に即いた。

建武元年(494年)

  • 10月癸亥、即位、大赦・改元。文武に位二等を賜う。王敬則を大司馬、陳顕達を太尉とする。過度な儀礼・献上を禁じる詔。11月壬申、日食に際し帝は沐浴斎戒し朝務を止め終日正座した。始安貞王を景皇、妃江氏を懿后に追尊し陵を修安と号す。桂陽王鑠ら諸王の子は列侯とし属籍を復す。四方に大使を派遣し民情を視察させる。永明の制を改め晋宋の旧典に復し太子は少傅に師礼を取る。皇子ら六王を封じる。官長の私的贈答を禁じ、諸工に休息を与える。12月、皇子宝巻を皇太子に立てる。永明中に致仕させられた七十歳以上の官人を旧に復す詔。この年、魏の孝文帝が洛陽へ遷都。

建武二年(495年)

  • 正月、都下の囚人を軽減。王公以下に讜言を求める詔。魏が豫・司・徐・梁四州を攻め、王広之・蕭坦之・沈文季らを派遣し防戦。蕭恵休が鍾離で魏軍を撃退。陳顕達に西北道諸軍事の節を与える。3月、司州刺史蕭誕が魏軍を撃破。魏軍は寿春から撤退し解厳。魏軍が漢中の梁州を包囲、蕭懿がこれを撃退。6月、領軍蕭諶・西陽王子明・南海王子罕・邵陵王子貞を誅する。12月、晋の諸陵の修理と守衛増強を詔する。

建武三年(496年)

  • 各地の税制・軍務の詔令が続く。魏軍が司州の櫟城戍を攻め魏僧崏が撃破。閏12月、皇太子の冠礼。

建武四年(497年)

  • 正月、大赦。出産者への免税など民生の詔。尚書令王晏を誅する。8月、魏軍が沔北を攻め、11月には司雍二州にも迫り、蕭衍・張稷らを派遣して防戦。氐の楊霊珍を北秦刺史・仇池公・武都王に封じる。12月、崔慧景に雍州救援を命じる。

永泰元年(498年)

  • 正月、大赦。沔北諸郡が相次いで魏に敗れ、新野太守劉忌は食糧尽きて土を煮て粥とするも城陥り戦死。陳顕達に雍州救援を命じる。河東王鉉ら十名近い宗室諸王を誅する(臨賀王子岳・西陽王子文・衡陽王子峻・南康王子琳・永陽王子珉・湘東王子建・南郡王子夏・巴陵王昭秀・桂陽王昭粲)。裴叔業が淮北で魏軍を破る。帝の病により改元、大赦。5月、大司馬会稽太守王敬則が謀反し、劉山陽が東討して斬り、その首を建業に伝える。7月己酉、正福殿で崩御、享年47。遺詔で徐孝嗣・沈文季・江祏・江祀・劉暄らに輔政を託し、陳顕達・蕭恵休・崔慧景に軍事を委ねた。諡して明皇帝、廟号高宗、興安陵に葬る。
  • 帝は明敏で吏才に富み法を厳しく執行し、寒人を側近に用い節倹を旨とした。新林苑を廃して民に地を返し、東田を売却するなど武帝時代の贅を改めた。輿輦の金銀装飾を剥がし牙角に代えるなど倹約を徹底したが、性は猜疑深く誅戮を頻繁に行い、道術や占卜を好み出行の際は吉凶を占い方角を偽って告げた。病を隠していたが、白魚を薬として求めさせたことで発覚。厭勝のため赤い衣を身につけ、後湖の水が病の原因とする巫覡の言を信じ、水路を塞ごうとしたが崩御により中断した。

廃帝東昏侯(宝巻)

  • 諱は宝巻、字は智蔵、明帝の第二子。もとの名は明賢、明帝輔政後に改名。建武元年(494年)皇太子。永泰元年(498年)7月己酉、明帝崩御により即位。晋安王宝義に征北大将軍を加え、律科を刪省、蕭坦之・江祏に殿省の宿衛を、劉暄・江祏に延明殿の直を命じる。皇后褚氏を立てる。尚書令徐孝嗣の議により婚礼の器を陶製に改め奢侈を抑制。

永元元年(499年)

  • 正月、大赦・改元。南郊祭祀。宝融ら宗室を改封。2月、太尉陳顕達が魏軍に馬圏で敗れる。4月、魏の孝文帝崩御。皇子誦を皇太子に立てる。7月、江祏・江祀を誅殺、大地震が翌年まで続き小屋が多く倒壊。都下大水で死者多数、賑恤を行う。8月、馬圏戦死者を弔う詔。始安王遥光が東府に拠って反乱、蕭坦之が討伐し斬る。9月、蕭坦之・曹武を誅殺、劉暄も誅殺。相次ぐ大臣誅殺により大赦。10月、徐孝嗣・沈文季を誅する。11月、太尉江州刺史陳顕達が尋陽で反乱、崔慧景が南討し12月に斬る。

永元二年(500年)

  • 正月、豫州刺史裴叔業を討伐するが叔業は病死、甥植は寿春を魏に降す。3月、崔慧景に寿春攻撃を命じるが、4月に崔慧景は広陵で反乱し建康に迫る。南徐州刺史江夏王宝玄が京城を挙げてこれに応じたが、王瑩ら官軍が奮戦し慧景は敗れ斬られる。豫州刺史蕭懿が援軍を率い入京し尚書令となる。5月、江夏王宝玄が誅される。7月、宮中で火災、多くの殿舎を焼失。10月、尚書令蕭懿を殺す。11月、西中郎長史蕭頴冑が荊州で挙兵。12月、雍州刺史蕭衍が襄陽で挙兵。この年、魏は宣武帝景明元年。
  • 帝は東宮にあったころから遊興を好み学問を嫌い、明帝も咎めなかった。訥弁で朝士との交わりを好まず、明帝の遺訓(隆昌の廃立を戒めとし先手を打つべしとの教え)を口実に群小を用い重臣を次々誅殺した。閹人王宝孫らと後堂で夜通し馬戯・鼓譟に興じ、政務は数十日滞留し行方も分からぬことが多かった。狩猟・出遊を好み、民家を強制退去させて沿道数十里を空にする「屏除」を行い、多数の死傷者・家財略奪を生んだ。宮殿の造営に凝り、芳楽殿・仙華殿など多くの殿舎を急造し、寺塔の宝飾まで剥ぎ取って流用、金蓮華を地に敷いて寵姫潘妃を歩かせる(「歩歩生蓮華」)など奢侈を極めた。潘妃の父潘宝慶らは富人を誣告して財を奪い、蒋侯神を篤く信仰した。

永元三年(501年)

  • 正月、日食。3月、南康王宝融が江陵で皇帝位に即く(後の和帝)。以後、荊州方面の蕭頴冑・蕭衍らの軍と建康朝廷側の攻防が続き、9月には蕭衍が南豫州に至り官軍を破り、10月には朱雀航でも王珍国らが敗れる。東府城・京口が相次いで降り、建康は包囲される(「長囲」と呼ばれた)。12月丙寅、雍州刺史王珍国・侍中張稷が兵を率い宮中に入り帝を弑した。享年19。
  • 東昏侯は幼少より書学を好まず鼠捕りを楽しみとし、即位後は群臣誅殺に憚りなく、後堂での馬戯・鼓吹に耽り、昼夜逆転の生活を送った。皇太子生母黄貴嬪の死後、潘氏を貴妃とし寵愛し、狩猟・出遊にはおびただしい儀仗と奇抜な衣装を用いた。射雉場を各地に設け、民の家屋を破壊し立ち退かせるなど暴政を極めた。蕭衍の包囲が迫っても金銭を惜しんで将士への恩賞を出し渋り、茹法珍らの進言も聞かなかった。最終的に王珍国・張稷が蕭衍に応じて宮中に兵を入れ、帝は含徳殿で笙を吹いていたところを襲われ、黄泰平に膝を斬られて殺された。宣徳太后の令により漢の海昏侯の故事に倣い東昏侯と追封された。

和帝(宝融)

  • 諱は宝融、字は智昭、明帝の第八子。建武元年(494年)随郡王、永元元年(499年)南康王に改封、西中郎将・荊州刺史・督九州軍事として出鎮。永元二年(500年)11月、長史蕭頴冑に擁立され挙兵。翌年(永元3年=中興元年、501年)2月、群僚が宣徳太后の令を奉じ相国・荊州牧・黄鉞を授かる。3月乙巳、江陵にて皇帝位に即く。
  • 中興元年(501年)3月乙巳、即位・大赦・改元(永元3年を中興元年とする)。蕭頴冑を尚書令、蕭衍を尚書左僕射・都督征討諸軍事とし建康攻略を進める。10月頃、寶卷(東昏侯)を涪陵王に改封する詔が出される。11月、蕭頴冑が卒去。12月丙寅、建康城が陥落。宣徳皇太后の令により蕭衍を大司馬・録尚書事・驃騎大将軍・揚州刺史とし建安郡公に封じる。

中興二年(502年)

  • 正月、宣徳皇太后が臨朝。大司馬蕭衍に都督中外諸軍事・殊礼を加える。2月、湘東王宝晊を誅する。蕭衍を梁公に進め九錫の礼を備える。3月、鄱陽王宝寅が魏へ亡命、邵陵王宝攸・晋煕王宝貞を誅する。帝は姑熟に至り、丙辰、梁に禅位。廬陵王宝源が薨去。4月辛丑、禅譲の詔が至り皇太后は外宮に遷る。梁は帝を巴陵王として姑熟に宮を置く。戊辰、巴陵王は薨去、享年15。斉和帝と追尊され恭安陵に葬られた。
  • 梁武帝が南海郡を巴陵国邑として帝を遷そうとした際、范雲は明答を避け、沈約が「今と昔とは事情が異なり、魏武帝の言うように虚名を慕って実禍を招くべきでない」と進言、梁武帝はこれに頷いた。梁は鄭伯禽を遣わし生金を進めたが、帝は「死に金は要らぬ、酒で十分」と述べ酒一升を飲み干し、伯禽がこれに毒を加えて絶命させたという。
  • 民間の服飾・讖言にまつわる予兆の逸話が多く伝えられる。武帝の代に望気者が新林・婁湖・青渓に天子の気ありと言い、楼苑を建てて鎮めようとしたが、のちに明帝が青渓の東府城に拠って挙兵し、和帝の代には梁武帝の軍営が新林に置かれ、武帝の旧宅も征虜に近かったなど、事後にその符合が語られた。また服装の変遷(下屋帽の裙を反転させる、逐鹿帽、反縛黄離、著調帽、仮両など)にも王朝交代の予兆が読み込まれた。

史論

  • 鬱林王は嫡長の身分にあり、まだ落ち度が現れぬうちは武帝の心も揺るがず、その地位を保っていた。しかしやがて宮中で罪過が生じ、害は遠くまで及ばずとも社稷を傾けるに足るものであった。郭璞は「永昌」の号に二つの日の象があると称したが、「隆昌」の号も実は同じ意味を持っていた。明帝は傍系より出て重責を担い、機に乗じて事を起こし大いに殺戮を行い涙を流しながら誅を行ったが、これは義挙とは言い難く、事がもし正当でなければどうして内心恥じずにいられようか。その後自ら本枝を興したが、後継が孤弱で、託した相手が凶愚であったため宗廟を覆すに至った、これも理の必然であろう。名は行いを表すものであり、昔の賢人はその範を後世に示した。東昏侯という諡は「巻」の名にふさわしく、その予兆は先んじて現れていたのであり、これもまた天命であろう。