南史卷四 齊本紀上第四 髙帝(道成)・世祖武皇帝(賾)

髙帝の長子、諱は賾、字は宣遠(450–493年)。父の後を継いで即位し、北魏と使節を往来させつつ内政の充実に努めた「永明の治」と呼ばれる安定期を築いたが、晩年は皇太子の早世に見舞われた。

年表(8件)

出自と生い立ち(髙帝)

  • 髙帝、諱は道成、字は紹伯、小字は鬬將、姓は蕭氏。もと東海郡蘭陵県中都郷中都里の人。晋の元康元年、恵帝が東海郡を分けて蘭陵郡を置いたため、以後蘭陵郡人と称した。永嘉の乱で江南へ渡り、晋陵郡武進県東城里に寓居、南に置かれた土地であるため「南蘭陵」と呼ばれた。
  • 曽祖の儁は字子武、即丘令。祖父の楽子は字閨子、輔国参軍、宋の昇明中に太常を贈られた。父の承之は字嗣伯、大志と才力を持ち、宋の漢中太守として梁州平定に功があり龍驤将軍に加えられ、のち南太山太守・晋興県五等男、右軍将軍を歴任し、元嘉24年(447年)に没した。梁土(漢中)の人々は廟を建てて祀った。昇明2年(478年)散騎常侍・金紫光禄大夫を追贈された。
  • 髙帝は宋の元嘉4年丁卯(427年)生まれ。容姿は非凡で、竜のような額、鐘のような声、身長七尺五寸、体に鱗のような文があったという。旧宅の桑の木にまつわる予兆の逸話が伝わる。13歳で雷次宗に礼記・左氏春秋を学ぶ。

宋朝における事跡

  • 17歳のとき、彭城王義康が黜けられ豫章に流された際、父に従い南行。19歳で沔北の蛮の反乱討伐に従軍。23歳、雍州刺史蕭思話の襄陽鎮守に随行し左軍中兵参軍となる。29歳、仇池征討で武興・蘭皋の二塁を破り関中に迫るが、宋文帝崩御を聞いて南鄭に還った。のち晋興県五等男の爵を継ぎ、建康令として能吏の誉れを得た。少府蕭恵開はこれを魏武帝の若き日に例えて称賛した。
  • 宋明帝即位後、輔国将軍として東討し、会稽太守尋陽王子房ら諸郡の叛乱を平定、徐州刺史薛安都が魏に降り従子索児に淮陰を攻めさせた際もこれを撃破。驍騎将軍・西陽県侯、のち巴陵王衛軍司馬として会稽に随鎮。江州刺史晋安王子勛の乱で臨川内史張淹が三呉に侵入した際、明帝の命で討伐にあたり、装備不足を椶皮の馬具・折竹の疑兵で補い、賊を威嚇して撃退した。
  • 桂陽王征北司馬・南東海太守・行南徐州事を経て、張永らが彭城で敗れ淮南が手薄になると仮冠軍将軍・持節都督北討前鋒諸軍事として淮陰を鎮め、南兖州刺史に転じた。明帝は髙帝が人臣の相にあらずとの流言を疑い、毒酒を試したが髙帝は動じず飲み干し、疑いは解けた。泰始7年(471年)召還にあたり部下は応じないよう勧めたが、髙帝は事を急げば疑われるとして応召した。散騎常侍・太子左衛率を拝す。明帝崩御の遺詔により右衛将軍領衛尉となり、尚書令袁粲・護軍褚彦回・領軍劉勔とともに機事を掌り、「四貴」と称された。
  • 元徽2年(474年)5月、江州刺史桂陽王休範が尋陽で挙兵し朝廷は動揺したが、髙帝は新亭に急ぎ布陣すべきと主張(中書舎人孫千齢は梁山守備を唱えたが退けた)、単車白服で新亭に出た。使持節都督征討諸軍事・平南将軍を加えられ、新亭に築城しつつ賊軍を迎撃。自ら衣を解いて高臥し軍心を鎮め、夜襲の混乱時には燭を執って正座し将士を制した。張敬児らとともに休範を大破しその首を斬った。乱平定後、散騎常侍・中領軍将軍・都督南兖州刺史・鎮軍将軍を加えられ、公に進爵。以後、袁粲・褚彦回・劉彦節と交代で禁中に宿直し政務を決し、「四貴」と呼ばれた。
  • 蒼梧王(後廃帝)の暴虐が募り、髙帝の腹を的に矢を射る、居所を焼くなど幾度も害されかけたが、いずれも冷静に対処し難を逃れた。建平王景素の挙兵も討平した。元徽5年(477年)7月戊子、楊玉夫らが直閤将軍王敬則と謀り蒼梧王を弑し、その首を髙帝に届けた。髙帝は戎服で入殿し、袁粲・褚彦回・劉彦節と後継を協議、王敬則が刀を手に諸将を促して髙帝を推戴しようとし、髙帝は袁粲・劉彦節に譲ろうとしたが両者とも受けず、結局東城に迎えられていた順帝を立てた。

相国・斉王への道

  • 昇明元年(477年)、東府に移鎮し侍中・司空・録尚書事・驃騎大将軍を加えられ竟陵郡公に封じられた。同年12月、荊州刺史沈攸之が反乱、同時に尚書令劉彦節・司徒袁粲、王蘊、黄回らも密かに挙兵を謀ったが、髙帝は先手を打って劉韞・卜伯興ら内応者を誅し、石頭を攻めて袁粲・劉彦節を斬り、王蘊らも討ち平らげた。黄回は帰順した。
  • 昇明2年(478年)2月、沈攸之の乱が平定。宋帝は髙帝を太尉・都督十六州諸軍事に進め、黄鉞を賜った。3月班剣を増し、9月には仮黄鉞・都督中外諸軍事・太傅・領揚州牧・剣履上殿・入朝不趨・賛拝不名を加えられた。
  • 昇明3年(479年)3月、宋帝は髙帝を相国・総百揆に進め、十郡を封じて斉公とし、九錫の礼を備えた。冊文には桂陽休範討伐、張淹討伐、対魏防衛、桂陽の乱平定、蒼梧王弑逆後の混乱鎮定、袁粲・劉彦節討伐、沈攸之討伐など数々の功が列挙された。髙帝は三度辞退したのち受けた。4月、斉公から斉王に進み封は二十郡に増され、天子の旌旗・十二旒の冕を用いることを許された。宋帝は禅位の詔を下し、髙帝は固辞したが群臣の固請により受禅した。

建元元年(479年)

  • 4月甲午、南郊で柴燎の礼をもって即位、改元して建元とし、大赦・爵位加賜を行った。父母を追尊し、宋帝(順帝)を汝陰王に封じ丹陽の故県に宮を築かせた。車旗服色は晋宋の故事に倣った。宋の諸王は公に、郡公主は県君に降格された。劉穆之・王弘・何無忌の祀を存続させた。
  • 9月、汝陰王(宋順帝)が薨じ、宋順帝と追諡した。
  • この年、皇太子賾を立て、皇子嶷ら六王を封じ、陳留国を省き、南蛮校尉官を復置するなど諸政を行った。

建元二年(480年)

  • 正月、大赦。司空褚彦回を司徒とし、王儉を左僕射とする。2月、魏軍が寿陽を攻め、豫州刺史垣崇祖がこれを撃退。百済・高句麗(楽浪公髙璉)・蠕蠕と使者を往来させ朝貢を受けた。

建元三年(481年)

  • 正月、王公卿士に讜言を求める詔。皇子鋒を江夏王に立て、南蛮校尉官を罷める。東宮の礼制を定め、大赦を行う。蠕蠕国と共に魏を討つ計画があり獅子皮の袴褶を献上された。会稽山陰県に獄丞を置く。

建元四年(482年)

  • 2月、帝が病に伏す。3月庚申、司徒褚彦回・左僕射王倹に顧命を託す。壬戌、臨光殿にて崩御、享年56。群臣は諡して高皇帝、廟号太祖とし、東府前の渚から龍舟に乗せ、4月武進の泰安陵に葬った。

髙帝の人となり

  • 度量広く、喜怒を色に表さず、深沈寡黙で四海を治める志を持ち、博学で文章を能くし、草書・隷書を善くし囲碁は第二品であった。困難の中でも学問を廃さなかった。即位後は華美な物を身辺から遠ざけ、玉の飾りを打ち砕かせ、銅の装飾を鉄に改めさせるなど倹約を旨とした。「天下を治めて十年になれば黄金を土と同じ価にしたい」と述べ、自ら質素を範として天下を導こうとした。侍臣と対等に囲碁を興じるなど寛厚な人柄でもあった。文集は中書侍郎江淹が編纂、東観学士に命じて『史林』三十篇(魏文帝『皇覧』に類する書)を撰させた。
  • 龍にまつわる夢、墓所の瑞雲、玉璽の出土、讖言の類が数多く伝えられ、蕭道成の受命を予兆するものとされた(廬山道人張陵の木簡、剡県の刻石、河洛讖、王子年の歌謡など)。

世祖武皇帝の出自と若年期

  • 諱は賾、字は宣遠、髙帝の長子。宋の元嘉27年(450年)6月己未、建康県青渓宮で生まれた。誕生の夕、母孝皇后・昭皇后がともに龍が屋に拠る夢を見たため、小字を龍児といった。13歳のとき異夢を見、また璽や異銭を得たとされる。
  • 宋に仕えて贛令となる。晋安王子勛の反乱に従わなかったため南康相沈粛之に郡獄へ囚われるが、族人蕭欣祖の門客桓康らが郡を破って救出し、部曲百余人を率いて挙義した。広興相、晋煕王鎮西長史・江夏内史・行郢州事を歴任。順帝立つと晋煕王夑が撫軍・揚州刺史となり、世祖は左衛将軍としてこれを輔けた。沈攸之の乱に際し盆口城に拠って戦守の備えを固め、髙帝は「これぞ真に我が子」と評した。昇明2年(478年)乱平定後、江州刺史・聞喜県侯。以後、侍中・領軍将軍・尚書僕射・中軍大将軍・開府儀同三司を進み、公に進爵。斉国建国後は斉公世子となり、髙帝即位後は皇太子に立てられた。

建元四年(482年)即位

  • 3月壬戌、髙帝崩御の日に即位、大赦。諸州郡に喪礼を令し辺境の守備は厳にした。褚彦回に録尚書事、王倹に尚書令、張敬児に開府儀同三司を加えた。4月、生母穆妃を皇后に追尊。5月、髙皇帝を南郊に、髙昭皇后を北郊に配祀。6月、河南王長懋を皇太子に立て、竟陵王子良ら六皇子を封じ、皇孫昭業を河南郡王とした。8月、司空褚彦回が薨去。

永明元年(483年)

  • 正月、南郊祭祀・大赦・改元。守宰の俸給を旧に復す。皇弟銳を南平王、鏗を宜都王などに封じる。青渓の旧宮を築き婁湖苑を作り望気を鎮めた。

永明二年(484年)

  • 正月、柳世隆を尚書右僕射とし、後に左僕射。竟陵王子良を護軍将軍兼司徒とする。皇子倫を巴陵王に立てる。玄武湖で講武。扶南国が朝貢し頌章を献ずる。魏との使節往来続く。

永明三年(485年)

  • 正月、南郊祭祀・大赦。総明観を省く。王僧虔薨去。益州に平蛮校尉官を置く。魏との使節往来。

永明四年(486年)

  • 皇子子貞を邵陵王、皇弟銶を晋煕王、鉉を河東王に封じる。魏へ使節を送る。

永明五年(487年)

  • 豫章王嶷を大司馬、竟陵王子良を司徒、臨川王映を車騎将軍等に任じ、開府儀同三司を加える。孫陵岡に商颷館(九日台)を築く。新林苑を興す。

永明六年(488年)

  • 皇子子響を巴東王に封じる。左衛殿中将軍邯鄲超・潁川荀丕が諫言により死を賜る(他事に託して誅された)。琅邪城で講武。土霧が二日続く。

永明七年(489年)

  • 柳世隆を尚書左僕射、豫州刺史西昌侯鸞を右僕射とする。南郊祭祀・大赦。子供を産まぬ規範に反する者への処罰を明確化し、子を産んだ者の父の税を免除。臨川王映・王儉が相次いで薨去。柳世隆が尚書令となる。魏との使節往来。

永明八年(490年)

  • 王奐を尚書左僕射とする。百済王泰を鎮東大将軍・百済王とする。荊州刺史巴東王子響が反乱し丹陽尹蕭順之が討伐、子響は誅された。長沙王晃薨去。魏との使節往来続く。

永明九年(491年)

  • 南郊祭祀。安成王暠薨去。明堂・正陽堂で火災。琅邪城で講武し都下あげて観覧、酒肉を振る舞う。魏との使節往来。

永明十年(492年)

  • 竟陵王子良が尚書令を領し、西昌侯鸞が左僕射となる。故褚彦回・王儉・柳世隆・王敬則・陳顕達・李安人を太祖廟庭に配祀する詔。魏との使節往来。

永明十一年(493年)

  • 王敬則を司空とする。皇太子長懋が薨去。雍州刺史王奐が罪により誅される。皇孫昭業を皇太孫に立てる。旱魃により建康・姑熟で酒を禁ずる。魏地で「赤火」の流言があり治病に用いられ都下で流行した(禁令を出すも止まず)。7月己酉、帝は不予となり延昌殿に移る。まもなく病篤くなり、太孫に社稷を委ね竟陵王子良・西昌侯鸞・王晏・徐孝嗣・王敬則・陳顕達らに輔政を託す遺詔を下す。副葬品を簡素にし、祭祀に牲を用いず菜・茶・干飯・酒脯のみとするよう命じ、出家・寺塔建立を禁じるなど質素倹約を遺命とした。7月戊寅、延昌殿にて崩御、享年54。諡して武皇帝、廟号世祖、9月丙寅に景安陵へ葬られた。

世祖の人となり

  • 剛毅で決断力があり、国を富ませることを第一とした。彫飾・遊宴を好んだことを晩年悔い、崩御にあたっても遊興の費用を戒め、遠近の献上は倹を旨とすべしと詔した。

史論

  • 斉髙帝は事を起こした当初、蒼梧王の暴虐によって天下が危殆に瀕した中、権道をもって天下を済い、功が大きく人望も彼に集まったのであり、水徳(宋)の衰運が人の徳を求めた結果として天下を得たといえる。世祖は継体の君ではあったが実際には創業に等しい艱難を経ており、衣冠を正し旧章を改めず、賞罰を自ら決し、外に驕らず内に多く朝政に参与し、貢賦を整え府庫を充実させ、民を労役に苦しめず、宮室苑囿の造営も国財を損なうほどではなかった。安楽のうちに寿を保った民も多く、斉の良主というべきである。また、斉の紀録には蕭何・蕭望之を先祖とする説があるが、何と望之の系譜を検証すると望之の本伝にはこの記載がなく、これは誤りである。近年、秘書監顔師古が経籍を博く考証して『漢書』注釈でこの誤りを正しており、今それに従い削除した。