南齊書卷五十八 列傳第三十九 南夷

南夷(林邑國)

  • 交州の南、海を三千里行った所にあり、此連九徳、秦代の林邑県である。漢末に王を称し、晋太康五年に初めて貢献。宋永初元年、林邑王范楊邁が誕生した際、母は金の敷物の夢を見た。その光色から中国で紫磨金と称するものを、夷人は楊邁と呼んだためこれを名とした。楊邁の死後、子の咄が立ち、父を慕って再び楊邁と改名した。
  • 林邑には金山があり、金汁が浦に流出し、事尼乾道は金銀の人像(高さ十囲)を鋳造した。元嘉二十二年、交州刺史檀和之が林邑を伐った際、楊邁は金一万斤・銀十万斤・銅三十万斤の輸送を申し出たが、大臣䓯僧逹が諌めて聞かれなかった。和之は進軍し北界の犬戎区栗城を破り、金宝を無数に獲、金人を毀して黄金数万斤余を得た。和之は後に病死し、胡神の祟りとされた。孝建二年、林邑長史范龍跋を揚武將軍とし、楊邁の子孫が代々王を継いだが位号は無かった。
  • 夷人范當根純が国を奪い簒立して王となった。永明九年、使を遣わし金簟等を貢献し、詔して持節・都督緣海諸軍事・安南將軍・林邑王とした。楊邁の子孫范諸農が種人を率いて當根純を攻め本国を取り戻し、十年、持節・都督緣海諸軍事・安南將軍・林邑王とされた。建武二年、鎮南將軍に進号。永泰元年、諸農は入朝の途中海上で溺死し、その子文款が假節・都督緣海軍事・安南將軍・林邑王とされた。
  • 晋の建興中、日南夷帥范稚の奴文が商賈を通じ上国の制度を見、林邑王范逸に城池・楼殿を築かせた。王服は天冠で仏冠に似、香纓絡を身に纏った。国人は凶悍で山川の戦闘を好み、海蠡を吹いて角とし、皆裸で四時暖かく霜雪はない。女を貴び男を賤しみ、師君を婆羅門と呼んだ。一族間で通婚し、婚礼は聘を先に遣わし婿を求め、女の嫁ぐ際は迦藍衣を纏い、婆羅門が婿と婦の手を取り合わせ祝う。喪礼は剪髪を孝とし、野で屍を焼いて葬る。遠界の風俗には、人の死を悟る霊鷲鳥が集まり肉を食らい尽くして飛び去った後、骨を焼いて灰を海に投じるものもある。喪の色は黒を美とし、南方諸国も同様である。区栗城には八尺の表が建てられ日影は南に八寸ずれる。林邑の西南三千余里に扶南がある。

扶南國

  • 日南の南、大海西湾の中にあり、広袤三千余里、大江が西流し海に入る。かつて女王桞葉がいた所、激國人混填が神から弓二張を賜る夢を見て舶に乗り海を渡り、桞葉の船を弓で射て降し、これを妻とした。躶露を嫌い布を身に纏わせ、国を治め子孫が伝えて王槃況に至った。
  • 槃況の死後、大将范師蔓が国人に立てられたが、蔓は病み、姉の子旃が蔓の子金生を殺して自立、蔓の少子長は旃を殺して報復、旃の大将范尋がまた長を殺して王となった(呉晋の時代)。晋宋の世に朝貢が通じ、宋末の扶南王僑陳如闍耶跋摩は商貨を広州に遣わした際、天竺道人那伽仙が同乗して帰国しようとしたが、林邑で遭風し財物を奪われた。那伽仙は間道を経て扶南に達し中国に聖主ありと説いた。
  • 永明二年、闍邪跋摩は釈那伽仙を遣わし上表し、聖主の起居・皇太子・六宮・諸王妃を祝し、五穀豊熟・災害不生等を述べた。また前に商貨が林邑で王に奪われた顛末、自国が仏法興隆・王威厳整であること、聖恩への感謝を長文で述べた。さらに、奴の鳩酬羅が逃走し林邑を破って自ら王を称えたことを述べ、林邑征討を朝廷に請い、自らも助力する旨を上表し、金鏤龍王坐像・白檀像・牙塔・古貝・瑠璃蘇鉝・瑇瑁㯽榔柈等を献じた。
  • 那伽仙は京師に至り、扶南の風俗(摩䤈首羅天神信仰など)を述べた。詔報には、鳩酬羅の叛逆討伐を承認しつつ、朝廷は文徳を以て遠人を懐けたく軽々に兵を興さない方針を示し、交部に応接・討伐を命じた。報賜として絳紫地黄碧緑紋綾各五匹が贈られた。
  • 扶南人は狡知で巧みに周辺の従わぬ民を奴婢とし、金銀・彩帛で交易する。大家の男子は錦を截って横幅とし、女は貫頭衣とし、貧者は布で身を覆う。金銀の器を鍛造し、木を伐って屋を建てる。国王は重閣に住み木柵を城とする。海辺には大箬葉があり、屋根を覆うのに使われる。船は八九丈、頭尾が魚に似る。国王は象に乗り、婦人も象に乗れる。闘鶏・闘猪を楽しみとし、牢獄はなく、訟えがあれば熱湯に金の指輪を投じ探らせたり、赤く焼いた鎖を持たせて手の焼けの有無で正邪を判じたり、水に沈むかどうかで正邪を判じたりする裁判法があった。甘蔗・石榴・橘・㯽榔が多く、鳥獣は中国と同様。性は温和で戦を好まないが、林邑にしばしば侵され交州との交通が難しく、使者もまれにしか至らなかった。

交州の情勢

  • 交州は海島に控え外国と接するため険を恃み従わないことが多かった。宋泰始初、刺史張牧が卒すると交趾人李長仁が牧を殺し部曲を率いて交州に拠り叛したが数年後病死。従弟李叔獻が跡を継ぐも号令が行われず、刺史を求める使を遣わした。宋朝は南海太守沈煥を交州刺史とし、叔獻を煥の寧遠司馬・武平新昌二郡太守としたが、叔獻は朝命を得ると兵を発して険を守り煥を拒んだ。煥は鬱林に留まり病没した。
  • 太祖建元元年、叔獻を交州刺史として安慰したが、叔獻は外国からの貢献を絶ち寡少にした。世祖はこれを討とうとし、永明元年司農劉楷を交州刺史とし南康・廬陵・始興郡の兵を発して交州を征させたところ、叔獻は使を遣わし数年の猶予を願い、純銀兠鍪・孔雀毦を十二隊分献じたが世祖は許さず、叔獻は楷の襲撃を恐れ間道より湘川経由で朝に帰った。
  • 六年、始興太守房法乗が楷に代わり刺史となった。法乗は鎮に着くと病んで政務を執らず読書を好み、長史伏登之が擅権して将吏を改易し、法乗に告げなかった。録事房季文がこれを法乗に告げると、法乗は怒り登之を獄に繋いだが、十余日後、登之は法乗の妹婿崔景叔に賄賂して脱獄し部曲を率いて州を襲い法乗を執えた。登之は「使君は病があるので労を掛けまい」と別室に幽閉し、法乗が書を求めても与えず、法乗は心疾を発したと世祖に啓した。世祖は登之を交州刺史とし、法乗は嶺に至って卒した。法乗は清河の人で、昇明中に太祖の驃騎中兵となり左中郎將に至った。身長八尺三寸、常人より抜きんでた挙措で、青州刺史明慶符と並び朝廷でこの二人だけがそうした体格を持っていた。

史論

  • 史臣曰く、「蠻夷猾夏」とは総じて言うものだが、南夷の雑種は嶼に分かれ国を建て、四方の珍怪はこれに勝るものがない。山海に隠れた瓌宝は目に溢れ、商舶が遠く至り南州に委輸され、交州・広州は富実で王府を満たした。だが充斥の弊も差微であり、徳を以て遠人を懐柔する道はまさにここにあろう。
  • 賛に曰く、司州・雍州は境を分かち荆州・衡陽と入り交じり、地には蛮方があり、東夷は海外に、碣石は扶桑に接し、南域は遥かに極まり泛溟滄に及ぶ。要せずとも貢は皆来王する。